厚い! というのが本書を初めて目にしたときの印象でした。現物を見れば誰もがそう思うはずです。文庫上下巻というのはいまどき珍しくありませんが、二冊合わせて一四〇〇ページ超というのはめったにお目にかかれないでしょう。ひとことで言えば破格の厚さ、ということになるのですが、破格なのは厚さだけではありません。その内容もまた破格なのです。

 チャック・ウェンディグ『疫神記』(茂木健訳 竹書房文庫)は、二〇一九年にアメリカで刊行されたパンデミックをテーマとする終末SF小説です。パンデミックや未知の感染症を題材とした小説は昔から数多く書かれていますが、この数年はCOVID-19の世界的な流行もあり、改めて注目されるようになりました。ネットを検索すると、パンデミックや感染症テーマの小説ガイドがかなりヒットすると思います。それだけ多くの作品が紹介されているのなら、もちろん読んでいる人もたくさんいるわけで、そんな人たちにこの『疫神記』をパンデミックSFだと紹介すると「また?」と思う人も多いのではないでしょうか。しかし本作は、これまでのパンデミックものとはひと味もふた味も違うのですよ。どう違うかを詳しく説明していくとネタを割ってしまうことになるのですが、今回はそうならない程度に本作の魅力をご紹介できればと思います。

 日本人の天文愛好家、サカモトユミコが発見したことから「サカモト彗星」と名付けられた彗星が地球を通過したその翌朝、ペンシルヴェニア州メイカーズベルに住む一五歳の少女ネッシーが行方不明になります。ネッシーの不在に気づいた姉のシャナは、妹がパジャマ姿に裸足のまま外を歩いているのを見つけるのですが、シャナが懸命に声をかけてもネッシーは止まろうとせず、まるで夢遊病にでもかかったかのように歩き続けるのです。無理矢理引き留めようとするとネッシーの体はどんどん熱くなって、やがて触れていられなくなるため止めようがありません。シャナはただネッシーの行く先を見守るしかなかったのです。そうしていると、一人、また一人とネッシーと同じような症状を持つ人が現れ、まるで彼女に追随するかのように行進を始めます。彼らは病気なのか、それとも何者かの作為によって操られているのか。だとしたらその目的は? 感染症説や化学物質汚染説、果てはテロ・陰謀説まで、さまざまな憶測が飛び交うなか、かれら《夢遊者》たちはその数をどんどん増やしつつ、同じ方向に向かってただ歩き続けます。

 《夢遊者》が増えるに従って、その家族や友人たちも、彼らを見守るべくそのあとをついていくようになり、いつしか《羊飼い》と呼ばれるようになっていました。最終目的地もわからないまま、《羊飼い》らはペンシルヴェニア州からインディアナ州、ネブラスカ州とまるでアメリカ大陸を横断するかのように行進を続ける《夢遊者》たちについていきます。その周辺では、《夢遊者》がそうなってしまった原因を突き止めようとCDC(疾病予防管理センター)のスタッフが奮闘するのですが、血液のサンプルひとつ取ることができませんでした。結局何一つ原因を掴むことができないまま月日だけが経過していくことになります。《夢遊者》の群れは日毎に拡大していき、人々は徐々に不安に陥っていきます。時は大統領選のさなか(なので舞台は二〇二〇年ではないかと推定される)であり、トランプを彷彿とさせる共和党候補者とそれに心酔する白人至上主義的極右集団は、独自の聖書解釈で終末論をぶち上げるキリスト教牧師を擁立し、《夢遊者》に対してほとんど無策のままである現政権を厳しく非難、放っておけば害悪を与えかねないとして、《夢遊者》たちの早期排除へと国民を煽動していきます。

 一四〇〇ページ超という長大な物語ゆえ、主要人物もそれなりに多いのですが、本作において主役といえるのが、感染症専門家のベンジャミン・レイ博士です。ある過去の失策でCDCを追われてしまった彼は、《夢遊者》が発生した当時、調査をする権限などまったくなかったのですが、突然なんの前触れもなく、《夢遊者》調査の責任者として抜擢されることになります。CDCと企業が共同で開発した、未来予測型人工知能である「ブラックスワン」が、この調査には彼が適任だと推挙したのです。レイ博士は、ブラックスワンとの対話を通して《夢遊者》の謎に挑んでいきますが、上巻の終わり付近で彼は驚くべき事実を知り、これを機に、物語は《夢遊者》という謎の現象がメインだった前半から、終末SF色の強まる後半へと一気になだれ込んでいきます。

 本作のストーリーを推進する柱ともいうべきものがいくつかあります。まずは《夢遊者》の謎。彼らはなぜ、なんのためにそうなったのかという謎です。次にパンデミックSFというだけあって未知の感染症に関すること。それから人々の分断。本作では、トランプ政権下で急速に進んだアメリカの分断をまるでなぞっているかのような展開になっていますし、二〇二〇年の大統領選を想起させるような描写もあり(本作は二〇一九年の刊行)、この辺りはかなり著者も意識していたはずです。そしてもうひとつがAIの問題。終末SFだけあって、信仰論や宗教論に言及する箇所もいくつかあるのですが、これにAIが絡むことにより、神とはなにかという議論にまで踏み込むことになります。これらの柱が複雑に入り組んで、ひとつの長大なストーリーを構成しています。先に「これまでのパンデミックものとはひと味もふた味も違う」と書きましたが、その理由もこの辺りにあります。個人的には、神とはなにか、信仰とはなにか、という問いがラストで意外な方向に転がっていくのが大変興味深いところです。

 疫神とは疫病神のこと。世の中に病をもたらす悪神のことです。ここでいう病とはパンデミックをもたらす感染症のことだと思ってしまうのですが、読み終わったあとあらためてこのタイトルを見てみると、なかなか奥深いタイトルだと思い至ります。また、原題はWanderers=放浪者という意味ですが、これもまた読み終わって考えると、単に《夢遊者》を指しているだけではないということに思い至ります。原題、邦題ともによく考えられたタイトルだと思いました。

 ところで解説によれば、本作にはなんと続編があるそうです。しっかり最後まで描き切ったように見える本作も、振り返ってみれば、そういえばあれはどうなった? と思うところがありました。続編はその辺りを広げていくことになるようです。日本語で読みたいなあ。

 一四〇〇ページ超の本作、そのボリュームに後込みする人も多いと思います。しかしこれは断言してもいいと思うのですが、読み始めたら止められません。長いとわかっていても、最後まで一気に読みたくなるような作品です。ひとつひとつの章が短くて場面転換も多いというのがリーダビリティの高さに一役買っていると思いますし、長大な作品にありがちな中ダレも皆無。厚さにびびって遠ざけてしまうという手はありませんよ。どうしても厚さが気になる人には電子書籍であればそう気にならないと思うのでオススメです! 週末など時間のあるときにぜひ!

 さて、八月七日に配信された、全国翻訳ミステリー読書会YouTubeライブ第10弾「夏の出版社イチオシ祭り!」はもうご覧いただいたでしょうか。翻訳ミステリーを刊行している十の出版社が、この夏イチオシの作品を紹介するという、とても贅沢なイベントだったわけですが、このなかで紹介された作品がそろそろ刊行され始めています。配信を見て、楽しみにしている方もたくさんいらっしゃるでしょう。これらの作品を課題にした読書会もすでに計画されているようですね。それもまた楽しみです。まだご覧になっていない方も、ぜひアーカイブをチェックしていただいて、今後の読書リストに加えていただければと思います。どうぞよろしくお願いいたします!

大木雄一郎(おおき ゆういちろう)
福岡市在住。福岡読書会の世話人と読者賞運営を兼任する医療従事者。第10回読者賞はこちらで発表しております。Twitterでも随時情報発信中です(Twitterアカウント @hmreadersaward

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