「今の翻訳ミステリー大賞シンジケートは、過去の名作についての言及が少ない!」ーーそんなことをお思いの方はいらっしゃいませんか?

そういう方向けの連載が今回から月イチで始まります。犯罪小説が大好きでしかたがないという小野家由佳氏が、偏愛する作家・作品について思いの丈をぶつけるコラムです。どうぞご期待ください。(事務局・杉江)

  ジョン・ブューアルの『暴走族殺人事件』(1972)は、どうにも忘れ難いクライム・ノヴェルです。法に頼らない個人的な復讐の物語というものの本質を抽出して深化させたような一冊で、他にない鮮烈さがある。
 復讐譚は古今東西あらゆる場所で紡がれてきたものだと思います。身近な人や物のことを大切に思い、それを他人に傷つけられたら許せない気持ちが生じるのは人間なら誰でも共通のようで、どんなジャンルのフィクションでも、このプロットは人気がある定型として存在しています。
 勿論、犯罪小説でもそうです。というよりも、エンターテイメントのジャンルの中で最も相性が良いとさえ言えるでしょう。大切な人を殺されたり傷つけられたりするという発端、その犯人を追跡する捜査、追いつめた先で達成される仇討ち。このプロットに必要とされる展開すべてに、大抵は犯罪の要素が絡む。逆に、復讐譚ならばクライム・ストーリーとニアリーイコールであると断言しても良いくらいかもしれません。
 ただ、犯罪小説として復讐譚が描かれる時には特有の要素が一つあります。私的制裁についての扱い方です。
 多くの国で個人的な報復は犯罪と規定されています。クライム・ノヴェルではそれを前提とした上で、それでも復讐を果たそうとする者が描かれる。たとえば、ミッキー・スピレイン『裁くのは俺だ』(1947)の原題I,the Juryから、僕はそうした意識を強く感じます。
 ここで話は『暴走族殺人事件』に戻ります。この小説は「俺が行うのは犯罪だ。だが、それでも俺は正しいと思うから復讐をする」といった犯罪小説の登場人物たちが持つ思いを、更に前提にした作品なのです。この部分が特異で、しかも、単に斜に構えてみただけではない効果をあげている。
 最初に書いた通り、一読すれば忘れられないものが心に残ること間違いなしの作品です。
 
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 その夜、ジョー・グラントは高速道路にワゴンを走らせていた。同乗者は最愛の妻子。休暇中の家族旅行で、急ぐ旅ではない。泊まる場所も決めておらず、キャンプできるところでテントを張ろうという程度の計画があるだけだ。
 途中、モーテルのレストランに寄ったのも、その場での決断だった。そして、それが間違いだった。
 レストランを出て高速道路に戻ってすぐ、ジョーはサイドミラーに不審な影が映っていることに気づいた。バイクが三台、後ろを走っている。ただの後続車ではないことはすぐに分かった。追い越そうとしてこない。モーテルでこちらに目をつけて、追ってきたのだ。
 アクセルを踏みつけ引き離そうとしたが、追いつかれ、遂には襲撃される。車は土手へと乗り上げた。暴走族三人と正面から戦おうとしたジョーだったが、勝つことは叶わない。殴られ、蹴られ、意識を失った。
 数時間後、どうにか目を覚ましたジョーを待っていたのは、暴走族たちに嬲り殺された妻子の死体だった……
 幸せそのものの光景が無惨に壊される凄惨極まりない冒頭部ですが、その後もジョーを苦しめるような展開は続きます。
 犯人たちが現場に痕跡を残さずに去っていったために、警察の捜査が思うように進まないのです。最初はジョーが妻子を殺した可能性さえあると扱われ、その疑いが晴れ、容疑者が絞られても、証拠がないので手を出すことはできないと言われる。
 苛立ちと孤独に耐えきれなくなったジョーは一線を越える決意をします。警察が連中に何もできないと言うのなら、自分がやるしかないではないか。
 非常にストレートな復讐譚だと感じる粗筋ではないでしょうか。
 しかし、実際に読んでみると、そうと言い切れないような感触を覚えるはず。上田公子さんが本書の訳者あとがきで書いている通り、この作品はどういう範疇に属する小説なのか迷ってしまう。
 理由はストーリーの語り方にあります。ブューアルは、ジョーの激情に焦点を当てないのです。
 憎き殺人者への憤り、更には無能な捜査官への蔑みといったところを描き込まない。勿論、ジョーに怒りがないわけではない。ただ、ブューアルはそこについては多くは語らない。また、捜査官に対してはそもそも不満といえる程のものを抱かない。システムとして彼らが動くことができないことはよく分かるといったように醒めた視線を向けるだけなのです。
 では、作者は代わりに何を語っているのか。
 社会から転げ落ちてしまった男としてのジョーの孤独です。
 先に、システムに則って動いているだけの警察に対してジョーは醒めた目線を向けるのみと書きましたが、本書においては、このシステムというワードが重要になってきます。社会とは、それぞれがルールに従って動いている一つのシステムだと示される。捜査官やジョーの親戚や友人もその中にいて上手くやっている。
 しかし、ジョーは妻子を殺されたことによって、そことの繋がりが断ち切られてしまった。
 だからこそ彼はルールに則らない。自分の手で、憎い殺人犯に制裁を加えるという手段を選ぶ。ジョーの行動について、ブューアルはそのように説明をしていくのです。
 ここにあるのは評論的な目線です。『裁くのは俺だ』式のクライム・ノヴェルについて、法律ではなく我が手で制裁をするというのはどういうことか、明確な言葉にしてジョーという男を通して語っている。こうした手立てを選ぶ人間は、システムから外れてしまった者なのだと。だからルールを守らない。犯罪者となってしまう。
 『暴走族殺人事件』が他にはない読み味の犯罪小説となっている所以です。
 
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 復讐の物語について別の目線で語っている、というだけで本書は終わりません。
 ジョーの私的制裁そのものについては、読んでいて驚くほどにあっさりと終わり、システムから外れたこの行動が社会の中でどんな意味を持つかに話が移る。それがジョー本人にどのように跳ね返ってくるのかも。
 その先は「えっ、そういう話になるのか」と驚きの声を漏らしてしまう程、定型から外れた展開を見せていきます。それについてチグハグな印象を受けないのは、前半部でも作者が語りたがっていたものが復讐譚ではなくシステムからの疎外の部分だったからでしょう。中盤以降のストーリーは、そうしたジョーの孤独の向こう側を描くという意味で地続きになっている。
 本書の原題はThe Shrewsdale Exitといい、作中に登場する高速道路の出口の名称から取られているのですが、これはジョーの孤独な疾走の脱出と重ねられているものと思われます。
 果たしてジョーは出口を掴むことができるのか。その結末については読んでみてのお楽しみですが、ブューアルはしっかりとそこまでの案内はしてくれている、とだけは言っておきます。
 
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 上田公子さんは本書の訳者あとがきでこの小説について最終的に「一つの犯罪、一つの事件を契機にした、人間存在への問いかけではないだろうか」とまとめています。
 過不足のない結論だと思いますし、そうした問いかけを行うにあたって、復讐譚という、人類が常に惹かれ続けているプロットが選ばれたというのも、さもありなんと頷かせられます。
 テーマへの目のつけ方、掘り下げの深さともに文句のつけどころのない一冊だと思います。

 

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小野家由佳(おのいえ ゆか)
ミステリーを読む社会人七年生。本格ミステリとハードボイルドとクライムコメディが特に好きです。Twitterアカウントは@timebombbaby