「今の翻訳ミステリー大賞シンジケートは、過去の名作についての言及が少ない!」ーーそんなことをお思いの方はいらっしゃいませんか?

そういう方向けの連載が今回から月イチで始まります。犯罪小説が大好きでしかたがないという小野家由佳氏が、偏愛する作家・作品について思いの丈をぶつけるコラムです。どうぞご期待ください。(事務局・杉江)

 本国では巨匠として扱われているが、本邦ではいまいち知名度が低い。そもそもの文化の違いで面白さが日本人には伝わらなかったり、その時々の出版事情で、訳すべきタイミングで訳出がされなかったり、パターンとしては色々ありますが、そんな立ち位置にいる作家を即座に何人も挙げられるという翻訳ミステリファンは多いかと思います。
 マイケル・ギルバートは、そうした、紹介の際に「本国では巨匠と数えられているが」と枕詞が置かれがちな作家の代表格の一人ではないでしょうか。
 二〇〇三年に訳された『捕虜収容所の死』(1952)が各種年間ランキングの上位となるヒットを記録し、ギルバートという名前がミステリファンにとって馴染み深くなった後の現在も尚「ギルバートって、本国だと凄いらしいけどね。MWAのグランド・マスター賞やCWAのダイヤモンド・ダガー賞も取っているし」といった扱いから抜け切れていない。日本人には面白さがわからない類の作品を書いているというわけでは決してない。『捕虜収容所の死』のヒットからは訳出や復刊の機会にもそれなりに恵まれている。なのに、何故。
 理由としてよく挙げられるのはギルバートの作風の見えなさです。たとえば『捕虜収容所の死』は第二次世界大戦中の捕虜収容所で起きた不可能で不可解な犯罪を巡る物語ですが、同年に訳された『スモールボーン氏は不在』(1950)は法律事務所を舞台にしたユーモアのある本格ミステリで、雰囲気が全くもって異なります。キャリア中期以降は更に幅ができ、連続少年殺人についての捜査と全寮制の学校での物語が絡み合う、全編にわたってサスペンスフルな『十二夜殺人事件』(1976)という作品があったりする。
 諸々を総合して、ジャンルミックス的な試みをするとまとめられていることも多々あります。とはいえど、ギルバートは幾つものサブジャンルを横断して書いた作家だ、とも言いきれない。たとえば、本名では主にクライムコメディを、別名ではノワールやパズラー色の強い私立探偵小説をそれぞれ書きこなしたドナルド・E・ウェストレイクのような作家と比べた時、ギルバートの作品にはサブジャンルを跨っているといえるほどの幅はない。
 私見では、この人は結局、謎解きミステリの書き手と言い切ってしまって良いのではないかと思っています。上であげた三作も、その他の作品も、舞台や雰囲気はまるで違えど、根幹にあるのは大抵はフーダニットであり、律儀に謎解きミステリの形式を守っている。確かに時代を追うごとにクラシカルな本格ミステリのフォーマットからはみ出ていっているけれども、これはたとえば日本でいう松本清張や陳舜臣といった作家と同じで、古典のフォーマットで書いていないというだけではないでしょうか。
 ギルバートは謎解きミステリの作家だ。ただし、色々なフォーマットでそれを書く。そう捉えると、この作家が非常に分かりやすくなる。
 今回紹介する『金融街にもぐら一匹』(1982)で使われているフォーマットは犯罪小説です。それでは余りに広すぎるので、無理矢理ピタリとハマるジャンル名を考えるなら金融スリラー。ただし、最後まで読み終えると作者が紛れもない謎解きミステリとして構成を考え抜いていたことがよく分かる。そんな一冊です。

   *

 デイヴィッド・モーガンは〈マイティンデール、マンテーニャ・アンド・ライアン公認会計事務所〉に勤める会計士だ。
 その同居人のスーザン・ペロネ=コンデは印刷用インクを扱う〈M・N・ハーモンド社〉の優秀な社長秘書。
 お調子者のデイヴィッドが同僚を連れて飲んだくれて家に帰った夜、二人は何度目かの仲違いをする。デイヴィッドは家を一人飛び出していき、スーザンはいつものことだと呆れながら普段の生活を続けるが、その翌日以降、二人の生活が変わり始める。デイヴィッドは素行不良のため会社をクビになり、スーザンは逆にその優秀さ故、他のもっと大きな会社へ引き抜かれ、どんどん出世していく。
 下降の一途を辿るデイヴィッド、上昇するばかりのスーザン。街の光と闇のような好対照の二人だったが、やがてその仕事や生活の中に二人の男が落とす影が段々と大きくなっていく。一人は金融街を裏で支配する大物ランドル・プラケット、そして、もう一人はモール……もぐらと呼ばれる男。
 何の話なのか掴みづらい導入部かと思います。
 それ故の判断なのでしょう。本書の文春文庫版の表4の粗筋では物語の終盤に明かされるネタを割ってしまう形で内容紹介がされています。本を手に取ってもらうためには読者にとってフックとなる要素の押し出しが必要になるので仕方ないところもあるのですが、はっきり言って、これは大変にもったいない。これから本書を読む方は、できれば粗筋にも訳者あとがきにも目を通さないで読み始めていただければと願います。この小説は何の話なのか分からないところに、作者の狙いがあるのです。
 そして、粗筋としてはどういった話なのかよく分からなかったとしても、本書は冒頭から面白く読ませてくれる作品です。
 先に『スモールボーン氏は不在』のことを少し書きましたが、ギルバートはユーモアの書き手としても卓越した作家です。お調子者のデイヴィッドが、あれやこれやとふざけたことをして落ちぶれていく流れ、優秀な秘書であるスーザンが職場の人間を観察する鋭い目線、どちらも読みながら何度もニヤリとさせられ、これだけで楽しい物語になっている。
 そうやって読み進めていった先で積み重なった違和感や疑問が解消されていき、「何の話なのか」という謎が解ける。読者は「この本って、こういう話だったのか」と驚き、張り巡らされた伏線や構成の巧みさに感心のため息を漏らす。そういう小説なのです。

   *

 そうしたわけで、非常に内容紹介がしづらい話なのですが、一点、触れておきたいのはギルバートの人物造形の上手さです。
 主人公二人の造形がしっかりしているのは勿論ですが、特筆したいのはランドル・プラケットとモールの二人の描き方。この二人はそもそもが謎として物語の中に配置されている人物ですので、内面を吐露する部分も含めて描かれるのは物語が終盤に至ってからなのですが、どういう人間なのかが見えてくるまでも、人物像がはっきり分かってからも存在感が素晴らしい。小説に奥行きを与えてくれる描き込みに唸らされるのです。
 かなりトリッキーな構造をした小説でありながら、納得するしかない確かさがあるのもこの本の美点なのですが、どうして地に足がついているかといえば、この辺りの技巧ゆえでしょう。

   *

 前回この連載で取り上げたジュリアン・シモンズは『ブラッディ・マーダー 探偵小説から犯罪小説への歴史』(1972)の中で、ギルバートを娯楽型の犯罪小説の書き手と分類しています。その上で彼がデビュー後に古典的な探偵小説の作風から脱していったことや、作品内で扱うテーマについて娯楽だけで終わらせない方向へ進んでいっていることなど、作風の変遷を分析しているのですが、基本的に妥当な評価だと感じます。
 あくまで謎解きミステリがスタート地点であり芯なのですが、そこについて古典の再現や、自作の縮小再生産には甘んじない。
 『金融街にもぐら一匹』は巨匠のこのスタンスがよく表れた上質な一冊だと思います。

 

◆乱読クライム・ノヴェル バックナンバー◆

 

小野家由佳(おのいえ ゆか)
ミステリーを読む社会人六年生。本格ミステリとハードボイルドとクライムコメディが特に好きです。Twitterアカウントは@timebombbaby