先般亡くなられた北上次郎さんは、本サイトで書評七福神の一柱として連載第一回から休まずに活動してこられました。そもそも本連載自体が北上さんの発案で始まったものです。訃報を受け、残された六人はただ戸惑うばかりでした。哀しみは深く、容易に癒えそうにはありませんが、その気持ちとしばらくは共に生きて行かなければならないでしょう。故人の遺志を継いでこの連載を続けていくためにも、今回は特別編をお送りします。氏が複数名義で残した多数の著書から、七福神メンバーがそれぞれのお気に入りを取り上げ、レビューいたします。これからも読み、そして書いていきます。北上さん、天国で見守っていてください。

  1. 掲載はいつも通り原稿の到着順。当たり前のことですが、揃った原稿が六本で、七本ではないことを心から残念に思います。

 

 杉江松恋

 

千街晶之

『勝手に! 文庫解説』

集英社文庫

 北上次郎氏の代表作として語り継がれる著書は『冒険小説の時代』や『冒険小説論 近代ヒーロー像100年の変遷』だと思うが、同業者として「こういう本を出してみたかった」と憧れを感じるのは『勝手に! 文庫解説』だ。これは、出版社から依頼されなかったので文庫解説を書く機会がなかった本について勝手に解説を書いてしまう……という企画である(「ミステリマガジン」の連載をまとめたもの)。基本的に文庫解説の仕事というのは出版社からの依頼待ちなので、書いてみたかった本の解説依頼が来なかった経験を同業者なら誰しも持っている筈だが、そうか、勝手に書いてそれを本にすれば良かったのか……。
 文庫解説を依頼される際には、四百字で八枚までとか十枚前後とか、枚数をあらかじめ編集者から通達される。その制限の中で、どれだけ自分の書きたいことを盛り込めるかが工夫のしどころである。だが『勝手に! 文庫解説』の場合、それこそ「勝手に」書くのだからどれだけ長く書いても短く書いてもどこからも苦情は出ない筈なのに、もとが雑誌連載だからという事情はもちろんあるにせよ、北上氏は七~八ページという決まった枠にきっちり収めて書いている(最後のジョージ・R・R・マーティン「氷と炎の歌」だけはシリーズなので例外だが、それでも文庫解説三冊ぶんに分けるというスタイルは崩さない)。ストイックだ。それでいて窮屈という印象はなく、氏なりの論をのびのびと展開している。時には同じ小説に対する同業者の読み方に異を唱えたりしつつ、作品論を通じてその書き手の本質に迫る作家論へと発展させる筆捌きは見事としか言いようがない。少なくとも四~五万円、多ければ十万円くらいは支払われる実際の文庫解説と異なり、「ミステリマガジン」の決して高くはない原稿料(失礼!)でこれをずっと続けていたというのは、本当に小説が好きで、それについて語りたいという熱い思いがなければ出来ないことだろう。
 同業者の視点から……ということで言えば、この本でもう一つ興味深かったのが巻末の「文庫解説 スペシャル座談会」。北上氏のほか池上冬樹・大森望・杉江松恋の各氏が文庫解説について語り合っているのだが、各自のスタンス、解説の依頼を断ったことがあるかどうか、〆切をどれくらい守るか等々、同業者として気になる話題が赤裸々に語られており、非常に参考になるし楽しい。

 

川出正樹

『書評稼業四十年』

本の雑誌社

 いやはやなんとも悩ましい。目黒考二・北上次郎・藤代三郎の三つの筆名で合わせて六十五冊の単著があり、本にまつわるものだけでも三十冊を超える作品群から一冊を選ぶ。そんな難題は、どれだけ頭を絞ったところでクリア出来るものではない。この企画が決まってからというもの、思いつくままに手に取りページを繰り、氏の声色を思い起こしながら読み耽り一ヶ月近く考え続けているのだけれども、締切ギリギリになった今もまだ絞りきれないでいるのだ。なので書評、評論、ブックガイド、そしてエッセイと多岐にわたる本絡みの仕事の代表作をそれぞれ順に挙げてみる。

 まず書評では、『冒険小説の時代』(集英社文庫)、『ベストミステリー10年』(晶文社)、『極私的ミステリー年代記(クロニクル)』(論創社)の三部作だろう。1978年から2023年に亡くなるまで足掛け四十五年にわたって「小説推理」に一度も休むことなく連載された新刊ミステリ時評をまとめた文字どおり氏のライフワークであり、日本における冒険小説の揺籃期から現在に至るまでの趨勢を、北上次郎独特の重く鋭く大胆に熱弁するレビューを通じて浮き彫りにした第一級の史料でもある。2013年以降の十年分が書籍化されていないのは、このジャンルにとって大きな損失であり、追悼の意も込めて是非ともまとめて欲しい。

 評論は、なんといっても1994年に第四十七回日本推理作家協会賞を受賞した『冒険小説論――近代ヒーロー像一〇〇年の変遷――』(早川書房)だろう。「ミステリマガジン」誌上での八年にわたる連載をベースに、十九世紀末に誕生した冒険小説/活劇小説の本質を一一〇〇枚にわたって東西のヒーロー像の変遷から仮説を立て検証し論考した画期的な名著だ。本書の副読本として同時期に書かれたコラムを集めたブックガイド『冒険小説ベスト100』(本の雑誌社)とともに長く読み継がれて欲しい。

 エッセイでは、新刊翻訳小説の中から気になるテーマや会話、シーンに着目し、そこから想記される感慨を綴った「ミステリマガジン」での連載をまとめた『感情の法則』と『記憶の放物線』の二部作(ともに幻冬舎文庫)が心にしみる。

 と挙げたところで、これらを差し置いて『書評稼業四十年』(本の雑誌社)を選んだのは、ひとえに今の気分にほかならない。それがどんなものかを言い表すのは難しいのだけれども敢えて言うならば、偉大なる先達に対する敬意と謝意、そして感傷といったところか。

 「エンタメ書評界の回顧録」と帯に唱われた本書は、「本の雑誌」創刊から四十年目にあたる2016年から2019年まで「ミステリマガジン」に連載された原稿の間に、「問題小説」に掲載された「書評家になるまで」「中間小説誌の時代」を組み込んだ一工夫凝らした作りになっている。書評家・北上次郎誕生からの四十年間を振り返り、その間に出会った編集者や書評家とのやりとりから得た知見、作家との付き合い方、文庫解説・新人賞応募原稿下読み・アンソロジー編纂、さらに締切といった書評稼業にまつわる内情を思うままに綴ったエッセイ集だ。書評家・北上次郎の本に対する真摯な姿勢と人間的魅力を知る上で格好の書でもある。今回再読して、業界の末席に連なる同業者である自身を見つめ直し反省するとともに、北上氏から鼓舞される思いがした。

 ここからは完全に個人的な話となる。本書の中で北上さんは、「この十年、私がいちばん意識している書評家は、霜月蒼である。なぜなら私と同じジャンルだと思うからだ」という一文で始まる《書評家の分類について》という項で、霜月蒼氏を「『煽り書評』を書く扇動家」と位置づけ自身もそこに分類した上で、書評家を大きく三つにわけて残り二つを「書斎派型の研究家」「評論家」と定義した。その「評論家」の中に杉江松恋氏と並んで私も入れられていたのだ。『冒険小説の時代』と内藤陳の『読まずに死ねるか!』(集英社文庫)、そして瀬戸川猛資『夜明けの睡魔――海外ミステリの新しい波』(創元ライブラリ)で育った身としては、「北上さんの目にはそんな風に見えていたのか」と、連載当時、やや意外に感じたものだが、この機会にこれまでの自身の仕事を振り返ってみるに、なるほどと納得、あらためて北上次郎氏の慧眼を思い知らされた。それを本人に伝えられないことが残念でならない。

 

吉野仁

『新刊めったくたガイド大全』

本の雑誌社

 いま「本の雑誌」は毎月、あちこちの書店に並んでいる。しかし、刊行当初は、置いてある書店もかぎられているばかりか、次にいつ出るのか、正確な日にちはわからなかった。
 なので、その存在を知って買い求めるようになってから、雑誌が出た翌々月あたりには、次号はまだか、店先に置いてはいないか、と毎日のように神保町の書店をのぞいていたものだ。そして最新号があったときの喜びよ。わくわくしながら読んでいった。いま思えばなんと幸福な時代だったか。
 それゆえに、「本の雑誌」初期における北上さんの「新刊めったくたガイド」は連載時に本誌で読み、単行本になって読み、文庫化されてまた読み、そしてふたたび単行本を取り出して読み、おそらく著作のなかでもっともくりかえしページをめくった著作となった。
 もちろん『冒険小説の時代』『冒険小説論』も負けず劣らず夢中になって読んだものだ。思えば北上次郎さんの名前を最初に目にしたのは「ミステリマガジン」で冒険小説についての文章だろう。おそらく日本冒険小説協会が正式に誕生するまえ、六本木で準備総会を開いた際に北上さんが参加していたのなら、そのとき最初にすれちがっているはず。個人的な話は長くなるので以下略だが、自分が書評家となり、こんにちまでやってこれたのは、北上さんの存在なくしては考えられず、感謝するばかりである。コロナ禍以降は画面ごしながら、亡くなるほんの一カ月ちょいまえまで、ひんぱんに本の話ができたのも幸せだったことかもしれない。
『新刊めったくガイド大全』を読みこんでいくと、北上さんは作品や作家のどこを気にいったか、どう読み解いたか、もしくは分からず宿題にしたかなどが見えてくるため、さらに先を追いかけたくなる。できれば「本の雑誌」に掲載した全「新刊めったくたガイド」を書籍にしてほしいものだ。
 新刊をめったくたにガイドする。そこにまだ読んだことのない皆がほめてない面白そうな本があればどんな分野でもむやみやたらと読んで紹介していく。だから本があるかぎり北上次郎は死なない。その魂は世界の書店をさまよい、中国で長大な中華武侠小説を集めたり、アメリカ西部で新旧ウェスタン読みあさったりしているのかもしれない、と思うことにしている。
 北上さん、ほんとうにありがとうございました。

 

霜月蒼

『記憶の放物線』

幻冬舎文庫

 はじめて読んだのは『冒険小説の時代』だった。中学生のときのことである。僕が海外エンタメ小説の沼に本格的に足を踏み入れたのはこの頃で、早川書房のミステリマガジンも買いはじめた。同誌上で北上次郎の『冒険小説論』の連載が開始されたのもこの頃だった。のちの1994年、この連載をまとめた本が第47回日本推理作家協会賞を受賞する。僕は友人の手引きでその授賞式の二次会にもぐりこみ、北上次郎とはじめて出会うことになる。それから30年。北上次郎は霜月蒼という書き手にとって最重要の存在でありつづけた。北上次郎がいなければ僕はここにいない。そもそも僕の文体は北上次郎のパクリみたいなものだ。

「北上次郎」は「本の雑誌」の発行人を長らく務めた編集者・目黒考二の筆名である。僕はつねづね、本体は「編集者・目黒考二」だと思ってきた。つまり北上次郎という書き手の本質は、自分が発見した才能を広く読者に知らしめたいという衝動と、それを実現するための煽動的なコピーライティング術があって、これはほとんど編集者の仕事だからだ。インディーズ雑誌を大きく育てあげたのも、編集者としての才能の証である。新たな書き手への目配りは小説家のみならず、ライターや書評家にも及んだ。物書きとしてのキャリアはなきに等しかった僕に『新刊めったくたガイド大全』(角川文庫)の文庫解説の依頼がきたのは、目黒さんの差し金であっただろう。これが僕のはじめての文庫解説になった。いま読み返すと気合が入りすぎているし、北上次郎節も手あたり次第にねじこまれていてオマージュというかトリビュートというかパスティーシュのようだ。でも、それくらい気合入れたんです。だって北上次郎の本なんだもの。

 北上次郎が「最近、霜月蒼が気になっている」という文章を書いたのは「本の雑誌」2010年3月号。光栄どころの騒ぎではない。この号は2冊買って片方は大事に保管してある。2013年3月には、この翻訳ミステリー大賞シンジケートの不定期連載「北上次郎の質問箱」で「霜月蒼さま ジャック・リーチャーは本当にカッコいいですか?」という挑戦状をいただいて、これに立ち向かうことになったのも思い出深い。あのときも書いたとおり、これは「おそるべき光栄」だった。結果的に、あの原稿は僕にとって冒険小説というものを改めて考え直す契機になった。同時にあの原稿は「北上次郎の『冒険小説論』論」でもあったのだ。何か大きな借りを返したような気持ちが、あのときの僕にはあった。

 キリがなくなってきた。最後にもうひとつだけ書く。一連の読書エッセイのことだ。とくに「感情の法則」「記憶の放物線」と題されたミステリマガジンでの連載を、僕は毎度すごく楽しみにしていた。これは奇妙なエッセイで、北上次郎が最近読んだ海外ミステリを冒頭で紹介し、「ここで思い出すのは友人**君のことである」みたいな一文で転轍、記憶のなかの一場面について語りはじめる形式をとっていた。これがすばらしかった。いわゆる書評の要素はほとんどなかったが、ここがどうのあそこがこうのという硬い話だけで、本や読書という体験を写しとれるものでもない。読書はもっとパーソナルでプライヴェートなものでもある。そうした感慨を穏やかに綴れる書き手としての北上次郎も僕は好きだった。今回、ベストを『記憶の放物線』としたのは、『感情の法則』も『記憶の放物線』も同じくらい好きだけれど、『記憶の放物線』は僕が文庫版の解説を書いたからである。これも北上次郎のご指名のはずである。何より今でもこの解説は気に入っていて、恩人の傑作を汚さぬものが書けたと思っているからだ。ときが経ってもそういうふうに思える原稿は多くない。

 北上次郎=目黒考二の死は僕にとって非常に個人的なものだ。だから個人的な思いでベストを選ばせていただいた。読者諸賢には諒とされたい。いま思うのは、北上次郎に『ちはやふる』をすすめたかった、という悔いである。ぜったい目黒さん好きなはずなんだよ、こういう話。

 

酒井貞道

『冒険小説論 近代ヒーロー像一〇〇年の変遷』

早川書房

 北上次郎は自分が読んだ本に対して本当にヴィヴィッドに反応していた。それが皆好きだった。私も好きだった。またそれがゆえに、推薦の言葉に力が籠り、読者の琴線や食指に届きやすかったのだと思う。この特質が最も発揮されたのは時評だと思う。ならばここで『極私的ミステリー年代記』等を選ぶのもアリだ。しかし北上次郎亡き今、改めて注目したいのはそのバックボーンである。その精神のヴィヴィッドな跳躍はどこを起点になされたのか。わかりやすいレビューに比して、その点がなかなか見えにくい人でもあった。

ということで『冒険小説論』である。前半は海外、後半は国内の、冒険小説における主人公像の変遷を、概ね時代順に語っていく。主人公を通して冒険小説の変化を見ていく、という内容になっているが、本当に主人公のことだけを書いているわけではなく、実際には物語の流れや小説自体のコンセプトにも指摘は及び、内容は、副題に反して主題に完全に則している。時評のときに比べると明らかに書き方が硬質なのが興味深い。批判的言及も頻繁かつ鋭くおこなわれ、冒険小説とその主人公が目の前で構成要素に解体されていく趣が強い。「男のロマン」的なファジーな概念、そして今のジェンダー認識にそぐわなくなりつつある概念をあまり持ち出さないのも特徴で、論理は明晰かつ客観性が強く、刊行後30年経った今でも論旨は何の違和感もなく受け容れられる。内容が年を取っていないのだ。ただし、底に熱を感じる文章でもある。

少なくとも『冒険小説論』で触れられた時代まででは、北上次郎が冒険小説作品に下してきた評価は、日本市場が冒険小説作品に下してきた評価と相当部分が重なっている。よって気付きにくいが、北上次郎の冒険小説に対するスタンスまたは嗜好と言うべきものが、本書には刻まれている。そしてそれは、他の小説作品にも適用されたのではないか。そう思わせる内容が、ここにはある気がするのだ。少なくとも、小説読み・北上次郎の大きさの一端が刻まれている。あとがきで彼は、本書を「読書メモ」ではないかと謙遜する。確かに読書メモ的な側面はあるが、読書メモを積み重ねただけで冒険小説全体の変遷を追う大きな流れを感じさせる人が、果たしていかほどいるか。北上次郎はとても大切な本質的何かを確かに掴んでいた。そう実感させる好著である。

 

杉江松恋

『阿佐田哲也はこう読め!』北上次郎

田畑書店

 個人的な思い入れのある本というと、実は本書ではなくて『書評家稼業四十年』なのである。自分の名前が同業者ということで出てくるという事情もあるが、その中に収められている「中間小説の時代」という文章に少しだけ私が関わりを持ったからだ。これは、かつて中間小説というジャンルが出版界の花形だった時代について書いた評論である。徳間書店の『問題小説』に、ある日いきなりぽかんと載った。私は同誌に十年以上にわたって書評を連載していたので、北上さんがおもしろいものを書くな、と思って読んだ記憶がある。それを何年かしてから本人に伝えたところ、実はあれを核にして出版と自分の関わりを軸にして年代記のようなものを書く準備があるという。版元は未定ということでちょっとお手伝いをしたのだが実を結ばず、しばらく経ってから、あれは本の雑誌社で出すことになった、と聞かされて安堵したのである。そういう経緯があった。中間小説、という雑誌の需要に端を発するジャンルに興味を持つところがいかにも北上=目黒さんらしい。

 北上さんの書評については、実はこの前に書いてしまった。『本の雑誌』の追悼号に「北上次郎に学べ」という文章を載せてもらったのである。北上書評というと、熱量の高さばかりが喧伝される傾向にあるので、きちんとその技巧についても言及しておきたかった。よかったら一読いただきたい。そこで技巧のことを書いたので、もう書かない。では、何を書くか、ということだ。

 北上さんとは本の好みがまったく違った。びっくりするぐらい違うのだが、それをおもしろがる大人の器が北上さんにはあった。甘えて私は、あまり北上さんの眼力について直接本人に申し上げたことがなかったように思う。当たり前すぎて言えなかったのだが、今からすれば「北上さんはすごい」とちゃんと伝えておけばよかった。悔いている。

 もちろん北上次郎はすごいし、書評家として尊敬していたのだが、はっきりと打ちのめされるくらいにいいと思ったのは『阿佐田哲也はこう読め!』収載の『麻雀放浪記』評論が最初だと記憶している。これは1991年から刊行が始まった『色川武大・阿佐田哲也全集』(福武書店)の解説をまとめた本である。色川武大を佐伯一麦、阿佐田哲也を北上次郎が、という形で分担して各巻に解説を入れた。その北上分だけをまとめたのだ。

 本書を手にして読み始めたとき、あっ、と思った。冒頭で北上さんはギャンブル小説はピカレスクだ、という命題を提示して、フレデリック・モンテサー『悪者の文学』(南雲堂)を引く。そこに挙げられた条件を列記して、日本のギャンブル小説でこれを満たすものは多くない、最も合致するのが阿佐田哲也だ、とやるのである。ただし『麻雀放浪記』もモンテサー定義のこれこれを満たしていないので不完全だが、と書いて『青春篇』の解説に入る。なるほど、と思ってページをめくっているとそれは実は仕掛けで、後段になってその欠落した条件が、『麻雀放浪記』四部作の第三作『激闘篇』によって満たされる、ということを明かすのである。つまりそれによって完璧なピカレスク小説の要件を満たしたということになる。

 この流れに見覚えがあった。そうだ、私は『全集』が出たときに北上解説を読んでいたのである。自分の中に阿佐田哲也に対する尊崇の念がある。それはあまりに巨大すぎて、ただ、いいとしか言えてなかったのだが、この解説を読んだときにすとんと胸に収まる感覚があった。自分ができなかった言語化を北上次郎が代わりにやってくれたという心地よさを、遥か三十年前に味わっていたのではないか。これが書評家・北上次郎の凄みであることを『阿佐田哲也はこう読め!』に巡り会うまで私はすっかり失念していたのである。

 ということを、直接私は北上さんに伝えるべきであった。うっかりしていた。後悔してももう遅いのである。ちなみに『青春篇』『風雲篇』『激闘篇』ときて最も影が薄い『番外篇』だが、北上さんはちゃんとこの第四作にも存在の意味を見出している。それは北上さんが愛したドサ健に関することなのだが、ここで書くのはやめておく。実際に本を手にした人だけのお楽しみである。北上さん、やっぱり阿佐田哲也はいいよね。いつかまた「シュウシャインの周坊」の話をしましょう。

 

【お知らせ】

北上次郎さん(目黒考二さん)を偲ぶ会が明日予定されております。

詳しくは以下のtwitterリンクから。

 

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