「今の翻訳ミステリー大賞シンジケートは、過去の名作についての言及が少ない!」ーーそんなことをお思いの方はいらっしゃいませんか?

そういう方向けの連載が今回から月イチで始まります。犯罪小説が大好きでしかたがないという小野家由佳氏が、偏愛する作家・作品について思いの丈をぶつけるコラムです。どうぞご期待ください。(事務局・杉江)

 寂しい。
 テリー・ホワイトの書く物語を思い返した時に僕の頭の中で浮かぶ言葉です。
 よく言われる、孤独な男たちを描く犯罪小説という評し方だけでは何かを取りこぼしてしまうような気がするのです。同じように都会に生きる独りぼっちの人々を描いているにしても、たとえばホワイトとコーネル・ウールリッチでは感触が全くもって違う。
 ウールリッチの書く孤独な都会人は一人で生きていくことができる人々です。ホテルやマンションの部屋に一人で暮らし、お互いに交信すらしないで日々を過ごしている。対し、ホワイトの場合は皆、繋がろうとしている。一緒に暮らし、同じベッドで寝たりもする。なのに満たされていないというのが彼らの孤独で、その様子を表すには、寂しいという、もっと感傷的で、少し幼さも感じる言葉を使いたい。
 そう、ホワイトの書くキャラクターは幼いのです。自分のことしか考えていない。父親、息子、兄弟……既存のロールに相手を当てはめようとし、そのロールから相手がはみ出すことを許容できない。そのくせ、相手が同じように自分へロールを押しつけてこようとすると腹を立てる。
 そうした、いずれ破綻する人間関係しか築けない人々の哀れさを拾い上げ、幼さ故にまともに繋がれない者同士の行動を重ねていくというのがホワイトの創作手法で、そこから作品に独自の雰囲気が産まれているのです。『真夜中の相棒』(1982)のような殺し屋の物語、『木曜日の子供』(1991)のような私立探偵を視点人物にした小説、それぞれ何か既存のジャンルに分類するのではなく、単にホワイトの小説と呼びたくなる。
 今回紹介する『刑事コワルスキーの夏』(1984)も、ホワイトらしい寂しさに満ちた犯罪小説です。
 
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 『刑事コワルスキーの夏』では主役格として二組のコンビが登場します。片方は犯罪者、もう片方は刑事です。
 犯罪者の方はトム・ヒッチコックとジョディの兄弟。トムは十年前、ジョディとの肉体関係を知られたことを切っ掛けに両親を殺害しており、それについて錯乱によるものと判決されたため精神病院に収容されました。物語は、ジョディの手引きでトムがそこを脱走する場面から始まります。
 脱走を終えたトムの頭にあるのは自らの欲望だけです。食欲と性欲を満たし……それから人を殺す。衝動的な殺しを重ねる他に一つ、目標としての殺しがある。自分を捕まえたあの刑事に復讐をしてやりたい。
 その刑事というのが、もう片方のコンビの片割れ、ロスアンジェルス市警のスぺイスマン・コワルスキーです。彼は非常に優秀な刑事なのですが仕事を優先しすぎたせいで妻子と別れてしまっています。そのストイックさが祟ってか、一緒に仕事をしてくれる者がおらず、ずっと一人で捜査をしている。気難しく、乱暴で、ただ正義感は強いという、刑事という職業の一つのパブリックイメージに近い中年男性です。
 そんなコワルスキーとコンビを組め、と配属されたのがブルー・マガイアという青年。プレイボーイである彼は、刑事という道を選ぶしかなかったようなコワルスキーとは対照的な造形をしています。億万長者の御曹司であり、大学の修士号まで取っていて、他に幾らでも華やかな道を選べる人間なのに自ら刑事になることを選んだ男です。
 このコンビでの最初の仕事としてあてがわれたのが、ヒッチコック兄弟による連続殺人。勿論、コワルスキーとマガイアの二人は犯人が誰なのかは知らず、トムも仇がそうとは知らずに自分を追っているとはまだ知らない。
 相互に追う者追われる者の関係にあるこの四人を中心とした複数の視点を切り替えながらストーリーを進めていく形式の小説です。
 この概要から、息の詰まるような追跡の物語を想起される人も多いかもしれません。勿論、そうした捜査の面白さも十分にあるのですが、本書の読み心地は一般的な警察小説とは少し異なります。読者の息を詰まらせるサスペンスを作り出しているのは捜査の過程よりも、登場人物の心理と、その交わらなさの部分です。ここに引き込まれる。
 たとえば、トムとジョディの兄弟のパートがスリリングなのは、二人が繰り返す殺人行為がショッキングだからではありません。そこについて作者はむしろ手短に語っていて、印象としておぞましさが読者の心に残る程度にしている。緊張感を産んでいるのは、あくまでこの兄弟の関係性です。
 お互いに自分たちのことを深い絆で結ばれていると思っている。なのに、破綻の気配が漂っている。色々なところで食い違い、胸中にストレスを貯め込んでいる。
 根幹にあるのは、十年の間にジョディは成長できたがトムはそうではなかったという差です。
 トムはジョディのことを、自分がいないと何もできない、他に頼れる者もいない奴として扱います。けれどジョディは実際にはそうではない。事件の後、一人の独立した人間として真っ当に育ち、友人だってできた。それがトムには分からない。自分の弟らしくないこと……他人と連絡を取ったり、言うことを聞かなかったりすることに腹を立てる。トムは何も変われていないのです。そもそも、殺人を繰り返してしまうこと自体、トラウマを克服できていないせいです。
 そしてジョディの方も、兄の本質的な問題に向き合えていないという意味で、本人のことをちゃんと見てやれていない。ただ、機嫌を取るようにトムに基本的には逆らわないようにしているだけ。
 一方、コンビとして比べた場合コワルスキーとマガイアの関係は意外にも順調です。この二人はヒッチコック兄弟とは真逆で、相手に依存していない。役割の押し付けも何も、相棒など不要と考えるところから関係が始まっている。
 ただ、別のところで悩んではいる。
 本書にはコワルスキーの息子の失踪という筋がサブプロットとしてあり、彼はその中で、元妻に父親として問い詰められたり、奔放な暮らしをしているらしい息子にどう向き合うのがいいか迷います。
 マガイアの方も、何故ブルーという犬のような名前をつけられたのか、どうして刑事などという職業を選んだのかが語られ、そこで本人にしか分からない孤独が示される。
 それぞれに人生が上手くいっておらず、独りぼっちである。
 そうした彼らの寂しさが遂に交わる瞬間が本書の最大の読みどころです。捜査の末、刑事が犯人へ辿り着き、最後の対決を挑むという捜査小説としてのクライマックスが、人間ドラマとしても最大の盛り上がりどころになっている。
 分かり合うわけではない。このクライマックスに及んでも彼らは各々の目的と悩みに基づいて行動をしているだけです。ただ、色んな意味でそれぞれの契機になっていて、悩みへの回答や救いがその中で見えてきたりするようになっている。
 全編にわたって切実に寂しさを叫んでいる小説なのに、本書の読後感は不思議と爽やかです。
 
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 自分のことをちゃんと見てほしい、というのは人間が普遍的に抱く感情だと思います。そして、その気持ちが強ければ強いほど叶えられないことが多くなる感情でもある。「自分を分かってほしい」が強すぎて他人のことを見ていない人のことを、理解してあげようとする人は少ないですから。
 だから、そうした類の人間を描くテリー・ホワイトの作品について僕は暖かいと感じます。少なくとも作者のホワイトだけは、寂しさを分かってくれている。

 

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小野家由佳(おのいえ ゆか)
ミステリーを読む社会人七年生。本格ミステリとハードボイルドとクライムコメディが特に好きです。Twitterアカウントは@timebombbaby