「今の翻訳ミステリー大賞シンジケートは、過去の名作についての言及が少ない!」ーーそんなことをお思いの方はいらっしゃいませんか?

そういう方向けの連載が今回から月イチで始まります。犯罪小説が大好きでしかたがないという小野家由佳氏が、偏愛する作家・作品について思いの丈をぶつけるコラムです。どうぞご期待ください。(事務局・杉江)

 たまに、昔飼っていたインコについての悪夢を見ます。
 夢ですから状況は都度違うのですが、大抵、普段通りの生活をしているところから始まります。遊びや仕事で外に出かけている時、ふと、思い出すのです。そういえば、しばらく、インコに餌をやっていない。
 すっかり忘れていた。最後にあげたのはいつだった? 一週間前? 一ヶ月前? 水や、籠に敷いている新聞紙だって換えなければいけない。これだけ放っておいて大丈夫だろうか。鳴き声を最近、聞いただろうか。
 焦りと罪悪感で一杯になったところで目を覚ます。今のは夢だ。胸を撫で下ろしながらも、まだ、心のどこかに不安が残っている。
 人並みに様々な悪夢は見ていますが、この夢が最も恐ろしい。思い出すだけで苦しくなる。
 実際に起こり得るからでしょう。忘れているだけで、したことがあるかもしれない。そういう現実感があって、後に引く。
 シーリア・フレムリンの小説を読む時、僕はこの夢のことを思い出します。
 別に似た話があるわけではありませんが、現実感のある恐ろしさや苦しさが重なるのです。
 フレムリンの作品はドメスティック・サスペンス……家庭的なサスペンスであるとよく言われます。ある家庭、あるカップルといった単位で物語が完結する。登場するのは平凡な一市民で、悪人と断定できるほどの人間は出てこない。
 悪人が出てこないサスペンスというと以前、本連載でも紹介したシャーロット・アームストロングを思い出すところですが、フレムリン作品は読み心地がまた違います。ある夫婦の抱える悩みが友人や隣人を巻き込んでの大騒動に発展する『毒薬の小壜』(1956)が分かりやすいですが、アームストロングの小説にはスタート地点が一家庭でも社会に向けた広がりがある。
 フレムリンの場合それがない。決して他人に話せないし、話したとしても解決しない気持ちを主人公はひたすら抱え続ける。語り口はむしろユーモラスで、軽快でさえあるのですが「自分が一人でなんとかしなければ」という感情が物語の中心で、そこにサスペンスが生まれている。
 今回紹介する『泣き声は聞こえない』(1980)は、特に孤独感が強い。

   *

 ミランダ・フィールドは憧れの多い、十五歳の少女だ。
 早く自分も、と思うことが沢山ある。いつか自分の人生に訪れると思うだけで心が浮き立つような色々なことを夢見ている。
 そうした夢の代表だった恋について叶ってみた時、ミランダの心にまず飛来したのは失望だった。電話帳で名前の綴りを見るだけでときめいていた愛しの彼と、パーティーの夜、思いもよらない流れで結ばれたのだが、行為に至る前の時点で夢が萎んでいることをミランダは感じ取っていた。
 ただ、その夜がもたらしてくれたものだけは素敵だった。ミランダは妊娠していたのだ。
 自分の体の中に新しい生命が宿っていること、自分が母親になるのだということに、ミランダはかつての恋に対する以上のときめきを覚える。同級生や近所の人の気遣い、その中に混じるちょっとした羨望の目線も心地よい。
 けれど、そのときめきも、すぐ萎む。
 両親に説得されて中絶させられてしまったのだ。
 屈辱、悔しさ、恥ずかしさ。様々な感情が混じる中、ミランダは家出を決意する。妊娠していた頃に買ったマタニティドレスに布の詰め物をしてお腹に膨らみを作って、街を飛び出す。こんなことしてもどうにもならないことを、痛いほど理解した上で。
 痛々しい、というのが初めて読んだ時の僕の実感でした。
 読んでいるこちらの胸をも突いてくるような辛さがある。
 ミランダに感情移入させられてしまうのです。彼女と完全に同じ境遇に立ったという人は少なくても、同じような気持ちを抱いたことがある人はきっと多い。僕のような男性読者でも、思春期の頃の恋愛を含めた色々なことへの憧れであったり、それが叶ってみた時の思いもよらない失望であったりといったところは自分を重ねることができる。だから、その失望の先の感情もなんとなく分かる気がする。
 ミランダが医者の卵の青年ティムに拾われて、若い男女の暮らすコミュニティで「もうすぐ産まれるの」と嘘を吐いて生活を始める中盤以降は、読んでいるこちらも落ち着かない。赤ん坊が産まれることなんてないのに、どうするつもりなんだ。……ミランダ自身、回答を持っていないのは勿論のこと、我々読者にも分からない。
 読んでいる間ずっと、宙吊りにされているような不安を感じる。これがフレムリンのサスペンスです。

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 焦りと罪悪感のサスペンスとして『泣き声は聞こえない』が秀逸なところは誰が悪いわけでもないということです。
 この手の物語では両親は子供に理解を示さない世間体ばかり気にする時代遅れの頭の固い人間といったステレオタイプで描かれがちですが、ミランダの親はそうではない。むしろ、進歩的であろうとする人たちで、妊娠のことを伝えられた時でさえ物分かりの良さを示す。あくまで彼女のことを思って、中絶するように勧める。
 ティムをはじめとするコミュニティの人たちもミランダの出産を百パーセントの善意でサポートしようと考える人ばかりです。一人だけ、やっかむ人物も現れますが、それも嫌がらせのために嫌がらせをするといったタイプではなく、むしろ読者としてはそう考えるのも当然と思える造形です。
 その他、バスの運転手であったり、街を往く人々であったり、名前のついていない脇役に至るまで、悪人はいない。
 ただ一人、そんな彼ら彼女らに不誠実なミランダがいるだけで、本人もそれをよく分かっている。
 ミランダの中で罪悪感はどんどん大きくなっていきます。妊娠していないという事実について、誤魔化すことができない地点に達した時、どうするのか。
 ここが強烈なのです。本書は読み終えてみると、語り口の巧さもあり、読後感としては爽やかだったりするのですが、それでも、まだ後を引く。
 僕が例の夢を思い出す所以です。

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 フレムリンの短編集『死ぬためのエチケット』(1984)に「夏休み」(1983)という短編があります。
 夫に先立たれて悲しい一方で、これからはだらけた生活をしてもいいということに少し喜びを覚えてしまう女性の話です。気合の入った食事を作らなくていいし、ベッドの中で本を読んでいい。何よりも、夏休みに遠出をしなくて済む!
 気持ちが分かる方も多いのではないでしょうか。「別に、家族が求める生活をすることが酷い苦痛というわけではないし、それはそれで楽しいけど」という部分をちゃんと汲んでくれているのが良い。
 この「夏休み」、それから『泣き声は聞こえない』がまさにそうなのですが、フレムリンの小説は殺人のような直接的な犯罪が語られない作品も多いです。代わりに扱われるのは誰しも身に覚えのあるような、日常の中のちょっとした罪悪感で、「大っぴらには言えないけど、こういう風に考えちゃうことあるよね」という気持ちを拾い上げる。法律で裁くようなものではないけれど、登場人物本人にとっては確かな罪を犯すという意味で、彼女の小説はクライム・ノヴェルの読み心地だと思います。
 誰もが犯しかねない罪を語るのがフレムリンのサスペンス。だから、怖く、苦しく、面白い。

 

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小野家由佳(おのいえ ゆか)
ミステリーを読む社会人六年生。本格ミステリとハードボイルドとクライムコメディが特に好きです。Twitterアカウントは@timebombbaby