今月はリンウッド・バークレイの2018年の作品、“A Noise Downstairs”をご紹介します。
 バークレイは2004年のデビュー以来、毎年コンスタントに新作を発表していて、少年少女向けの本も含めれば、著作はすでに20作以上。日本でも『失踪家族』『崩壊家族』(いずれも高山祥子訳/ヴィレッジブックス)、『救いようがない』(長島水際訳/ヴィレッジブックス)の3作が紹介されているので、ご記憶の方もいらっしゃるでしょう。

 主人公のポール・デイヴィスは文学を専門とする大学教員。離婚歴があり、いまは再婚した妻とのふたり暮らしです。そんな彼がある晩、同じ大学の教員、ケネス・ホフマンの車に女性ふたりの死体がのっているのを発見。直後、ケネスにシャベルで頭部を殴られ、殺されそうになったところを通りがかった警察官に助けられます。殺害されていた女性はふたりともケネスの不倫相手でした。ケネスは殺害を認め、二件の殺人と一件の殺人未遂で有罪となります。
 事件そのものはそれで区切りがつきましたが、九死に一生を得たポールは、8カ月がたったいまも事件の後遺症に苦しんでいます。悪夢にうなされ、夜中に汗びっしょりで目覚めることもしばしば。さらに彼を悩ませているのが、記憶障害です。妻に頼まれていた用事を忘れる、自分で言ったことややったことを忘れるなど、直前の記憶が失われる症状があるため、まだ大学教員の仕事に復帰できずにいるのです。
 それでもセラピーに通い、少しずつ日常を取り戻しつつあるポールですが、妻からアンティークのタイプライターをプレゼントされたのをきっかけに、おかしな現象に悩まされるようになります。真夜中に、階下からタイプライターを打つ音が聞こえてくるのです。下におりて確認しても、誰かが侵入した様子はありません。同じ部屋で寝ている妻はなにも聞こえないと言うばかり。幻聴なのか、それとも悪夢の延長なのか。妻の助言でタイプライターに紙をセットしたところ、自分では打った覚えのない文字が打たれているのを見て、ポールはぞっとします。
 ケネス・ホフマンが殺害した女性ふたりは、殺害前に反省文のようなものを書かされていました。使われたのはポールがプレゼントされたのと同じメーカーのタイプライターであることまではわかっていますが、タイプライターそのものは見つかっていません。もしかして、このタイプライターは事件で使われたもので、殺されたふたりの女性の霊魂が宿っているのでは? そんな考えはばかげていると思いながらも、この不可解な現象に納得のいく説明がつけられないポール。何者かが家に侵入したのか。まさか、自分で打っておきながら、その記憶がないなどということは……?

 怖いです。とにかく怖い。前半で小出しに提示される記憶障害や悪夢などのエピソードが中盤になってじわりじわりと効いてきます。ふだんのポールならば、タイプライターに霊魂が宿っているなど考えもしないでしょう。むしろ、他人がそんなことを言ったら一笑に付すかもしれません。しかし、事件の影響で精神的にも肉体的にも万全でないため、思考が負のスパイラルに陥り、そこから抜けられなくなってしまいます。妻もセラピストもポールの力になろうとしながらも、すべてはポールの思い込みではないかというようなことを、遠回しに言ってきます。誰にも信じてもらえない苦しみと、やはり自分は本当に精神的におかしくなっているのではないかという不安とがせめぎ合い、その気持ちが痛いほど伝わってきます。
 残り3割ほどのところで、話は斜め上どころか、とんでもない方向に展開し、そこからはフルスロットル。いや、こんなことをして、このあと大丈夫なのか、と心配になりましたが、前半であの人を登場させたのはこういうわけだったのか、と最後まで読んで納得しました。
 ところで、今月発表になった英国推理作家協会主催のCWA賞のイアン・フレミング・スチールダガーにバークレイさんの昨年の作品、“Take Your Breath Away” がノミネートされています。こちらもいつかご紹介できたらなと思います。いえ、こちらでの紹介を待たずに、訳書が出てくれたら万々歳なのですが。

東野さやか(ひがしの さやか)

翻訳業。最新訳書はローラ・チャイルズクリスマス・ティーと最後の貴婦人(コージーブックス)。その他、クレイヴンキュレーターの殺人』、『ブラックサマーの殺人』(ハヤカワ文庫)。ハート『帰らざる故郷』(ハヤカワ・ミステリ)、アダムス『パーキングエリア』(ハヤカワ文庫)など。埼玉読書会と沖縄読書会の世話人業はただいまお休み中。ツイッターアカウントは @andrea2121

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