書評七福神とは翻訳ミステリが好きでたまらない書評家七人のことなんである。

 この連載が本になりました! 『書評七福神が選ぶ、絶対読み逃せない翻訳ミステリベスト2011-2020』(書肆侃侃房)は絶賛発売中です。

 というわけで今月も書評七福神始まります。

(ルール)

  1. この一ヶ月で読んだ中でいちばんおもしろかった/胸に迫った/爆笑した/虚をつかれた/この作者の作品をもっと読みたいと思った作品を事前相談なしに各自が挙げる。
  2. 挙げた作品の重複は気にしない。
  3. 挙げる作品は必ずしもその月のものとは限らず、同年度の刊行であれば、何月に出た作品を挙げても構わない。
  4. 要するに、本の選択に関しては各人のプライドだけで決定すること。
  5. 掲載は原稿の到着順。

 

 

千街晶之

『完璧な秘書はささやく』ルネ・ナイト/古賀弥生訳

創元推理文庫

『夏の沈黙』のルネ・ナイトの第二長篇である。語り手のクリスティーンは、大手スーパーマーケットの派遣の事務員だったが、会長の娘マイナと言葉を交わしたのをきっかけに、マイナの個人秘書に抜擢される。クリスティーンは自分の私生活を犠牲にしてまでも、「完璧な秘書」としてマイナに長年仕え続けるのだが……。前半は比較的穏やかなトーンだが、それでもクリスティーンの語りのそこかしこに、穏やかならざる何かが見え隠れしている。表向きの平穏さの裏に、ちょっと針で突つけば破裂しそうな危ういものが潜んでいる印象なのだ。そして、ある出来事を機に、マイナとクリスティーンの関係は思いがけない方向に変化を遂げ、結末に向けて怒濤の展開が待っている。欺瞞とエゴイズムに満ちた人間心理の暗部を抉る筆致の鋭さや、サスペンス小説の定型から微妙にはみ出す歪な展開はパトリシア・ハイスミスに似ていると感じた。

 

川出正樹

『謎解きはビリヤニとともに』アジェイ・チョウドゥリー/青木創訳

ハヤカワ・ミステリ文庫

 事象や物事を異なる角度から観察し解析するのが得意な十二歳の少年テッドが、衆人環視下の観覧車から従兄弟が消失した事件(『ロンドン・アイの謎』)を解明したのに続き、異国アメリカで、美術館からの不可解な名画盗難の謎を明快な論理で解き明かす『グッゲンハイムの謎』(越前敏弥訳/東京創元社)は、過不足無く目配りが行き届いた謎解きミステリだ。早世した作者シヴォーン・ダウドが残したタイトルから構想を膨らませて巧緻なプロットを構築し、少年少女の感情の機微に配慮したミステリを再び味わわせてくれたロビン・スティーヴンスの手腕には感謝の念しかない。

 他にも、連続殺人事件の捜査を太平洋戦争の趨勢と重ね合わせて、日本軍の真珠湾奇襲により人生を大きく狂わされてしまった刑事による開戦前夜から終戦直後までの五年間に渉る波乱に富んだ追跡行を描きMWA賞最優長篇賞を受賞したジェイムズ・ケストレルの大河ドラマ的警察小説『真珠湾の冬』(山中朝晶訳/ハヤカワ・ミステリ)や、アイスランドのスモールタウンに帰郷した女性刑事が平穏な日常のすぐ隣にありながら見逃されてきた極夜の如き暗部に根ざしたやるせない殺人事件と対峙する、エヴァ・ビョルク・アイイスドッティルによるCWA賞最優秀新人賞受賞作『軋み』(吉田薫訳/小学館文庫)も捨てがたい。

 いずれ劣らぬ秀作の中からどれを選ぶか悩みつつ、続いて軽い気持ちでアジェイ・チョウドゥリー『謎解きはビリヤニとともに』を手に取ってみたところ、なんとこれが大当たりだった。ベタな邦題にスルーすることなかれ。コルカッタとロンドンを舞台にした本書は、元インド警察刑事で今はイギリスのインド料理屋でウェイターとして不遇を託っているカミルが、職を失う原因となったインド映画界の大物スター殺しと、仕事で出向いた大富豪の誕生日パーティーで遭遇した殺人事件の謎を論理的思考を駆使して解明する、大胆かつ公正に伏線を張り入念に組み上げられた実に折り目正しい謎解きミステリなのだ。

 過去の挫折にさいなまれ続けている主人公が、現在の難事に挑む過程で自身や周囲と折り合いを付けて再起する。この定番中の定番の基本プロットを、回想シーンと目下の状況をスマートに切り替えて二つの事件を自然に絡ませ、ちいさな違和感と手掛かりから全体の構図をひっくり返しつつ、意外な真相の解明へと収斂させる手際がとても見事だ。謎解きの魅力に加えて、イギリスの移民問題やインド社会の暗部に対する洞察といった重いテーマから、ヴァラエティに富み食欲を刺激するインド料理といったライトな題材まで読み所が豊富。シリーズ第二作The Cookと第三作The Detectiveもぜひ続けて翻訳して欲しい。

 

霜月蒼

『破果』ク・ビョンモ/小山内園子訳

岩波書店

 韓国発のノワールの登場である。45年の殺しのキャリアを誇る65歳の女性、爪角が主人公。現在の韓国の都市でひそかに、そして老いゆえに自身も傷だらけになりつつも、おそらくは彼女の最後の仕事になるであろう殺しに向かって破滅的に進んでゆく。

 これまでに訳された韓国ミステリは、いかにも現代的犯罪スリラーらしくスムーズに語られていて、アメリカ的なミステリ演出が同地にも根づいていることを教えてくれたが、本書はむしろ韓国の現代小説に近い読み心地。つまり貧富の分断であるとか女性の置かれた場所であるとか、そういった問題意識を暗示しながら、殺し屋の内面を観念的に描いてゆく。プロットはよくあるものだが、誤解を恐れずに言うなら、ノワールのプロットにバリエーションはそう多くなく、物を言うのはその語り口である。さらにいえば、すぐれたノワールはスムーズに語られない。非理性的な魂のうごめきを誠実に写し取る文章は、効率的で理性的なものにはならないのだ。ノワールの主人公たちが螺旋を描いて転落してゆくように、その筆は、彼ら彼女らの内面の暗い底へと、螺旋を描いて掘削してゆくのである。本書もそういう意味ですぐれたノワールであり、また韓国産犯罪映画のシグネチャーである生々しい暴力性も観念と共振しながら脈動しているのもいい。ノワールと文学の共犯関係に意識的な読者は手にとる価値がある。

 ほか、真珠湾前夜のハワイで起きた惨殺事件をめぐって、太平洋戦争の戦地を経巡るタフな巡礼のような刑事を無骨に描く『真珠湾の冬』も忘れがたかった。青春文芸ミステリが現在のトレンドだが、その逆をゆくような本作がMWA最優秀長編賞を受賞したのも新鮮でうれしい。

 

吉野仁

『真珠湾の冬』ジェイムズ・ケストレル/山中朝晶訳

ハヤカワ・ミステリ

 2022年エドガー賞最優秀長篇賞受賞作『真珠湾の冬』は、太平洋戦争開戦まぎわのハワイを舞台にした警察小説としてはじまるものの、やがて戦時下の香港、日本と舞台を移し、犯人追求のみならず、さまざまな小説要素が折り重なり、まったく先の読めない物語へと転じていく。近年のエドガー賞はテーマ性が高く評価されているように感じていたが、これはていねいに描かれた大作歴史ミステリとして不足はない。ノスタルジックな東洋趣味と甘いロマンス趣味は、ご愛敬。なにもかも失った男がで執念深く犯人を追う物語として堪能した。ちょうど佐々木譲『エトロフ発緊急電』が本作の前日譚のような話なのであわせて読むとなお面白いと思う。もう一作、夢中になって読んだのは、ルネ・ナイト『完璧な秘書はささやく』だ。ある大企業の女性ボスの下についたヒロインが、なにもかも犠牲にして彼女に尽くし、完璧な秘書として働き続けたが……、というサスペンス。とくに大きな事件が起こるわけでもない中盤までの展開ですら、心理の描き方がうまいのか、話にぐいぐいとひきこまれてしまった。お薦め。そのほか、ビリヤニはメインの物語にいっさい関係がないアジェイ・チョウドゥリー『謎解きはビリヤニとともに』は、ロンドンの人気エリア、ブリックレーンを舞台にした章と西インドの大都市コルカタの章が交互に展開しており、それぞれの街への興味があったため面白く読んだ。ク・ビョンモ『破果』は、老女の殺し屋がヒロインをつとめる異色犯罪もので、読ませどころは、老境に入った彼女がさまざまな変化や衰えにとまどいつつ仕事をこなしていく過程なのだろう。しかし、激しい活劇場面が随所に見られたり、ラストでにんまりさせたりするなど娯楽性もしっかりと備えつつ、それだけで終わっていない。読了に時間がかかった『ルミナリーズ』と同じく岩波書店が版元だが、頁数の問題だけでなく、個人的にはこちらのほうが楽しんだし深みを感じた。

 

酒井貞道

『破果』ク・ビョンモ/小山内園子訳

岩波書店

殺し屋である六十代女性の物語である。高齢女性の犯罪者をクライムノベルの主役に据える試みは、高齢男性に比べると数が少ない。ましてや殺し屋とは。

とはいえ本書の本懐は、設定の希少性にはない。主人公の描写が素晴らしいのである。本書は、自身の老いを自覚しつつもあり、頑なに否定したくもある人間の、諦念と不屈がないまぜとなった何とも言えない雰囲気で進行する。しかも本音本心をそのままずばりとはなかなか書かない。物語は三人称で語られ、主人公の爪角の内面描写の横溢が見られる。それは晦渋だったり難解だったりはしないが、意識はあちこちに飛びがちで、自分の本音から目が逸れる(目を背けている?)ようなときすらある。よって結果的にもってまわる。したがって、鈍感な読者(酒井のことです)であれば、爪角が某登場人物に抱く仄かな慕情は、敵役にカギカッコ付の台詞でズバリと指摘されるまで見過ごしてしまいそうだ。でもそれで良いのだ。人間の内面は複雑であり、素のままであれば、なかなかこうだとは明確に断言できない。本書はその「素」を、つまり複雑なままの状態を、丁寧に活写する。確かに主人公は六十代の高齢者だ。肉体はもちろん、精神的にも若いとは言い切れない雰囲気がある。だが彼女は間違いなく生きている。『破果』は、それがはっきりわかる犯罪小説である。

最後に、唐突に個人的な話をさせてもらいます。私はネイルをする人(多くは女性)の気持ちがわからなかった。あれを施すことに何の意味も見出せず、別世界の話としか感じられなかった。単なる自己満足ではないか、との冷笑的な気分は心のどこかに間違いなくありました。だが『破果』を読んで、本当に初めて、ネイルをする人の気持ちがわかったような気がします。うまく言葉にできない何かが、決定的に、明らかに、自己満足ではない。ネイルを施した老女の左手が映されたカバー写真は、本書を読了した人には、格別の意味が出るはずです。私は今後、ネイルをする人の気持ちがわからないとは一生言わないでしょう。そういう気持ちにさせてくれる小説は、疑いなく、力を持った小説なのです。少なくとも私にとっては。あなたにとってはどうでしょうか?

杉江松恋

『ババウ』ディーノ・ブッツァーティ/長野徹訳

東宣出版

『真珠湾の冬』はもちろん捨てがたいのだが、どん詰まりでディーノ・ブッツァーティが出てしまったので『ババウ』を。『真珠湾の冬』を最後に早川書房を退社したNさん、お許しを。いずれちゃんと書評はやるので。

 というわけで『ババウ』である。これは1972年に亡くなったブッツァーティがその前年に出した短篇集のうち、前半部分にあたる26篇を収めた作品集である。後半部分は図書新聞社から『階段の悪夢』として刊行されているから、これでようやく全訳されたことになる。どうせなら『階段の悪夢』部分も入れて原題の『難しい夜』完全版として出してもらいたかった。今、古書価がすごいことになっているので。まあ、それはそれ、版元も事情があるのであろう。

 で、『ババウ』である。イタリアの作家ブッツァーティは人間の根源的な不安を具体化した掌篇の名手で、どの作品も読むとざわざわと穏やかならざる気持ちにさせられる。たとえば巻末の「ミートボール」は74歳の〈私〉が書斎で、誰かからのプレゼントを見つけることから始まる物語である。開けてみると中には美味しそうなミートボールが入っている、というところまではいいのだが、ブッツァーティの小説ではこのあとが肝要で、〈私〉の耳にはかすかな囁き声が聞こえてくる。その声に胸を掻き乱されることになるのだ。本短篇集の特徴は、後期ブッツァーティの特徴である世情を反映した作品が収められていることで、当時のイタリアは既得権益を持つ上の世代に対する若者たちの抗議活動で揺れていた。そのことが物語の背景にあるのだ。私がブッツァーティの短篇で好きなのは最後に身も蓋もないカタストロフが訪れるタイプの作品で、本書にもいくつか収録されている。たとえば「ブーメラン」ではたいへんぶっきらぼうな形で世界が破滅する。変形のシンデレラストーリーともいえる「チェネレントラ」やとても皮肉な形で破滅が描かれる「塔」などもその仲間だ。こんな形で不安な気持ちにさせられても、というのが「十月十二日に何かが起こる?」で、十月十二日が来るたびにこの短篇を思い出すことになりそうだ。ミステリーファンの中にかなりの割合で混じっているはずの〈奇妙な味〉短篇愛好者にお薦めする次第である。

 

北上次郎

※都合により今月はお休みです。

 

 

 年またぎでお送りした本年初の七福神でした。年末には変わり種が刊行される傾向にありますが、2022年末はエドガー賞受賞作品もあって、かなり充実していたのではないでしょうか。2023年はどういうことになりますか。本年も書評七福神をよろしくお願い申し上げます。(杉)

 

書評七福神の今月の一冊・バックナンバー一覧