ニューヨークでふたりの女性の人生が交差する。ひとりは死して自らの人生を語り、もうひとりは見ず知らずのその死んだ女性に思いをはせる。
 今回ご紹介するジャクリーン・バブリッツの Before You Knew My Name(2021)はそんなお話です。

 ウィスコンシン州に住むわたし、アリス・リーは父の顔を知らずに育った。母は次から次へと男を変え、そのたびにわたしたちは引っ越しを繰り返した。その母も、わたしが14歳のときに銃で自らの頭を撃ち、命を絶った。その後は母のいとこのもとで暮らしていたが、1日でも早くその家を出て、独り立ちをしたいと思っていた。17歳になり、高校を卒業すると、わたしは年齢を18歳だといつわって、ミスター・ジャクソンという写真家のヌードモデルになった。彼の家に住み、彼の望むポーズをとり、恋人どうしのような日々を送っていた。しかし、未成年であることをうっかり口にしてしまい、ミスター・ジャクソンの怒りをかってしまった。出ていくよう言われたわたしは、彼の家にあったお金と、彼が大切にしていたライカのカメラを盗って、ニューヨークをめざした。

 ちょうどそのころ、オーストラリアのメルボルンの空港では、ルビー・ジョーンズという36歳の女性がニューヨーク行きの便に乗ろうとしていた。ルビーは恋人だと思っていたアッシュに裏切られ、気持ちの整理をするために、しばらくメルボルンを離れることにしたのだ。

 わたしはニューヨークに到着後、ノアという60代の男性の家に間借りをし、新たな生活の一歩を踏みだした。ノアはわたしを見ると、生き別れになった娘を思い出すとかで、なにかと親切にしてくれた。わたしは毎日、ライカを持って街をめぐり、さまざまな風景をカメラにおさめた。そうして1カ月近く経ったころ、写真の専門学校のポスターが目にとまり、その道に進む決心をした。入学金はノアが出してくれ、その先にはすばらしい未来が待っているはずだった。

 いっぽうルビーはアッシュへの思いを断ち切れず、アッシュはそんな彼女の気持ちを弄ぶかのように、彼女と連絡をとっていた。ある日、彼女はどうにも気持ちが落ち着かず、激しい雨のなかジョギングに出かけた。ハドソン川沿いを走り、ふと川岸のほうに向けた視線の先にわたしがいた。下半身むき出しでうつ伏せに倒れ、こめかみは血にまみれている。ルビーは恐怖のあまり、わたしに近づくことができない。わたしがまだ生きているかもしれないと思っているようだったが、わたしはもう息をしていなかった。

 ルビーが911番に通報し、警察の捜査が始まった。わたしは身元がわかるものを持っていなかったし、顔をつぶされていたので、警察はわたしが誰かつかめない。ただ死因はすぐに判明した。わたしはレイプされ、首を絞められて殺された。そして死後、顔を激しく殴打されてつぶされたのだ。
 2週間経っても、わたしは身元不明者を示す名前、ジェーン・ドウと呼ばれていた。この先もずっと、わたしはジェーンと呼ばれ、無縁墓地で花をたむけられることも、ロウソクを灯されることもなく、ひとり淋しく眠ることになるのだろうか。ゆいいつの望みはルビーだった。

 ルビーはわたしの姿が忘れられなかった。わたしに心あたりがあるという人がなぜ現われないのだろうか、と訝っている。わたしが誰なのか、なぜ殺害されたのか、事の真相を突きとめたいという思いが日に日に強くなっていた。警察に訊いても、捜査状況は教えてもらえず、彼女は自分と同じように他殺体を発見した人は少なからずいるはずで、そういう人に連絡をとれば、何か糸口が見つかるかもしれないとインターネットで情報を集めはじめた。犯罪で愛する人を奪われた人たちの集まりに足を運んだことがきっかけで知りあった人の協力も得て、彼女は本当のわたし、アリス・リーに近づきつつあった。彼女ならわたしをジェーンからアリスに戻してくれる、犯人を突きとめてくれる。わたしは彼女を信じていた。

 物語は死者となったアリスの1人称で語られます。アリス(の魂)はルビーのそばから離れず、ときおり彼女にささやきかけるのですが、当然のことながら、ルビーには聞こえません。しかしアリスは、強く念じれば思考や行動のきっかけをあたえることができると思っています。その思いが通じたのか、ルビーは毎晩、アリスの夢を見るようになり、いつしか彼女に絆のような強いつながりを感じはじめます。非現実的な話ではありますが、アリスが客観的に自身の殺害事件を見て淡々と語るので、非現実感をさほど感じることなく読めます。
 誰がなんの目的でアリスを殺害したのか、というミステリの部分も本書の読みどころではありますが、それと同時に、自分の意志で自分の人生を築く自由を求めるアリスと愛を求めるルビー、彼女たちが何を思い、どのような道を歩もうとしていたのかという、ふたりの女性の物語としての魅力もぞんぶんに味わえます。
 著者のジャクリーン・バブリッツはニュージーランド出身で、メルボルンとニュージーランド北東にある生まれ故郷を行き来しながら執筆活動をおこなっています。デビュー作である本書は、2022年のCWAゴールドダガー賞にノミネートされ、惜しくも受賞はなりませんでしたが、今年はバリー賞の新人賞にノミネートされています。現在、2作目に取り組んでいるとのこと。再度、非現実的な設定でいくのか、現実路線に変更するのか、楽しみに待ちたいと思います。

高橋知子(たかはしともこ)
翻訳者。訳書にデドプロス『シャーロック・ホームズ10の事件簿』(監訳・解説、日暮雅通さん)、ミラー『5分間ミステリー 裁くのはきみだ』、プラント『アイリッシュマン』、ロビソン『ひとの気持ちが聴こえたら』、ファージング『世界アート鑑賞図鑑 [改訂版]』(共訳)など。趣味は海外ドラマ鑑賞。お気に入りは『シカゴ・ファイア』『ブルーブラッド NYPD家族の絆』

●AmazonJPで高橋知子さんの訳書をさがす●

【原書レビュー】え、こんな作品が未訳なの!? バックナンバー一覧