Le Cheval Blanc, Gallimard, 1838/11/25(1938/2執筆)[原題:白馬]
・旧タイトル:L’Auberge du Cheval Blanc, ≪ La Revue de Paris ≫ 1938/5/1-6/15号[白馬荘]
White Horse Inn, White Horse Inn所収, translated by Norman Denny, Hamish Hamilton, 1980(White Horse Inn/The Grandmother/The Country Doctor)[英]*
Tout Simenon t.21, 2003 Les romans durs 1938-1941 t.4, 2012

「クリスティアンを下ろした方がいいんじゃない?」
 なぜ他の言葉ではなくそのいい回しだったのだろう? それになぜ他の瞬間ではなく、聖霊降臨祭ポントゥコット[復活祭から50日目にあたり、聖霊が使徒に降臨したことを祝う日。すなわち季節は夏]の日曜日であるこの瞬間だったのか?
 エミール少年は理解しようとはしなかった。これから頭に刻む彼の父の姿が、後に自分が大人になり、さらに老人になったときに思い出す唯一のものになるとはわからなかったのだ。
 少年は見上げた。彼はまだ7歳で、彼の父は途轍もなく大きく、その肩に跨がるクリスティアンによって、よりいっそう夕陽の落とす影は長くなっていた。
「せめてあなたの帽子をちょうだい。この子が具合を悪くするから……」
 クリスティアンは両手で父のカンカン帽につかまっていたのだ。父はそわそわせず、そんなふうに着こなすことをゲームだとは思ってもいなかった。
 後に、兄のエミールもやはりそれを思い出すことになる。帰還の些細なあれこれや、落日の最後の光に照らされた葦の特別な緑色と同じように。(瀬名の試訳)

 物語がどこへ向かおうとしているのかわからない。起承転結の「転」がない。主人公が守勢から攻勢へと変わるミッドポイントが存在しない。登場人物の誰の心にも入り込めない……。本作『Le Cheval Blanc』(白馬荘)はシムノンの悪癖すべてがそのまま表出されてしまった作品だ。正直、久方ぶりに読み通すのが辛かった。しかし、シムノンのこうした悪癖は、彼の長所と表裏一体でもあるのだ。おそらくほんの少しどこかで筆の走りが変わったなら、すべての短所は裏返って、読者に大きな充足感を与える作品となっただろう。こういう作品の方がむしろ私たち読者の心には残るのである。駄作や愚作や凡作とは違う、失敗作というのでもない、いわば宿命づけられた“自滅作”だからである。
 シムノンの物語には、あたかも自らすすんで破滅へと向かってゆくかのような人物がしばしば登場するが、物語自身にも同じことがいえる。本作は自らすすんでひどい作品になる方向へと一直線に突っ走ってゆき、おのれを省みることさえしない。自滅してゆく作品、というものがこの世には存在するのである。それは読者にも深い傷跡を残す。
 幸か不幸か日本の読者にはこうしたシムノン作品が紹介されたことがない。その意味ではシムノンという作家を知るために私たち日本人も一度はあえてこういう作品を読んでおく必要があるのかもしれない。そうしなければシムノンを深く読むことはできないからだ。

 毎日新聞の書評欄で若島正氏が『運河の家 人殺し』に関し、次の書評を寄せている(https://mainichi.jp/articles/20220709/ddm/015/070/016000c)。「[両作品に]共通しているのは、視点をほぼ主人公に固定する手法によって、対象となる人間をつかまえるシムノンのグリップの強さである」──確かに『運河の家』『人殺し』についていえば正しいのだが、シムノンはそうした固定的視点の物語ばかりを書いたのではなかった。その典型例が本作『白馬荘』であり、ここでは視点はころころと変わり、特定の対象人物(主人公)は存在せず、そのため本作には“グリップ”がない。冒頭部を読まれて皆様はとうぜんこの幸せな一家が物語を牽引する役目を担う人々なのだと思うだろう。ヌヴェールNevers[ロワール川沿いにあるフランス中央部の町]に暮らす彼らは、休日を利用してロワール川沿いを散歩しながら祖母の家に行く途中であり、陽が暮れてきたのでプイィPouillyという町の「白馬荘」に一夜の宿を借りることにした。ちょうど通りがかりに目に留まったオーベルジュ(レストランつきの宿泊施設)だ。しかしその白馬荘を営む家族やメイドたちは癖のある者ばかりで、とくに夜警の老人フェリックスはつねに怒りを心のうちに抱える危険な人物だった。
 その一夜は無事に過ぎて、一家はバスに乗って祖母の家に着いたのだが、父親のモーリス・アルブレ35歳だけは密かにプイィの白馬荘に戻り、夜警のフェリックス老人を呼び出した。宿泊した際にその男が妻ジェルメーヌのおじだとわかったからだ。
 しかし最悪の事態が起こる。フェリックスは店の主人ジャンの銃を盗み、庭裏のガレージに閉じ籠もっていた。戦時中の忌まわしい思い出が彼のなかに蘇りつつあった。ついに積年の怒りが沸点に達して、老人は白昼に誰彼構わず撃ちまくる。モーリスは頭を撃たれて負傷した。店主ジャンや憲兵たちは苦戦を強いられる。白馬荘の中庭は戦場と化していった……。

 いますさまじく大雑把に中盤までのあらすじを書いたが、これだけ読んだらまるでトビー・フーパー監督のスラッシャー映画『悪魔のいけにえ』『悪魔の沼』の先駆的作品のように思われるかもしれない。実際、本当に途中まではそんな感じなのである。何の罪もない平凡な家族が、旅の途中で田舎のモーテルに泊まる。だがそこは恐ろしきソシオパスの住処だった……。あらすじだけを取り出せばまったく同じで、「『インシディアス』のジェイソン・ブラム製作×ノーベル文学賞候補シムノン原作×『クロール-凶暴領域-』のアレクサンドル・アジャ監督が放つ、フランスで上映中止に追い込まれた史上最狂のトラウマムービーついに日本上陸!」などといって宣伝すれば、それなりに話題になるかもしれない。だがやはりシムノンはトビー・フーパーやサム・ライミとは違うのである。決定的なのはソシオパスの描き方の違いだ。今回はっきりわかったのだが、シムノンは意外なことに、真正のソシオパスを描くことができない。
 それ以前の問題点をまず指摘しておく。本作は先に述べたように特定の主人公を持たない群像劇である。作者シムノンは誰の心にも入り込まない。いや、おざなりのかたちで入り込むことはあるのだが、すべて中途半端でいい加減である。登場人物を列記しよう。まずは白馬荘に一泊するアルブレ一家。夫モーリス、妻ジェルメーヌ、兄エミール7歳、弟クリスティアン3歳。白馬荘を経営するのが32歳のジャン氏と美人の妻フェルナン30歳。そして使用人としてテレーズという女(5歳の息子がいる)と太ったニーヌ(やはり息子がいる)、さらに16歳のローズがおり、フェルナン夫人と彼女らが料理をつくってレストランを切り盛りしている。朝食にはクロワッサンとコーヒーが出る。また物語の終盤で登場するが、人手が足りないときは近所に住むメラニーという女もメイドの助太刀に入る。そして夜警のフェリックス・ドロウアン。戦地にいたときは近所のパンデールという男と生死の境界をともにして、それは彼のトラウマになっていた。さらに通りの向かいには肉屋があり、そこの主人ポールはときおり白馬荘に顔を出す。地元の医師や憲兵や巡査も姿を見せる。
 フェリックス老人は、かねてから内なる衝動に囚われ、「おれはいつだって……誰かを殺さなくては……」と何度も呟くような男だった。白馬荘の主人ジャン氏はひそかに使用人テレーズやローズと不義を働いている様子で、フェルナン夫人にそのことを自ら仄めかし、まるで老人の怒りを受け継ぐかのように発作的な攻撃性に駆られることもあった。フェルナン夫人は唯一まともな人間に見えるが、レストランの仕事でいつも忙しい。召使いのニーヌは得体が知れず、台所のドア越しに周囲の人々の動きをただ見ているだけである。
 フェリックス老人は重度のマラリア熱に冒され、ガレージの上階で汚い身なりのまま引き籠もるようになる。だがその発熱が、彼の内に潜んでいた狂気を沸騰させることになるのだ。モーリス・アルブレが白馬荘に戻ってきたその日、老人はついにジャン氏から盗んだリボルバーの引き金を引く。だが最初の弾は空へ向けて発砲された。残る弾丸は5つ。白昼の戦争のなか、主人のジャンは狂気に巻き込まれながらも、頭の隅ではつねに冷静に残りの銃弾を数えている。あと4発、あと3発……。リボルバーの弾倉が空になったらガレージへ突入するのだ。だがそのときもうひとつの、些細とも思える事件が発生していた。客として戻っていたモーリスの腕時計が、レストランのテーブルに置いていたところ、騒ぎに乗じて誰かに盗られていたのである。
 誰もが他の誰かとちょっとしたボタンの掛け違いで、居心地の悪さを抱えている。そもそもなぜモーリスはひとりで白馬荘に戻ったのだろう? なぜ妻のおじフェリックスのことを気にかけたのだろう? 老いた義理のおじを哀れんだためか? 作中でその理由は明示されていないように思われる。彼ら一家は翌日に祖母の家へ無事に着き、その家は絵に描いたように穏やかな田舎の一軒家であり、子供たちも満足している。電話も引かれていないから、ジェルメーヌは夫モーリスが負傷して白馬荘から連絡を受けるとき、わざわざ隣家の野菜商店の電話口まで出向かなければならなかったほどだ。
 夏の眩しい陽射しのもとで起こる怒りの沸騰現象は、それ自体が白昼夢のように進む。これが物語半ばのクライマックスだ。電話連絡を受けて地元憲兵や巡査も駆けつけ、負傷したモーリスに会うため妻のジェルメーヌもバスで急行する。そうしたなかで銃弾が飛び、モーリスの腕時計が消えてなくなる。すべての出来事が苛立たしい。
 もう一度書こう。ここまでが物語の中盤だ。この後いったいどうなるのか? シムノンの悪癖が炸裂する。
 起承転結の「転」がない。守勢から攻勢への転換がない。フェリックス老人の反乱は抑えられ、腕時計を盗んだ犯人は結局テレーズとわかり、彼女は地元の留置所へと拘束される。フェリックスは銃口を自らの口に咥えて最後の一発を放った。弾丸は彼の頬をひどく傷つけたが死には至らなかった。
 さあ、それからどうなる? 結局、何も起こらない。物語の後半は、ただひたすらぐだぐだと文章が連なって過ぎてゆくだけだ。老人の内なる衝動は次に何を引き起こす? テレーズの狡猾な行動は周囲の人々にいかなる影響を及ぼす? アルブレ一家はおじの狂気とどう向き合う? そうしたことは何も書かれない。白馬荘の主人ジャンは、若い使用人ローズから梅毒をうつされた。アルブレ一家は1年後、再び白馬荘を訪れる。そこには醜くなった老人がなおも夜警として働いており、ローズはすでに結婚して姿がなく、そして主人ジャンはモーリスのことを思い出せないようだった。それで終わった──小説の終盤には何度もこの文が繰り返される。つまり、世界は何も変わりはしなかった。人々はみなそれぞれの鬱屈を抱え、それはときに爆発するが、たとえ沸点を超えたとしても世界は何も変わらない。いや、子供たちは一歳ずつ大きくなり、弟のクリスティアンは連絡簿に「注意力散漫」と赤字で書かれて寄越された。
 そこになにがしかの感慨が生まれるなら、小説作品として意味はあるだろう。だが本作ではそれさえも生まれない。冒頭で示されたとおり、少年エミールがただ過去の出来事を思い出すだけだ。その思い出には何も感情が付加されていない。恐ろしかった、虚無感を覚えた、胸の内が疼く──そうしたかすかな傷痕さえ、何も示されることはない。ただ物語は自滅してゆく。本作の最後の文章を紹介してしまおう。この作品は次のようにして終わる。たぶんこういう訳語で合っていると思うのだが……。

 Il suffit de se comprendre. C’est inutile, en plus, de la faire voir.
 互いを理解するのは充分だ。ましてや、知っても仕方のないことだ。

 白昼の狂気が起こった後、否応なしにそれに関わった者たちは、「もうたくさんだ!」「もう耐えられない!」「これで充分だ!」と叫び、喚く。すなわち、他者の心を推し量ることなどもうまっぴらだ、もうそんなくだらないことに神経を費やしてまで生きたいとは思わない! と、生きることそのものを否定してゆく。通常の文芸作品なら、それでも人は生きたいと願うものだ、それでもなお、だからこそなお、と希望を提示して終わるものだろう。また読者側もそういう希望を示して終わってほしいと願うものだ。それが人間の持つ本性的な執着だからである。たとえいっとき底なしの絶望感や不条理な怒りに囚われておのれを見失うことがあるとしても、人は後から振り返って生の喜びを何かしら見つけ出そうとするものだ。そうした希望を書くのが文学的だと一般的には考えられている。
 しかし本作では登場人物たちの誰よりも先に、作者シムノン自身が「もう人の心を探るのは充分だ、いくらやっても無駄なことだ」と諦め切っているのである。そうした気持ちで書いているのだから登場人物が怒りを爆発させたとしても世界が変わることはない。よって物語は自滅してゆくしかない。
 本作はシムノン愛好家の間でもどう紹介したらよいか持て余されてきたように見られる。英訳されたシムノン作品をすべて採点したデイヴィッド・カーターのガイドブックでは、「コメント:この小説の主たる関心事は地方文化の描写にある」(瀬名の試訳)と極めて短い紹介が書かれているに過ぎない。だが私はこのコメントさえ的を外していると思う。たとえばトビー・フーパー監督の『悪魔のいけにえ』『悪魔の沼』は、舞台がテキサスの片田舎であることに意味があった。叫んでも誰も助けに来てくれないという絶望感があった。本作の白馬荘があるプイィはそこまでの田舎とは思えない。玄関先にあるテラスのベンチが唯一印象的で、そこに座って夕暮れの陽を浴びながら渇きを癒やすアルブレ一家の冒頭の描写は不穏さを孕み、後のスラッシャー映画によく出てくる庭先の孤独なブランコや木の枝の吊りタイヤを想起させる。しかしそうした個々のシーンが全体につながらない。『悪魔のいけにえ』のラストでレザーフェイスの男は朝日を浴びながら躍るようにチェーンソーを振り回す。あの場面に私たちが詩情を覚えるのは、私たちの心のなかに、理解できない者に対する恐れや痛みや同情などすべてのありふれた感情を超えた昂揚感、至高の芸術の姿が起ち現れるからだ。レザーフェイスの男が獲物を最後の最後に取り逃がして激怒していることはわかる。その怒りが彼を躍らせていることもわかる。それは朝焼けを浴びて美しい。だがそれが美しいということは彼にはわからないだろう。少なくとも自分で気づいてはいない。観ている私たちだけがわかるのであり、だからこそ理解を超えて私たちは共通して心打たれるのである。そうした理解を超えた理解が本作『白馬荘』にはあるだろうか。
 先に紹介した若島正氏の書評では、作家シムノンの特徴が次のように指摘されている。

(前略)ここでは、人と人がお互いにわかりあうことはない。自分の考えていることすらわからない人間が、他人の考えていることを理解できるわけがない。その意味で、シムノンの小説世界に置いて本能のままに生きる動物のような人間たちは、孤独でもあり、圧倒的な多産を誇った作家シムノンの観察眼をたえず魅了しつづけたのは、そういう孤独な人々であったはずだ。

 だからこそ私たち読者はそうしたシムノンの暗い灰色の小説世界に引き寄せられるのだと若島氏は述べている。それはやはり一面で正しいのだが、「人と人がお互いにわかりあうことはない」という主題を書くためには、その作家自身が「どのような状態がわかり合えているといえるのか」「お互いにわかり合えていないとはどういう状態のときか」をしっかり区別できるだけの情動能力を持っていなければならない。区別できてこそ相違が描けるからである。
 しばしば作家というものは情動の箍が外れた人間であり、細かなことにひどく執着するかと思うと全体を俯瞰したり調和をつくり出したりする力を持たない。平均的な人間の持つ情動の一部が極度に肥大化したことによってその作家には芸術性が宿る。シムノンにもそうした面が多分にある。だが彼はおのれ自身の心の不在性は自覚していたものの、残念ながら他者の心の不在性に関しては、おのれを見つめるのと同じほどの充分な観察力は発揮できなかったのではないか。いや、あるいは、彼の関心はおのれの心の不在性だけであって、心が不在である他者というものを想像することができなかったのではないか。
 シムノンは世界旅行で夢に破れてなお辺境の地にしがみついている愚かな人々をたくさん見てきた。彼らは心があるから愚かなのである。そういう人物をシムノンは観察し描写するのが巧い。だがレザーフェイスのような、もとからソシオパスのような人間と、シムノンはいったいどれほど接してきただろう。自分以外の人間でそういう人に出会ったことはあっただろうか。だからおそらく心の不在の“他者性”というものはわからなかったのではないか。これが私の推測である。
 シムノンの小説には、なるほど動物のような怒りに駆られて殺人を犯す者たちがたくさん登場する。だが彼らはいつもその後、魂の抜け殻のようになるだけだ。衝動的に人を殺す彼らはすべてシムノンの分身である。だがシムノン自身は実際に人を殺したことがない。だから人を殺した後どうなるのかは想像できないのである。本作でもフェリックス老人はそのまま白馬荘で働き続ける。主人のジャン氏は早くも過去の記憶が曖昧である。すべては虚無に吸い込まれたまま時が止まって動けなくなっている。シムノンが好んで描く眩しい日曜日の記憶と同じだ。
 それと関連して、本作ではシムノンの“観察力”が若島氏の書評とは違ったかたちで如実に表れているのがわかる。冒頭の試訳部分を見ていただきたい。「クリスティアンを下ろした方がいいんじゃない?」と私は訳したが、実は原文ではクリスティアンという名前は明示されておらず「彼」と代名詞で処理されている。ここで誰がこの台詞を話しているのかも書かれていない。次に出てくる少年の名も、私は「エミール少年は理解しようとはしなかった」とあえて添えたが、やはりここでも実際は「少年」としか書かれていない。シムノンは完全に映画のカメラアイとなって、いまその瞬間に自分に見えたものだけを文章に書き取っているのがわかる。まず人物名を特定してくれないと誰と誰がしゃべっているのか人間関係がわかりづらい、という読者側の事情など、シムノンはまったく考慮しない。これがシムノンの特徴である。同時進行している別々のシーンも、シムノンは一行空けをせず続けて書く。日本ではなぜか純文学業界でこうした書き方が好んで用いられており、その理由はわからないが、ふつうの読者なら前後関係が瞬間的につかめないため混乱する。だがシムノンはカメラアイなのでそんなことには頓着しない。
 シムノンと似ている日本の作家は誰か。池波正太郎や松本清張といった名前がよく挙がるが、私はそうした指摘はまったく間違っていると思っている。日本でいちばんシムノンと似ている作家は、私の知る限り、映画監督の森田芳光だ。
 森田芳光の映画を観ると、私はいつも「この監督には心がない」と感じる。映画『家族ゲーム』を「シュールだ」と評する人は多いが、森田監督の映画は別にシュールではない。彼自身はおのれに心がないことがわかっていて、それをあえて画面に刻むことによって自己愛を満たしていたのだと私は思う。最初のうちはおのれに心がないことをコメディにするだけの若さとエネルギーがあったのだが、後年の作品になるにつれてどんどん魂の抜け殻だけが残っていった。彼はベストセラー小説をたくさん映画化した。それらの小説は人間の心を描いたから人々の支持を得てベストセラーになったわけだが、森田監督の映画版では原作の持っていた心が完膚なきまでに剥ぎ取られた。『失楽園』などその最たるもので、なぜ役所広司と黒木瞳が不倫しているのか、なぜ彼らが愛し合っているのか、彼らはなぜ自殺を選ぶのか、まったく何もわからない。彼らの周囲の人々も含め、すべての登場人物の心は空っぽである。監督自身も映画に対して何の執着もないようにさえ思える。ベストセラーとは一皮剥けばこんなにも空疎なものなのだと万人に示して世界に復讐しているかのようでさえある。だからかえって『失楽園』は凄いのである。
 森田芳光監督が本作を映画化すれば、意外と傑作になったかもしれない。いや、それはあり得なかったかもしれない。あまりにもシムノンと森田監督は似ていて、似たもの同士は惹かれ合わないのがこの世の常であるのだから。

瀬名 秀明(せな ひであき)
 1968年静岡県生まれ。1995年に『パラサイト・イヴ』で日本ホラー小説大賞受賞。著書に『魔法を召し上がれ』『ポロック生命体』等多数。
 文理の枠を超えた「パンデミックと総合知」をテーマに、母校・東北大学の研究者らとの対話連載を展開。記事構成は翻訳家・サイエンスライターの渡辺政隆氏(https://web.tohoku.ac.jp/covid19-r/people/)。



 
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