田口俊樹

 また目黒考二(北上次郎)さんのことになるけれど――亡くなった当初、どれもどうでもいいことながら、生前彼に腹を立てたことばかり思い出され、思い出したまましゃべったりも書いたりもしたんですが、なんだったんですかね、あれは。心理学で言うところの「否認」の一種だったんでしょうか。
 というわけで、シンジケートのこのコラムにはちょっとはいい思い出を、と思ったんですが……なんと一個も思い出せない!
 なので、今年の二月におこなわれた彼の葬儀で一番心に残ったことをご報告。
 出席者30人ほどの家族葬で、こぢんまりとした、心に残るとてもいい葬儀でした。そんな中、おひとり、号泣なさっているかなりご高齢の女性がおられました。あとからわかったのですが、目黒さんの奥さんのお母さまでした。骨が焼かれるのを待つ火葬場で昼食となり、その席で、涙ながらにお母さまはおっしゃいました。主人を亡くしたときより何倍も悲しいと。
 目黒さんはおよそ家庭的な人ではありませんでした。仕事中心で、結婚してから七十近くなるまで、土日しか家に帰らないような人でした。奥さんのお母さまにしてみれば、そんな婿さんだったわけです。それなのに?
 徹頭徹尾偏屈爺だったのに、目黒さん、不思議と人に好かれる人でした。

〔たぐちとしき:ローレンス・ブロックのマット・スカダー・シリーズ、バーニイ・ローデンバー・シリーズを手がける。趣味は競馬と麻雀〕

 


白石朗

  宙組宝塚大劇場公演『カジノ・ロワイヤル〜我が名はボンド〜』のディスクが届いて「おおゴージャス」とつぶやき、ペンギンボックス『おでかけ子ザメ』の第三巻になごんでアニメの公開を楽しみにし、高橋幸宏と坂本龍一の名前が表紙にフィーチャーされた雑誌類をひらいては、この種の特集もう少し先でもよかったじゃねえか……とつぶやいているうちに過ぎていったこの一カ月でした。
 そんなわけで残りは臆面もなく宣伝。スティーヴン・キング『異能機関』(文藝春秋)好評発売中です。インパクトある邦題は今作より担当してくれた編集者T氏の考案によるもの。すでにお読みになった方の評をこわごわ拝見するにまずまず好評のようでほっとひと安心。次の長篇も日々老眼と老骨に鞭打って一字一字とぼとぼ進めていますので、なにとぞよしなに。
 また本作刊行に先立って、『デビュー50周年記念! スティーヴン・キングを50倍愉しむ本』が無料の電子書籍として公開されています。上記長篇の第一章試し読みや、ここでしか読めないキング短篇(約80枚――犬好きの方にはことのほか好評のようです)、版元・文藝春秋の永嶋氏と不肖・白石によるキング対談などをそろえたプロモキットになっています。

〔しらいしろう:老眼翻訳者。最近の訳書はスティーヴン・キング&オーウェン・キング『眠れる美女たち』。〈ホッジズ三部作〉最終巻『任務の終わり』の文春文庫版につづいて不可能犯罪ものの長篇『アウトサイダー』も刊行。ツイッターアカウントは @R_SRIS

 


東野さやか

 先月、長年愛用してきたパソコンのモニターを買い替えました。前も、その前もEIZOのモニターを使っていたので、今回も……です。いまは、目に優しいタイプのモニターが他社からも出ていて、お値段も半分くらい。近場で実物を目にすることができていれば、そちらを買っていたかもしれません。でも、まあ、昔から言うじゃないですか。モニターと眼鏡にかける金を惜しんではいけないと(諸説あります)。
 眼鏡と言えば、実は仕事用の眼鏡も、ついこのあいだ、新しいものを買いました。今月の請求が怖いです。
 こんなことを書いていたら、10年以上使っている扇風機が首を振らなくなっているのに気づきました。これもやはり買い替えでしょうか。ますます出費が……。がんばって仕事しなくちゃ。

〔ひがしのさやか:最新訳書はM・W・クレイヴン『キュレーターの殺人』(ハヤカワ文庫)。ハート『帰らざる故郷』、チャイルズ『ハイビスカス・ティーと幽霊屋敷』、クレイヴン『ブラックサマーの殺人』など。ツイッターアカウント@andrea2121

 


加賀山卓朗

 パソコンのCD/DVDドライブのテスト代わりに『落語研究会 古今亭志ん朝全集』を観はじめたら、しょっぱなの「文七元結」がすばらしすぎて、やめられなくなった。もう全集の最後まで行くしかありません(刑事コロンボのときと同じ)。
 しかしまあ、私のような素人の眼にも、あらゆる芸をものすごく高いレベルでやっていることがわかる。師匠演じる江戸っ子はみんな活きがよくて、気分がスカッとしますね。しかもお役人から花魁から長屋のハっつぁんまで、くもりがなくて品がある。
 でもショックだったのが、日本語なのにけっこう聞き取れないのです。「大工調べ」の棟梁の啖呵なんか、5〜6割拾えるかどうか。もちろん師匠の滑舌は天下一品ですから、原因は私の関連語彙の少なさと耳の悪さです。解説を聞いたりネットで調べたりして、なるほどこういうこと言ってたのねと。四国南西部の啖呵だったらいまも100%聞き取る自信がありますけど、それがなんの役に立つというのか。
 まあとにかく、しばらく昼の弁当の時間に泣いたり笑ったり楽しめそうです。

〔かがやまたくろう:ジョン・ル・カレ、デニス・ルヘイン、ロバート・B・パーカー、ディケンズなどを翻訳〕

 


上條ひろみ

 少しまえになりますが、チケット難であきらめかけていた宝塚宙組公演カジノ・ロワイヤル〜我が名はボンド〜を観ることができました! ボンドはもちろんル・シッフルも米仏スパイも超絶イケメン! スーツ姿で銃を持って踊る男役群舞がかっこよすぎて、プロローグから気が遠くなりかけました。ああ眼福!
 うっとりしたところで六月に読んだオススメ本をご紹介。
 まずはヘザー・ヤング円周率の日に先生は死んだ(不二淑子訳/ハヤカワ文庫HM)。田舎町の閉塞感や貧困、生まれ育った故郷への愛憎半ばする思い、家族というもののやっかいさがビシビシと伝わってきて、ときにやりきれなくなるけど、つらい境遇にありながらも正義を求めて懸命にもがきつづける少年サルに感情移入せずにいられない。孤独な少年と後悔とともに生きる数学教師が徐々に心を通わせていく描写がとてもいいし、ダメだこりゃ、と思いながらも父親に寄り添い続けるノラの心情もなんかすごくわかる。ほのかな希望が感じられるラストシーンも好き。
 北欧らしい重いテーマのエヴァ・ビョルク・アイイスドッティル軋み(吉田薫訳/小学館文庫)はアイスランドを舞台にした刑事物のシリーズ一作目。アークラネスの海岸で女性の不審死体が見つかり、レイキャヴィーク警察から故郷であるアークラネスに戻ってきた刑事エルマが捜査を担当する。アイスランドの人口が少ないのは知っていたけど、さほど田舎ではない(レイキャヴィークから車で四十五分の漁港町)アークラネスでもほとんどの住民が顔見知りで、SNSなど使わなくてもなんでも筒抜けということにびっくり。いろいろしがらみがあって逆に捜査はやりにくそうだけど。
 ローラ・ブラッドフォードのレンタル友人、はじめました(田辺千幸訳/コージーブックス)は、レンタル友人という仕事を立ちあげたヒロインのエマが、友人ふたりと協力して殺人事件の解明に挑むコージー。友人ふたりはコージーミステリファンと犯罪ドラマファンなのでノリノリだけど、エマが今ひとつ消極的というのがユニーク。エマは保護犬のゴールデンレトリーバー、スカウトにメロメロで、「スカウトといちゃいちゃする時間」があり、犬好きにはたまりません。拙訳のカップケーキ探偵シリーズのメルとアンジーの名前が出てきて胸熱でした。
 毎回まちがいなくおもしろいミシェル・ビュッシの新作恐るべき太陽(平岡敦訳/集英社文庫)は、『そして誰もいなくなった』をベースにしながらも大胆に換骨奪胎した南の島ぶっとび滞在記。読み進むうちに、あれっ、なんか変じゃない? という箇所が増えていき、全体を把握するのにけっこう時間がかかったけど、それでも完全に把握している自信はなく、急な暑さで脳がやられてるのかも、と不安になったところで、えっ、そういうことなの? と気が遠くなりかけた気温三十三度の昼下がり。ええ、まるっと騙されていたんですよ! 毎回ワクワクさせてくれるけど、まさか今回こういうビュッシでくるとは思ってもいませんでした。どういうビュッシか知りたい方は今すぐ読もう!

〔かみじょうひろみ:英米文学翻訳者。おもな訳書はジョアン・フルークの〈お菓子探偵ハンナ〉シリーズ、ジュリア・バックレイ『そのお鍋、押収します』、カレン・マキナニー『ママ、探偵はじめます』、エリー・グリフィス『見知らぬ人』など。最新訳書はフルーク『ココナッツ・レイヤーケーキはまどろむ』〕

 


武藤陽生

昨日、息子と科学未来館の「月でくらす展」に行ってきました。夜、月で暮らすことを想像して怖くなったのか、何か楽しい話をしてとせがまれたので、小学館世界J文学館に入っている「くらやみがこわいちびふくろう」を読んでやりました。この本、5000円のカタログから125冊の電子書籍にアクセスできて、カタログを子供と眺めているだけでも楽しい、とてもよい一冊で、読み聞かせの本を探すのに疲れた親御さんにおすすめです。

〔むとうようせい:エイドリアン・マッキンティの刑事ショーン・ダフィ・シリーズを手がける。出版、ゲーム翻訳者。最近また格闘ゲームを遊んでいます。ストリートファイター5のランクは上位1%(2%からさらに上達しました。まあ、大したことないんですが…)で、最も格ゲーがうまい翻訳者を自負しております〕

 


鈴木 恵

 1963年に翻訳されたアメリカの犯罪小説を読んでいたら、訳語に「ボイン」という擬音が使われていました。なんの音だと思います? 月亭可朝「嘆きのボイン」を思い出す人もいるでしょうが、そのボインじゃありません。じつはこれ、人を殴ったときの音。いまではまったく見かけない用例ながら、作中に二度も出てくるので、当時は違和感がなかったのでしょう。ボカンなら昭和の漫画でよく見かけた気がしますが。
 原文にどんな語が使われていたのかは不明ですが、よくあるのは thump あたりで、boing ではないはず。boing を英和辞典で引いてみると、〝バネなどが弾むビヨーンという音〟などと書かれていて、人を殴る音とは思えません。〝日本語で大きな乳房を指す「ボイン」はこれから〟なんて豆知識も得られますが、そちらのボインもいまでは死語に近いですよね。どちらの意味のボインも、わずか数十年ですたれたわけです。流行語だったのかもしれません。
 そういえば、最近読んだ『犬は「びよ」と鳴いていた』という本(山口仲美/光文社未来ライブラリー)によれば、日本ではそのむかし犬は「びよ」と鳴き、カラスは「ころく」、雀は「しうしう」、ウグイスは「ひとくひとく」と鳴き、赤ん坊は「いがいが」と泣いていたんだとか。面白いですね。ちなみに現代の翻訳者はといえば、「インボイスインボイス」と泣かされるのです。面白くないですね。こんな制度は、マイナンバーとひとまとめにして宇宙の果てまで「ボイン」と殴り飛ばしたいところ。
〔すずきめぐみ:この長屋の万年月番。映画好きの不機嫌ぷんすか翻訳者。最近面白かった映画は《幻滅》《怪物》〕