勝手に「パルプ風本格」と読んでいる本格ミステリのサブジャンルがある。裸体の美女と血塗られたナイフをもった怪人、というような安手でけばけばしい表紙のパルプ誌に掲載されるような外連味たっぷりの題材を扱いながら、プロットに工夫が凝らされ、意外なまでに優れた本格ミステリの結構をもった小説だ。その最高峰として、いまのところ、ジョエル・タウンズリー・ロジャーズ『赤い右手』(1945)、セオドア・ロスコー『死の相続』(1935)、ヴァージル・マーカム『悪夢はめぐる』(1932) の三つの米国作品がすぐに思い浮かぶのだが、こんな作品がもっと読みたいと思っていた一人として、ジョエル・タウンズリー・ロジャーズの日本オリジナル編集の短編集『恐ろしく奇妙な夜』が〈奇想天外の本棚〉から出たのは、思わぬプレゼントになった。

■ジョエル・タウンズリー・ロジャーズ『恐ろしく奇妙な夜』


 ロジャーズは、アメリカの作家で、海軍除隊後、パルプ雑誌に数多くの作品を発表。作品は、ミステリ、サスペンス、ホラー、SFなど多岐にわたり、近年、長編や短編の復刊も進んでいるという。
 その代表作『赤い右手』は、熱にうなされるような文体、複雑な叙述、悪夢的雰囲気といった特異な個性をもつ本格ミステリで、その紹介時に、我が国のファンを唸らせだが、本書にも、ロジャーズの特色は、いかんなく発揮されている。
 「人形は死を告げる」は、太平洋の戦地から戦闘映像記録の撮影を終え、NYに戻った主人公は妻が自宅から消えているのを知る。妻を探し、戦地の孤島から持ち帰った魔人人形に導かれるように、かつてのハネムーンの地ケープ・コッドに向かったが。演劇制作を本業とする主人公は、「脚本家」ならぬ「脚本医」を自称しているが、脚本家志望の若者の話を聴く辺りから、話は歪みはじめ、ちょっと類のないような謎解きミステリになる。
 「つなわたりの密室」は、130頁の中編。二階堂黎人、森英俊共編『密室殺人コレクション』の初出。初読時は、余り強い印象を受けなかったが、この短編集の中においてみると、ロジャーズらしさ全開ということがはっきりする。『赤い右手』同様、朦朧法というか、叙述があちこちに飛びすぐには全体を掴ませない語り、猫男といわれる神父や元タキシード警官、耳の聞こえない劇作家といった奇矯な人物設定、「人と化け物が混ざったような不思議で奇怪な影」の出現といった悪夢の雰囲気など過剰演出のような作劇。
 密室の構成自体はシンプルな反面、チャレンジングなもので、読後には過剰に塗りたくられた迷彩のような演出が真相に近づけさせないバリアになっていることがよく分かる。
 「殺人者」は、高級誌掲載を意識したか、すっきりとした仕立ての佳編。幾つかのアンソロジーにも収録されている。
 「殺しの時間」 「殺しの訪れ」というパルプ短編を書いている作家志望者のところに、彼の心酔するパルプ雑誌編集者が訪れてくる。話の底は割れやすいが、主人公が戦争帰りの若者で、「特級殺人ストーリーズ」というパルプ雑誌に18篇の作品を送りながらすべてボツにされているという事情や伝説的パルプ編集者という設定は、自画像めいていたり、内幕物の趣もある。それにしても、主人公の胸板にはなぜ「爆弾娘」の文字と彼女の発育のいい肉体が刻まれたり、ロシア人爆弾魔のせいで義足になったり、狂える日本兵にダイナマイトを投げた過去をもつのか。物語上の要請もあるが、多分に作家のアクの強さもにじみ出ているところでもある。
 「わたしはふたつの死に憑かれ」 主人公は、投稿小説ドラマ化のラジオ番組「実話殺人ロマンス・アワー」の脚本家兼演出家。アマチュア投稿家が送って来た実話に主人公はある関わりがあって。限られた時間内に番組を制作しなければならないというサスペンスあり、特異なシチュエーションの謎解きもあり、これはオールタイムのアンソロジーに採られてもおかしくない見事な短編。某ミステリ映画の名作を思わせる鮮やかなラスト。
 「恐ろしく奇妙な夜」この表題作は、1950年代の現実界に降臨する「怪獣」を描いた小説。ドキュメンタリータッチのストレートなSF。

 収録作を眺めてみると、ロジャーズは意外に懐の広い作家で、アクの強い作品のみならず、すっきりとしたクライムストーリーや「わたしはふたつの死に憑かれ」のような一種の青春ミステリのような味わいの小説も書ける。
 本編の多くに共通するのは、主人公ないし主要人物が、演劇制作者、劇作家、パルプ作家、ラジオの脚本家というように、フィクションの制作に携わっていることだ。それゆえ、その語りは知的でフィクショナルで、ときに小説はメタフィクショナルな様相も帯びてくる。冒頭の「人形は死を告げる」は、脚本志望者の物語から主人公の頭の中で推理が自走していくが、真偽のほどは最後まで判らない。「つなわたりの死」は語りの技術によるつなわたりで、密室物を構成している。「わたしはふたつの死に憑かれ」では、投稿小説というフィクションに対し、主人公は別のフィクションで対抗する。
 「殺しの時間」で、タイプライターが投げられるシーンでは、こんな記述もある。

タイプライターは禿げた頭をかすめていった。アルファベット二十六文字とともに。それらの文字で書かれうる世界のあらゆる言葉の可能性とともに-但し中国語を除いて。これまでに書かれてきた、そしてこれから書かれるであろうすべての探偵小説とともに。

 ロジャーズは、宙を飛ぶタイプライターに探偵小説のすべての可能性を見る作家なのである。
 本書では、いかにもパルプ的題材を扱いながら、「語り」の技術の幅を広げ、多様な「語り」に挑戦した知的な作家としてロジャーズの横顔が見えてくる。数百はある、というこの特異な作家・ロジャーズの短編をまた紹介してほしいものだ。

■田村隆一『ぼくのミステリ・マップ』


 田村隆一は、鮎川信夫らとともに「荒地」を創刊し、戦後詩の第一人者として活躍する一方、海外ミステリの紹介・翻訳で知られる。いや、「知られる」どころではない。1953年には早川書房に入社、責任編集長としてハヤカワ・ポケット・ミステリ(ポケミス) の企画・編集に携わり、編集長として招かれた都筑道夫と初期の日本版EQMMの編集にも従事。アガサ・クリスティーやエラリイ・クイーン、ロアルド・ダール等の翻訳者でもあった。早川書房にいたのは4年間、ポケミス250点を出して退社したとあるから、戦後の海外ミステリ紹介の黎明期に立ち会った神々の一人といってもいいすぎではない。
 本書は、そうした経歴をもつ著者の推理評論・エッセイの集成。『ミステリーの料理事典』(三省堂、1984) 及びその改題増補版『殺人は面白い 僕のミステリ・マップ』(1991、徳間文庫)を基に、代表的なエッセイ・評論を集成、新たに構成したもの。
 戦後の文芸翻訳黎明期だけあって、版権競争や作品選択の話、初期の早川書房の実情、江戸川乱歩や植草甚一との交友などなど実に興味深い。
 例えば、なぜ、早川書房はミステリ翻訳に乗り出したかについては、会社に金は全然ない、それでも何かやらなくてはということで、金がなくてできることといったらミステリしかない(ミステリは返本になっても在庫がいつの間にかはけていく) そこで、「五流か六流の翻訳者をだましてつれてきて、版権のないものをやる」(生島治郎との対談) と、かなり行き当たりばったりの発進だった様子が明かされている。
 早川書房にはいつも着流しで現われ、出勤すると寝てしまう、社長が来る気配がすると、本を読む風を装う。夕方になると飲みにか、ちがう寝床をさがしにでかける、という手におえない著者の怠け者ぶりについて生島治郎の証言 (開高健の聞き書き) が掲載されているのもおかしい。
 
 さすがに詩人だけあって、あちこちに、傾聴に値する言葉が並んでいる。

「探偵小説のロジック(論法) は、詩のロジックに似ているんです。何が似ているかというと、意外性、飛躍性がまず第一。それから、ある部分が、ところを得れば、全体がわかるというところね」
「ぼく流の探偵小説論は、ユーモアのセンスがないと、本当は楽しめない」「人殺しの話を楽しみながら読むというのは、ユーモア以外の何ものでもないでしょう」

 海外ミステリ作家40人弱を紹介する第三章は、作家情報や史的評価の面では古くなっている部分もあるが、作家ハメットの誕生を当時の厳しい現実と結び付けたり、アイリッシュの項で「アメリカの孤独が理解できないとアメリカ文学もわからない」、ロス・マクドナルドの項で「自由の幻想」が壊れた国で、リュー・アーチャーの肉眼が見つめたものなどの指摘など、やはり戦後詩をリードした詩人の眼が光っている。
 日本版EQMM初代編集長・都筑道夫、二代目編集長・生島治郎 (小泉太郎) との対談が掲載されているのも貴重だろう。

ストラングル・成田(すとらんぐる・なりた)
 ミステリ読者。北海道在住。
 ツイッターアカウントは @stranglenarita


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