「今の翻訳ミステリー大賞シンジケートは、過去の名作についての言及が少ない!」ーーそんなことをお思いの方はいらっしゃいませんか?

そういう方向けの連載が今回から月イチで始まります。犯罪小説が大好きでしかたがないという小野家由佳氏が、偏愛する作家・作品について思いの丈をぶつけるコラムです。どうぞご期待ください。(事務局・杉江)

 ユージン・イジーの犯罪小説は、どことなく感傷的です。
 イジーの書く作品は、悪党同士の騙し合いや殺し合いが展開される、ジャンルとしてはノワールに分類されるようなクライム・ストーリーです。また、登場人物の肉体的な行動が物語を牽引していくという意味で、伝統的ハードボイルドの流れも間違いなく踏襲しています。英語版ウィキペディアのイジーの記事を読んでみても、真っ先に引き合いに出されているのはダシール・ハメットとミッキー・スピレイン。なのに、読者と登場人物を突き放すような非情さが薄い。
 描こうとしているのが信頼という、胸の内側にあるものだからではないか、と思います。イジーの小説では常に、他人を、そして自分自身を信じることができるかがテーマとして横たわっています。
 邦訳されている三作全てで、イジーが執拗なまでに書き込んでいるものが二つあります。二人組の人間関係と、肉体鍛錬の描写です。
 前者は長編第一作である『友はもういない』(1987)が特に分かりやすいでしょう。この作品では主役格から端役のマフィアの鉄砲玉に至るまで、あらゆるキャラクターがペアを組んで登場します。犯罪組織を題材にしているのに、そこにあるのは二かけるXのペアの連なりで、それぞれで相手のことをどこまで信じられるかが問題となるのです。
 後者についても読めば誰しもが気づくことです。登場人物がやたらと体を鍛えている。筋トレを行う場面も頻出しますし、『友はもういない』では筋力のある者しか開けることのできない、ジムの中の隠し倉庫というギミックまで出てきます。これもキャラクターが自分自身を信じるための根拠として機能していると感じます。この体を作るために弛まぬ努力を続けてきたという事実から彼らは自尊心を得ているのです。イジー作品の主人公たちは酒やドラッグを忌避する者が多いですが、自我を曖昧にしたくない、いつでも誇るべき自分でありたいという意味合いからでしょう。
 誰かを信じ抜けば幸せになれるといった、ロマンティックなものでは決してない。ただ、信頼という感情的なものが中心にあるから、生まれるドラマは自然、少し湿っぽい空気を纏うようになる。
 今回紹介する『地上九〇階の強奪』(1989)も相棒と自分に対する信頼を語る一作です。タイトル通りの極限状況での襲撃を描く犯罪小説で、個人的にはユージン・イジーの最高作だと思います。

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 シカゴという街のバランスは、いまやすっかり崩れてしまっている。
 圧倒的な力で街を支配していたマフィアのボス、トミイ・カンポが腹心の相棒だったアンジェロ・”トゥームストーン”・パテロの裏切りにより逮捕された後、組織も、その周辺の悪党たちも浮ついた状態が続いていた。これまでシカゴに手を出せなかった他所のマフィアたちも舌なめずりをしながら完全な崩壊を待ち構えている状況だ。
 マフィアの今の最有力者であるレイモンド・パリロがカードを切ろうとしていたのはそんな最中だった。パリロは、カンポ失脚の直接の要因である隠し録りテープの内、表には出ていないものを何本か所有している。組織内で力を振るっている他の連中を逮捕させる証拠になるものだ。これを持っている自分に逆らえる者はいない。たとえば、マフィア内の邪魔者を全員始末するような無茶をやったとしても。
 それを許さないのは、表面上はパリロの配下であるジェローム・モンテインとグィード・バッジオだ。あの強行策は間違いなく失敗するし、この馬鹿をこれ以上好きにさせるわけにはいかない。なんにせよ、あのテープをどうにかしなければならなそうだ。盗むのが一番だが、テープがあるのは要塞のようなタワーの九〇階。しかも建物の中からではなく外から侵入しなければならない。地上千フィートの高さのフロアに。
 白羽の矢が立ったのは、業界で三本の指に入る凄腕の老金庫破りボロと、その愛弟子であるヴィンセント・マーチンの二人だった。彼らなら、このミッションもこなせるに違いない。勿論、事が済んだら速やかに消えてもらわなければならないが……
 悪党どもの思惑が交差する困難極まりない強奪作戦。特にケイパーもののファンならば、聞くだけでも興奮してしまう粗筋ではないでしょうか。
 ユージン・イジーはその期待を裏切りません。困難な仕事をしなければならないお膳立てから、当日までの準備、実行される奇想天外な作戦に至るまで、ケイパーもののツボをしっかりと押さえている。
 恐らくは作者自身このジャンルのファンだったのでしょう。特にヴィンセントが過去、アマチュアを引き入れたために作戦に失敗してしまったエピソードに代表される、プロの犯罪者とそうでない者の差の書きぶりは〈悪党パーカー〉シリーズを思い出させます。
 そうしたリスペクトが各所で目につくのに、既視感のない独自の読み心地になっているのは、物語の芯である部分……舞台である街とそこを駆け回る人間については決して借り物を使わないからでしょう。悪党パーカーもどきではなく、作品発表当時のシカゴの悪党を描いている。そのようなイジーにとってのリアルを生きる登場人物たちそれぞれの行動が、邦題となっている襲撃に集約されていく物語構成に作者の腕を感じます。
 その襲撃で強く光るのがヴィンセントとボロの間の信頼なのです。

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 この二人は、お互いのことを尊敬しながらも理解はしあえてない師弟として描かれます。そして共に自尊心が低い。
 ヴィンセントはボロからプロの金庫破りの技術や心構えを全て教え込まれたというのに、前述の失敗のトラウマから、自動車泥棒みたいなケチな犯罪ばかりしている男です。ボロのことはリスペクトしているが、一方で感傷のない、冷たい男だと思っている。
 ボロはほとんど引退し、悪党の溜まり場のバーを経営している男として登場します。バーに集っている同類たちを愛している。だから一番弟子であるヴィンセントから、冗談混じりではあるけれど、冷血漢と言われることには密かに傷ついている。
 この二人の信頼が肉体を酷使する極限の状況の中で試されるのが、本書に用意されたハイライトです。
 全編にわたって張り詰めるような緊張感のある小説なのですが、作戦の実行に至ってからは、はっきり言ってレベルが違います。ミスの許されない作戦のスリル、犯罪行為の中だからこそ確かめ合える絆、見えてくる自分自身の心根、全ての描写で筆が冴え渡っている。
 息を呑む思いでページをめくり、読み終えた時にはどこか切ない気持ちになっている。余りに見事な襲撃小説です。

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 ユージン・イジーの小説は、別名義であるニック・ガイターノ作品含め全てシカゴを舞台にしています。特にイジー名義では作品世界を共有していて、たとえば本書のマフィア情勢は『無法の二人』(1988)から直接続いています。
 最初に書いた通りイジー名義で訳されているのは三作だけです。早世しているため、そもそもの作品数からして決して多いとは言えません。もっとイジーの描くシカゴを読みたかったという気持ちが僕にはあります。時代の流れを現在に至るまで追ってほしかった。それほどイジーのシカゴは魅力的で、のめり込んでしまう現実感があるのです。そして、そんな街で生きている悪党たちがたまらなく愛おしい。
 イジーのクライム・ノヴェルは、信頼できます。

 

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小野家由佳(おのいえ ゆか)
ミステリーを読む社会人六年生。本格ミステリとハードボイルドとクライムコメディが特に好きです。Twitterアカウントは@timebombbaby