田口俊樹

 今話題のクリス・ウィタカーの『われら闇より天を見る』を読みました。新味はなかったけれど、小説としてもミステリーとしても大いに愉しませてもらいました。でもって、この本のタイトル。邦題もカッコいいけど、原題もいいですねえ。We Begin at the End(われら終わりより始める)。私、これを見て、拙訳ですが、ボストン・テランの『神は銃弾』の中の一文を思い出しました。正確に引けなくて申しわけないけど、「過去はその時々姿を変える」って意味の一文。そう、過去って実のところ、それほど(パードン・マイ・オヤジギャグ)かっこたるものじゃないよね。私は本書の原題をそういう意味だと解釈しました。過去は変えられるって。むずかしいことではあるけれど。実際、この本では、ある人物が別の人物の過去を本人のために変えてやります。自らを犠牲にして。とても美しい行為です。ぐっときます。
 あと少女ダッチェスもカッコいいですねえ。原文は知らないけど、訳もすばらしい。訳者は誰かと見たら……おお、同じ長屋の住人、鈴木恵さんではないですか! さすが万年月番をなさっているだけのことはあります。弟子譲りの「渾身のよいしょ」! それほどのよいしょにはなってないか。

〔たぐちとしき:ローレンス・ブロックのマット・スカダー・シリーズ、バーニイ・ローデンバー・シリーズを手がける。趣味は競馬と麻雀〕

 


白石朗

◆ 今月はお休みです

〔しらいしろう:老眼翻訳者。最近の訳書はスティーヴン・キング&オーウェン・キング『眠れる美女たち』。〈ホッジズ三部作〉最終巻『任務の終わり』の文春文庫版につづいて不可能犯罪ものの長篇『アウトサイダー』も刊行。ツイッターアカウントは @R_SRIS

 


東野さやか

 長編を訳したり、長めの短編を訳したり、長編のゲラを読んだり、未訳の原書の梗概をまとめたり、ちょっと体調を崩したりしているうちに七月と八月が過ぎていきました。最後に飛びこんできた短編もあとは見直しを残すのみとなり、これが終わったらショッピングに行くぞとがんばっていたのに、なんと台風ですよ。それも猛烈な強さだとか。週末は買い物をしなくてもいいように(というか、スーパーがあかない可能性もあるし、商品が入ってこなくなる恐れもある)、食料をしっかり確保するなど巣ごもりにそなえます。
 さて、今月はひさしぶりに訳書が出ます。すっかり人気者になったワシントン・ポーとティリー・ブラッドショーのシリーズ第三弾で、タイトルは『キュレーターの殺人』(M・W・クレイヴン/ハヤカワ・ミステリ文庫)。切断された指だけが見つかる、死体なき連続殺人事件にポーとティリーが、文字どおり体当たりで挑みます。どうぞお楽しみに。

〔ひがしのさやか:最新訳書はM・W・クレイヴン『ブラックサマーの殺人』(ハヤカワ文庫)。ハート『帰らざる故郷』、チャイルズ『スパイシーな夜食には早すぎる』、クレイヴン『ストーンサークルの殺人』、アダムス『パーキングエリア』など。ツイッターアカウント@andrea2121

 


加賀山卓朗

 もう珍しくもありませんが、7月末に新型コロナに罹患しました。家族のひとりがどうやら職場でもらってきて、発熱したのであわてて隔離したけれど時すでに遅し。1日置いて結局みんなかかってしまいました。個人的にはここ数十年、内科的に具合が悪くなったことがほぼなかったので、喉が痛くなり、熱が出て、鼻水も出てきて……という進行に、ああそういえば風邪ってこういう流れだったなと思い出したりして。幸い全員さほど重い症状は出ず、いまは全快しています。
 いちばんのストレスは、とにかく発熱外来の電話がつながらなかったこと。濃厚接触者が発熱しても、やはり病院に行って陽性認定してもらわないと、保健所への登録にしろ保険会社への連絡にしろ何も始まらない。何百回かけてもつながらず、発呼数がケータイに表示されるので虚しさが募ります。ここであきらめて、もうしかたないと必需品の買い物に出かけたり、待ってるうちに熱が下がってしまう人も大勢いそう。
 家族全員倒れたからか、東京都の支援物資も送ってもらえましたが、おまえらぜったい家から出るなよという気合が感じられる内容でした。都の担当の皆さん、ありがとう。そしてよく言われることですが、医療関係者のがんばりとモチベーションの高さには本当に頭が下がります。私なんか、これが数日続いたら完全に燃え尽きるというレベルの忙しさ。早く市販薬が普及して、ただの「年に数回流行る風邪」になることを祈ります。
 あ、回復期には、やることもないので、ネトフリで「SPYxFAMILY」を見ました。絵もきれいだし、随所にセンスのよさが感じられておもしろかった。「私たちのブルース」も、なんてことはないドラマかと思ったら、最後に行くほど泣けました。役者がみんなうまい。イ・ビョンホンって、こんな脂の抜けた役もやるんですね。

〔かがやまたくろう:ジョン・ル・カレ、デニス・ルヘイン、ロバート・B・パーカー、ディケンズなどを翻訳。最近の訳書はスウェーデン発の異色作で意欲作、ピエテル・モリーン&ピエテル・ニィストレーム『死ぬまでにしたい3つのこと』〕

 


上條ひろみ

 今クールに見ているテレビドラマのうち2本で映像記憶の持ち主が出てきます。それは「石子と羽男」の弁護士(中村倫也)と、「競争の番人」の公正取引委員会審査官(坂口健太郎)。一瞬で記憶したことが彼らをピンチから救うのですが、そういえば映像記憶の持ち主が出てくるミステリ作品があったような……なんだっけ? あったような気がするだけで、まったく思い出せません。
 
 では、まだ覚えている八月に読んだ本から。
 
 ホリー・ジャクソン『優等生は探偵に向かない』(服部京子訳/創元推理文庫)は、期待を裏切らないおもしろさでした! 今回は行方不明の友人の兄を探すうちに、過去にあった驚きの事件に巻き込まれていくピップ。ポッドキャストのリスナー(六十万人!)に情報提供を求めたり、インスタグラムのストーリーやティンダーなど、今回もSNSをフル活用していてさすがです。いくら優等生とはいえ、忙しくて勉強をする時間がないのはちょっと心配だけど、ピップのことだから探偵活動もうまく勉強に利用しそう。三部作の完結編にも期待大!
 
 アメリカ生まれのアイルランド系作家タナ・フレンチの『捜索者』(北野寿美枝訳/ハヤカワ文庫HM)も読み応えがありました。アイルランドの小さな村に移住した元シカゴ市警の刑事カルが、地元の子どもトレイからの依頼で、これまた失踪した兄を探す物語。余所者に厳しい閉鎖的な村社会で、人びとの心を丁寧にほぐしていくカルの姿に心を打たれます。どこかやさしい読後感も好きだなあ。訳者あとがきにもありますが、カルがトレイに銃の撃ち方や家具の修復を教えながら人生について語るシーンは『初秋』(ロバート・B・パーカー)みがあって胸熱。
 
 また楽しみなシリーズが開幕しました。マーティ・ウィンゲイト『図書室の死体』(藤井美佐子訳/創元推理文庫)がそれ。イギリスのバースにあるミステリ専門の初版本協会を舞台に、新米キュレーターのヘイリー(実はミステリには不案内)が活躍するコージーミステリです。
 ヘイリーはバツイチ四十代ですが、離れて暮らす大学生の娘の心配をし、週末は介護付きホームに暮らす母を訪ね、恋も仕事もがんばりながら謎解きにも意欲的。なんかすごく応援したくなるキャラなんですよね。必要に迫られてクリスティの『書斎の死体』を読んだヘイリーが一気にミステリ沼にハマるところは、知らず知らずのうちにドヤ顔になってたわ。警察がやけにミステリやミステリ愛好家に理解があると思ったら、担当刑事が創作講座に通っていたりしてなんかほのぼの。
 
 毎週月曜更新の「NY Times ベストセラー速報」で長い間ランクインしていたので気になっていた、ブリット・ベネット『ひとりの双子』(友廣純訳/早川書房)は、切なさと愛しさと心強さに満ちた重厚な物語。ミステリ的なおもしろさというより、登場人物たちの運命が気になって、どうか幸せになってと祈るような気持ちで読みました。 
 肌の色の薄い黒人ばかりが住むアメリカ南部の小さな町、マラードで生まれ育った、クリーム色の肌とはしばみ色の目と、緩やかに波打つ髪を持つ美しい双子のデジレーとステラは、1954年の夏、16歳で家出。姉妹はその後まったくちがう人生を歩むことになります。
 時代がめぐっても、人種差別はアメリカに根強く残っていて、黒人の血が一滴でもはいっていたら、見た目がまるで白人でも黒人とみなされる。観念としてわかっていても、実際にそれがどういうことなのか、この物語を読むとよくわかります。

 読んでいるあいだはすごくつらいけど、読み終えたあとなんとも言えない深い感動に包まれるクリス・ウィタカー『われら闇より天を見る』(鈴木恵訳/早川書房)。登場人物たちはみんなだれかのために生き、だれかを思いつづけて、よかれと思って行動しているのに、それがうまく伝わらなかったりボタンのかけちがいでとんでもない事態になったりするのがせつない。でも、人間らしくて不器用で愛おしい。「無法者」と自称しつづけるダッチェスの、ステットソン帽を被って髪にリボンを結んだビジュアルが脳裏に焼き付いて消えません。まちがいなく今年のベスト候補。

〔かみじょうひろみ:英米文学翻訳者。おもな訳書はジョアン・フルークの〈お菓子探偵ハンナ〉シリーズ、ジュリア・バックレイ『そのお鍋、押収します』、カレン・マキナニー『ママ、探偵はじめます』、エリー・グリフィス『見知らぬ人』など。最新訳書はグリフィス『窓辺の愛書家』〕

 


武藤陽生

 自分が翻訳を監修した『ディスコ エリジウム』というゲームについては去年の暮れにも少し話したのですが、あれから9ヵ月ほど経って、先日ようやく発売されました!
 総ワード数110万ワード以上、政治、経済、哲学、歴史、ドラッグ、差別、ありとあらゆるテーマを内包した驚異の警察小説風ゲームです。
SwitchやPS4でもプレイできます。あたしゃゲームなんかしないよという活字中毒の人にこそ触れてみてほしい傑作です。
 まずは公式サイトだけでもご覧いただければ。

〔むとうようせい:エイドリアン・マッキンティの刑事ショーン・ダフィ・シリーズを手がける。出版、ゲーム翻訳者。最近また格闘ゲームを遊んでいます。ストリートファイター5のランクは上位1%(2%からさらに上達しました。まあ、大したことないんですが…)で、最も格ゲーがうまい翻訳者を自負しております〕

 


鈴木 恵

『すべてのドアを鎖せ』(集英社文庫)で好評をいただいたライリー・セイガーの次作 Survive the Night を、ちょうど訳し終えたところ。連続殺人犯と思しき男の車にうっかり同乗してしまった女子大生の恐怖の一夜を描く物語です。主人公は大学で映画を学ぶ映画オタクで、しかも物語全体がヒッチコックの《疑惑の影》やノーマン・Z・マクロード《虹を掴んだ男》を下敷きにした映画仕立てになっているという、映画好きのセイガーさんらしい遊び心にあふれた一作。ぬるい映画好きであるわたくしも、たいへん楽しく訳せました。乞うご期待。
〔すずきめぐみ:この長屋の万年月番。映画好きの涙腺ゆるめ翻訳者。最近面白かった映画は《ベイビー・ブローカー》《アルピニスト》。ツイッターアカウントは @FukigenM