「今の翻訳ミステリー大賞シンジケートは、過去の名作についての言及が少ない!」ーーそんなことをお思いの方はいらっしゃいませんか?

そういう方向けの連載が今回から月イチで始まります。犯罪小説が大好きでしかたがないという小野家由佳氏が、偏愛する作家・作品について思いの丈をぶつけるコラムです。どうぞご期待ください。(事務局・杉江)

 

 

 ふと思い立って、ピーター・ラヴゼイの「肉屋」(1982)を再読してみました。自分がこの短編のどこに感動したのかを確認したくなったのです。
 短編集『煙草屋の密室』(1985)のトップバッターとして読んで、凄いと唸ったことはよく覚えていました。しかし、いざ振り返ってみた時、何がそんなに良かったのかをはっきりした言葉にできない。
 謎や状況設定が物凄く魅力的なわけではないし、とても意外などんでん返しという程でもない。一人の男が肉屋の冷凍庫に閉じ込められて死んだ。実はこういう真相だった、というだけの話で短編ミステリとしてのパーツだけ思い返していった時に「ここが良い!」と即答できない。でも、名編だったという記憶は残っている。
 再読してみて、ようやく説明できるようになりました。「肉屋」は語りが巧いのです。
 ちょっとした登場人物の行動や会話、使われている表現、ひとつひとつで「成る程、今はこういう状況なんだな」「こいつはこういう性格なんだな」ということを読者にするすると理解させていく。たとえば、この短編はある重要人物について前半部では実際には登場させず、肉屋の店員の会話だけで人となりを語る構成になっているのですが、ただ読み進めるだけで、そのキャラクターについてどんな人間なのかをイメージすることができる。
 このどこまでも自然な語りそのものが罠になっているのです。「こうなんだろうな」と思い込まされてしまっていたことが、そうじゃなかったと明かされる。それだけでツイストになっている。熟練の奇術師によるテーブルマジックと同じです。現象そのものはなんてことはなくても「えっ、そんな!」と驚いてしまう。
 ラヴゼイが巧いのはミスリーディングだけではありません。前半で読者が把握したキャラクターのパーソナリティが、ラストのオチのところで驚きとは別の形で活きてきてニヤリとさせられる。
 つまり文句のつけようがない出来栄えの短編小説なのです。やはり「肉屋」は名編です。
 思えば、ラヴゼイはいつだって一流のストーリーテラーでした。
 『偽のデュー警部』(1982)や『バースへの帰還』(1995)といった本格ミステリの名品たちも面白い物語が中心にある。真相が明かされたときに騙されていた、気づかなかった、と膝を打つのは「肉屋」と同じで語りのテクニック故なのです。
 今回紹介する『つなわたり』(1989)はそんなストーリーテラーの面目躍如というべき作品です。ラヴゼイの邦訳長編としては珍しく謎解きミステリの形式をとっていない犯罪小説なのですが、とにかく、最初から最後までぐいぐい読ませる。語りの巧さが思う存分に発揮された逸品なのです。

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 『つなわたり』の主人公は、ともに配偶者に不満を持つ二人の女性です。
 ローズの夫バリーは大した稼ぎもない公務員で、夫婦二人つつましい生活を送っている。しかしローズが苦しんでいるのは貧乏だからではない。バリーが信じられないくらい落ちぶれてしまったからだ。軍隊で出会った時の彼は英雄だった。今は見る影もない。変わっていないのはプレイボーイ気質で女遊びばかりしていること。そのくせ、嫉妬深くて少しでもローズが気に入らない態度を取ると暴力を振るう。嗚呼、どうしてこんなことに。
 アントニアの夫ヘクターは実業家で、お金には不自由はしていない。ただ、アントニアはヘクターが気に入らない。彼との生活は退屈だ。対して愛人のヴィクといる時は心がときめく。アントニアはヴィクと一緒になりたいのだが、熱心なキリスト教徒というわけでもないくせにヘクターは離婚を嫌がる。この態度が更に気に入らない。嗚呼、どうしてこんなことに。
 そんなローズとアントニアがロンドンの街で再会するところから物語は始まります。
 軍隊時代の旧友だった二人の話は弾み、やがて、お互いに夫に対して我慢ならなくなってきていることを打ち明けます。そこでアントニアが言うのです。「あなたも、あたしも、亭主をどうにかしなきゃ、いけないわね」
 そう、本書は交換殺人の物語です。
 ローズとアントニア、それぞれがそれぞれの夫を殺して現状から脱出しようとする。ひょんなことで再会して、という冒頭から作戦の立案に至るまで典型的といって良いくらいのストーリーでしょう。
 しかし、断言します。
 この作品を読んでいる間、読者はありがちな話だと感じることはありませんし、ましてや展開を予想することもできない。
 それはここで展開をネタばらししても「えー!」と驚くような意外なネタが仕込まれているから……ではないのです。「肉屋」と同じです。ラヴゼイは飛び道具ではなく、語りの技巧で読者を夢中にさせ、驚かせる。

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 最序盤の時点で既にラヴゼイの筆は冴え渡っています。
 二人がどのような人生を歩んできて、今どのような状況なのかについて、読者にさらりと理解させる。
 たとえばアントニアに連れていかれた店で、自分の格好に引け目を覚えるローズの心情。たとえばミンクのコートを羽織りながら最近はろくな贅沢もできないと愚痴を言うアントニア。
 わざとらしい説明口調なんて一切なしで、些細な仕草や口調で登場人物がどのような人間なのかを語り切る。小説巧者だと唸らざるを得ません。あっという間にローズに感情移入してしまうし、アントニアの性格と行動力に抵抗とちょっとした羨望を覚えてしまう。
 この状態になってしまったらもう既にラヴゼイの掌の上です。
 二人の作戦はどうなるのだろう、とページをめくる手が止まらない。そのうちにいつの間にかミスリードされてしまっていて、場面場面で「えっ、そんなこと起こっちゃうの!?」と翻弄させられる。
 ここまで先が気になり、かつ、先が読めない小説はそうそうない。
 そして「肉屋」と同じで、ただ意外な展開があるだけでは終わりません。
 予想外の展開である一方で「確かにそうならざるを得ないだろう」と腑に落ちる感触があるのです。
 ローズなら、アントニアなら、それぞれこう考えるだろう。すると、このタイミングで起きるすれ違いは必然だ……さりげない描写で示されてきた要素ひとつひとつが伏線として機能して、意外な展開を納得できるものへ引き上げていく。どんなにスピードを上げても、急にハンドルを切っても、読者が振り落とされることがない。
 まさに綱渡りのようなギリギリの状況を乗り越えた先でローズとアントニアを待つ幕切れもやはり、物語の開始地点では予測もできなかったような着地点でありながら、こうなるしかないというものでもある。
 巧いなあ、と天に向かってため息が溢れてしまいます。

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 初めて読んだラヴゼイ作品はガイド本でオールタイムベスト級と紹介されていた『偽のデュー警部』でした。評判通り、抜群の面白さで一気読みをしました。
 その時は「面白い作品だったな」と一冊で満足してしまったのですが、数年後『苦い林檎酒』(1986)を読んで『偽のデュー警部』に負けず劣らずの出来栄えに驚嘆し、そこからは間を置かず何冊も読み漁って「こんなに面白い物語をたくさん書いてくれているのか!」と幸せな気持ちになったことをよく覚えています。
 『つなわたり』も、そんな〈こんなに面白い物語〉の一つです。
 名手の腕前に酔える長編だと思います。

 

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小野家由佳(おのいえ ゆか)
ミステリーを読む社会人六年生。本格ミステリとハードボイルドとクライムコメディが特に好きです。Twitterアカウントは@timebombbaby