書評七福神とは翻訳ミステリが好きでたまらない書評家七人のことなんである。

 この連載が本になりました! 『書評七福神が選ぶ、絶対読み逃せない翻訳ミステリベスト2011-2020』(書肆侃侃房)は絶賛発売中です。

 というわけで今月も書評七福神始まります。

(ルール)

  1. この一ヶ月で読んだ中でいちばんおもしろかった/胸に迫った/爆笑した/虚をつかれた/この作者の作品をもっと読みたいと思った作品を事前相談なしに各自が挙げる。
  2. 挙げた作品の重複は気にしない。
  3. 挙げる作品は必ずしもその月のものとは限らず、同年度の刊行であれば、何月に出た作品を挙げても構わない。
  4. 要するに、本の選択に関しては各人のプライドだけで決定すること。
  5. 掲載は原稿の到着順。

 

 

酒井貞道

『弔いのダマスカス』デイヴィッド・マクロスキー/堤朝子訳

ハーパーBOOKS

 内戦下のシリアにおける諜報活動を描く。主役は二人。CIAの若手工作担当官サムは、ダマスカスで手痛い失敗を経験済みだ。もう一人はシリアの官邸職員マリアムは、アサド政権の官僚でありつつも家族がその暴政に晒されている。CIAはマリアムをスパイにする計画を立て、パリに出張してきた彼女に接触する。やがて物語は、アサド政権が国民に対して使用するための化学兵器にフォーカスされていく。

 極めてリアルな物語である。ただしそれは晦渋や地味を意味しない。むしろ派手である。なぜならシリアは内戦下にあり、治安は崩壊し、暴力や武力行使が当たり前だからである。もはや法の支配も崩れていて、権力が暴力や武力、強奪といった剥き出しの形で国民に、物理的かつ直接的に行使されるわけである。昔懐かしの冷戦下のスパイ小説ではそうは行かない。東西両陣営は基本的には国内をちゃんと統治していたため、謀略戦は(たとえ人がばたばた死ぬのだとしても)暗闘として繰り広げられた。しかし今のシリアのレベルで国家が失敗した場合、全ては大っぴらというか、導火線が極端に短いというか、謀略と暴力との距離が明らかに短くなってしまう。物語は戦争小説に明らかに片足を突っ込んでいる。そのような舞台で、国内各勢力とそれらを背後から支援する米露の思惑が渦巻き、サムとマリアムは危機の瀬戸際で愛し合い、おまけにアサド政権内部では足の引っ張り合いが生じる(ただし独裁者アサドだけは安泰。情報機関や警察機関すら分割して統治しているのである)。シリア政権の犬たちの一部にも、それぞれの人生と事情があることが語られている。世が世なら、真っ当に会話し親交を結ぶことすらできたであろう人と殺し合う羽目になり、出世は絶対にできなかったであろう人が権力を握って言うことを聞くしかない。一歩外に出れば銃弾が飛び交い、プーチンは何かを企み、アメリカの大統領は感情的で頼りがいはない。こういった中で、サムとマリアムをはじめとする主要登場人物が、計画を練ってそれを実行し、危機に陥ったり、頭またはアクションで挽回したりする。手に汗握る場面には事欠かない。国際謀略小説であることは間違いないが、同時に本書は戦争小説でもあり、アクション小説でもあり、サスペンス・スリラーでもある。これほどリアルな小説がこれほど色々兼ねて娯楽色を強められるのは、シリアが内戦下にあり、なおかつ優勢なのがアサド体制だからである、この厳しい現実を、読者が人間としてどう消化すべきかという問題は残る。残るが、まずは『弔いのダマスカス』を楽しむところから始めよう。

 

川出正樹

『警部ヴィスティング 疑念』ヨルン・リーエル・ホルスト/中谷友紀子訳

小学館文庫

 数多ある現役作家による翻訳ミステリの中から、初心者もマニアもともに満足させられる誰にでも安心してお薦めできるシリーズはなんだろうか、と考えた時に真っ先に頭に浮かぶのが、ヨルン・リーエル・ホルストによる未解決事件四部作(コールド・ケース・カルテット)だ。

 ノルウェー警察の警部ヴィスティングが国家犯罪捜査局(クリポス)の野心的な捜査官スティレルと組んで迷宮入りした事件に再度光を当て、事件発生当時には誰も見抜けなかった真相を掘り起こす。派手なギミックも猟奇的趣向も大どんでん返しもない。あるのは閃きと仮説と検証。古い資料と過去の記憶に基づく証言の中から様々な可能性を検討し、真相へと至る糸口を見つけ、徹底した捜査で未解決事件を解明する。この過程が抜群に面白いのだ。

 四部作の掉尾を飾る本作『警部ヴィスティング 疑念』のラスト間際でスティレルがヴィスティングに対して「あなたが過去の事件を調べるたびに、予想もつかない事態が起きる」という。それは、シンプルな見かけの裏にある複雑な背景をヴィスティングが明らかにするというだけではなく、眠れる犯罪の再調査が想定外の波紋を引き起こすことも指す。ヨルン・リーエル・ホルストは、この過去と現在の二つの筋を絡ませる手際に秀でていて、本作でも互いに無関係な過去の殺人事件と現在の失踪事件とを、ちょっと類を見ない独特な手法で交差することで事態を急展開させている。定年を間近に控えたヴィスティングが、差出人不明の手紙に導かれて自身が担当した事件に再度向き合う本書は、事件の全体像と真犯人の目的がなかなか明らかにならず、まさに五里霧中を行く面白さでぐいぐいとページを繰らせる。四部作ではあるがどれから読んでも問題ないので、この機会にぜひ手に取ってみて欲しい。

 

霜月蒼

『はなればなれに』ドロレス・ヒッチェンズ/矢口誠訳

新潮文庫

『はなればなれに』290ページで、脇役のひとりが夜のロサンジェルスをバスに乗って家に帰り着き、服についた血を処理し終えてベッドに身を落ち着け、つぶやくひとこと。これが素晴らしい。ここにはすぐれた暗黒小説だけが持つ冷たい酷薄さが見事に結晶している。無常観とでも言えばいいか。茫漠とした場所にひとり取り残されてしまったような感覚。こういう感覚をもたらしてくれる犯罪小説は一級品である。

D・B・オルセン名義の作品の印象が強かったせいか、ドロレス・ヒッチェンズのことをコージー的なミステリの書き手だと思いこんでいたが大間違い。本書は犯罪小説の傑作である。ある若い娘が住みこんでいる屋敷に大金が隠されていることを知った若者ふたりが、その娘と組んでカネを狙う――というあらすじどおりのシンプルな話だけれど、中盤で職業犯罪者がからんでくると一気に事態は複雑化する。それをヒッチェンズは冷酷なまでに明晰に語ってゆき、愚かしさと誤解と野心の錯綜を、無感動に読者に投げ出してくる。悲劇と喜劇の絶妙な混交。痺れる。こういう感覚のために僕はノワールを読んでいるのだ。傑作。

美点をもうひとつ。女性作家であるからだろう、台風の目のような立場に置かれる若い娘のキャラクターが、男性作家によるノワールにありがちなステレオタイプさを逃れている点だ。彼女のありようが男たちの愚かしい暴力性のカウンターバランスのように機能し、この酷薄な物語に青春小説の清冽な強さのようなものを加えている。ちょっと『彼らは廃馬を撃つ』を思い出しもした。強くおすすめ。

 

千街晶之

『終末の訪問者』ポール・トレンブレイ/入間眞訳

竹書房文庫

 古典本格ミステリ発掘路線にまだこんな逸品が残っていたのかと驚嘆したミシェル・エルベール&ウジェーヌ・ヴィル『禁じられた館』や、現代的でリアルな「悪」の描写が冴えるアン・クリーヴス『哀惜』など、月間ベストに選びたいと感じた作品が多かった三月だが、何だかんだで一番印象に残った(そして、今後もずっと記憶に残り続けるであろうと思わせた)のは『終末の訪問者』だった。同性カップルのエリックとアンドリュー、中国系の七歳の養女ウェン。人里離れた一軒のキャビンで幸せに暮らす彼らのもとに、四人の男女が押しかけてきた。彼らはエリックたちに、世界を破滅から救うためにあることを要求する……。被害者側の属性から、最初はゲイフォビアや人種差別による犯行を予想するだろうが、その可能性は早々に覆される。四人の男女はいかにも狂信者っぽくは描かれておらず、エリックたちに理解を求め続け、自主的な選択を尊重しさえする。四人はあくまでも理性も良識も残した「普通の人間」であり、彼らに取り憑いた歪んだ信念を読者が「理解」することさえ可能なところに本書の恐ろしさがある。現在、この小説を原作とするM・ナイト・シャマラン監督の映画『ノック 終末の訪問者』が公開中だが、結末は大きく異なるので比べてみてほしい。

 

吉野仁

『はなればなれに』ドロレス・ヒッチェンズ/矢口誠訳

新潮文庫

『はなればなれに』は、新潮文庫〈海外名作発掘〉シリーズの最新刊にして、『気狂いピエロ』につづくゴダール監督映画の原作で、作者はドロレス・ヒッチェンズだ。二十二歳のチンピラふたりと十七歳の娘が主役となる犯罪もの。冒頭あたりはさほど面白味を感じなかったものの、現金強奪計画決行日が近づくにつれストーリーに入り込んでしまい、最後はひさびさに救いのなさを味わった。これぞ名作である。巻末で訳者が紹介しているヒッチェンズ未訳作も大いに気になった。わたし好みのサスペンスということでは、ジュリー・クラーク『私の唇は嘘をつく』もまた最高の犯罪ものだった。生まれながらの詐欺師メグと彼女に恨みを抱き追いかけるキャットという女ふたりの独白が交互に展開していく。評判を呼んだ前邦訳の『プエルトリコ行き477便』とはまったく異なる作風で、まずはメグが目当ての男を騙し転がそうとする手管の数々で物語に引き込まれるが、無論それだけで終わらない。詳しくは書けない読みどころも多く、お薦めだ。ラリー・セイガー『夜を生き延びろ』の主人公チャーリーは、親友が連続殺人犯に殺されたばかりの女子大生で、ジョシュという男の車に乗ってキャンパスを去ろうとしたが、やがて男の怪しさに気付きはじめ……というサスペンスだ。なら最初から乗るなよ、とツッコミたくなる設定ながら、フィルムノワール好きな映画オタクの蘊蓄やひねりのある展開など、いい意味でのB級エンタメ趣向全開で飛ばしていく快作である。ジーン・ハンフ・コレリッツ『盗作小説』は、新作を書けなくなったベストセラー作家が、小説創作講座の教え子の作品プロットを盗んで本を出したものの、その事実を知る何者かから強迫されるというサスペンスだ。いかにも現実にありそうなエピソードや心理描写がまずは読みどころ。ミシェル・エルベール&ウジェーヌ・ヴィル『禁じられた館』は1932年発表で、いわくつきの館で起きた不可能犯罪というストレートな古典探偵ものファン向けの作品。グレッチェン・マクニール『孤島の十人』は、クリスティー『そして誰もいなくなった』のオマージュというよりは、青春ホラー映画のノリを強く感じた。マックス・ブルックス『モンスター・パニック!』は、怪物が暴れるだけでなく、火山噴火で閉じこめられた人々が知恵と力を駆使して戦うサバイバル活劇の迫力がたまらない。デイヴィッド・マクロスキー『弔いのダマスカス』はシリアを舞台にした本格的なスパイもので、工作員の行動をはじめ諜報活動のディテールが生々しいほどよく描かれている。作者が元CIAの分析官というので、その点は伊達じゃない。ヨルン・リーエル・ホルスト『警部ヴィスティング 疑念』はコールドケース四部作の最後をかざるもので、あいかわらず、ていねいな捜査模様を読ませる警察小説だ。それはアン・クリーヴスの新シリーズ第一作『哀惜』も同様で、こちらは、ふたつの川が注ぐことで知られるイギリス南西部の町を舞台に、海岸で男の死体が発見されたことから警察が捜査をはじめる物語。死んでいた男はどういう人間なのか、なぜそんなことになったのかという謎が暴かれていくのである。ここのところ海外エンタメ作品の刊行量が多く、まだまだあるが読み切れなかった。

 

杉江松恋

『哀惜』アン・クリーヴス/高山真由美訳

 自分が解説を担当した本だが、今月はもうこれを推すしかない。群像的なキャラクター小説の中にミステリーの手がかりを忍ばせる技巧はアガサ・クリスティーが完成させた英国推理小説の伝統芸である。現代においてその最も優れた後継者はアン・クリーヴスだ。創元推理文庫でジミー・ペレス警部シリーズ全八作が刊行されており、このたび版元を変えて新たな主人公の物語が始まることになった。マシュー・ヴェン警部がその人で、舞台は二つの川が交わることからトゥー・リヴァーと呼ばれるノース・デヴォンの海岸町である。そこにある砂丘で男性の死体が発見されることから物語は始まる。

 被害者の肖像を描こうとする試みへの興味が物語の前半を牽引する。亡くなったサイモン・ウォールデンはアルコール依存症を克服して人生をやり直すためにこの町に来た、というのが最初に告げられることだが、彼に関する目撃情報を集めていくうちにそれとはそぐわないものが増えていく。『サイモンは誰か?』という謎だ。後半に至ってある情報が判明すると一気に話の見え方が変わってきて、故人の思惑と、彼を死に至らしめた犯罪の全貌が少しずつ見えてくる。マシューはこれを着実な聞き込み捜査で進めていくのである。階級が警部なのでチームを率いる立場なのだが、好ましいのは彼が謙虚な男であることだ。スーツを品よく着こなして、いつも礼儀正しく振る舞うこの主人公に対して好意を抱かずにいることは難しい。

 ネタばらしにならないように細かいことは省くのだけど、本書で最も好ましいのはそのフェアネスだ。世の中にはいろいろな人がいて、それぞれに大事な人生があるということを物語の中でクリーヴスは綴っていく。主要な舞台の一つに、学習障害を持つ人が社会参加をするための施設がある。そこに通う女性ルーシー・ブランディックの証言が大事な意味を持つのだ。このルーシーを含め、社会の中で決して多数派ではない人を書くときのクリーヴスの筆致に注目いただきたい。各登場人物を愛おしむような手つきでクリーヴスは描いていく。その優しさがあるからこそ、許しがたい犯罪への怒りが掻き立てられるのである。現代のミステリーとして、ほぼ完璧な作品である。まさに必読。

 

 ゴダール監督作品や現在公開中のものの原作と不思議に映画の縁がある月でした。その他も静謐な謎解き小説あり、アクション・スリラーありとバラエティ豊かです。さて、来月はどのような作品が取り上げられますことか。(杉)

 

書評七福神の今月の一冊・バックナンバー一覧