「今の翻訳ミステリー大賞シンジケートは、過去の名作についての言及が少ない!」ーーそんなことをお思いの方はいらっしゃいませんか?

そういう方向けの連載が今回から月イチで始まります。犯罪小説が大好きでしかたがないという小野家由佳氏が、偏愛する作家・作品について思いの丈をぶつけるコラムです。どうぞご期待ください。(事務局・杉江)

 作家の自伝、あるいは自伝的作品の中で最も好きなものはと問われたら、僕は迷わずフランク・グルーバーのThe Pulp Jungle(1967)を挙げます。
 一人の少年が作家になると志し苦難の果てに成功するまでを赤裸々に、しかし、ユーモラスに綴った一冊で、とにかく痛快なのです。
 グルーバーはパルプマガジンに大量の短篇を売ったあと長篇作家、そしてシナリオライターとして成功していった作家です。手がけたジャンルはミステリーと西部小説がメイン。
 この本は丁度、パルプ作家から長篇作家になるまでの時代に焦点が当てられているのですが、成り上がる瞬間の熱のようなものに満ちていて、それに引っ張られるがまま、ぐいぐい読ませられてしまうのです。伝説の雑誌〈ブラック・マスク〉の裏話が読めたり、コーネル・ウールリッチやレイモンド・チャンドラーといった面子がパルプ作家仲間として登場するあたりもミステリファンとしては嬉しいところ。
 というわけで一冊の本として単純に素晴らしいのですが最愛と言いたくなる所以はこれだけではありません。最も大きな理由は「この本はフランク・グルーバーという作家そのものなのだな」と実感できるからです。
 The Pulp Jungleの全編に漂っている、絶対に成功して大金を掴んでやるというギラギラした想い。これが実は、グルーバーの書く小説に登場するキャラクターが持っているものと同じなのです。シリーズキャラクターであるジョニー・フレッチャーとサム・クラッグのコンビをはじめとして、グルーバー作品の主人公は大抵は金に困っている。金銭的なものを必要としていない者についても、社会的に認められた地位は欲している。
 欲しい、なりたいというグルーバー作品を突き動かす貪欲さは、きっと、本人の性格や経験から来ているのだろう。The Pulp Jungleにはそう思わせるだけの説得力があります。
 今回紹介する『走れ、盗人』(1948)はこの意味で、分かりやすくグルーバー的だと感じる一冊です。金が欲しい。一端の人間になりたい。そう願い、あがく若者を主人公にした、ユーモラスでありながらも切実なクライム・ノヴェルです。
 
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 トミー・ダンサーは〈メルローズ錠前店〉で職人として働いている。
 昼でも夜でも、呼びだされたらお客さんのもとへ駆けつける。車の鍵を失くしてしまったから開けてほしいだとか、新しい鍵を作ってほしいだとか、そういう依頼をこなす。大抵の鍵はその場で作ることができてしまうトミーにとっては大したことではない。言われるがまま仕事をする日々は退屈ではあったが、安定はしていた。悪友との賭けボーリングという息抜きだってある。
 そんなトミーの生活を一変させるような出来事が二つ、起こる。
 一つはキャディラックの鍵を開けてほしいという呼びだしを切っ掛けに、エリザベス・ターグという素敵な女性と知り合ったこと。もう一つは、ウィリー・トレントという怪しい男に仕事を依頼されたこと。
 特に問題なのは後者だった。トミーの噂を聞いたとボーリング場にやってきて、親方を通さずに依頼をしてきた。それで頼んできたのが自宅にあるトランクケースを開けてほしいという話だから、余りに妙だ。
 案の定、トレントはとんでもないことを考えていた。後日もう一度呼びだされた時、トミーが打ち明けられたのは犯罪計画だった。ノミ屋の大ボスであるポール・ドカンプの貸金庫から二十万ドルを盗む手伝いをしてほしいというのだ。最終的に提示された報酬は四万ドル……。
 ほんのちょっとの燻りはあるけれど、本来なら普通の生活から逸脱することなんてない青年が犯罪に誘われる。クライム・ノヴェルとして過不足のないスマートな導入部です。
 それでいて、トミーの心理描写にはスマートという言葉だけでは片づけられない熱量がある。
 彼が抱いている現状への不満、もっと良い自分になりたいという気持ちをグルーバーはしっかりと描き込んでいきます。トレントのような金持ちの大人たちや場違いなパーティの中で出会った女性との会話において、トミーの態度は生意気で刺々しい。この反感の裏にあるのは、しょうもない仕事で小銭を稼いでいる自分の現状への不満から来る、自分も金が欲しい、一人前として認められたいという欲望です。
 こうした鬱屈を湿っぽく描いても、それはそれで面白いものになるとは思いますが、グルーバーはこの気持ちを泥臭さとは無縁の軽妙洒脱な筆致で読ませてくれます。小洒落た会話と読者にストレスを与えないテンポの良さで楽しいエンターテイメントとして申し分のないものに仕上げてくれている。
 さて、トミーのこうした欲望は身分違いの相手と彼が思っているエリザベスに対して強く向けられます。そして、彼女のいるところ……トレント達と同じ場所へ行くために、自分はもっと上手くやらなければならないと考える。
 そのためには、言われるがまま仕事をするだけで終わってはいけない。トミーはトレントを裏切り、二十万ドルを独り占めにしてやろうと企みます。
 トミーがこの裏切りを果たしてから、物語は俄然面白くなります。
 横取り作戦は理屈としてはほとんど完璧だった。けれどトミーは所詮は錠前店で真面目に働いていただけの素人、作中でエリザベスに言われるように、元々はそういうことをやる柄じゃない。上手いこと金を手に入れてやろうという目論見は、トミーからしたら想定外のやり方で粉砕され、彼は逃げることしかできない立場に追い込まれる。トレントから、ノミ屋の大ボスから、勿論、警察からも狙われます。まさしくタイトル通りの状況です。走れ、盗人!
 そこからは一切の中弛みなし。身体と頭脳をフル回転させ、窮地を脱そうとするトミーの奮闘にとにかくハラハラさせられ通しの見事なストーリーテリングで最後まで一気読みさせられてしまいます。
 
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 ここまで、グルーバーと作中人物の欲望について書いてきました。もしかすると、グルーバーもトミーも銭ゲバであるといったような印象を抱かせてしまったかもしれません。
 そうであっても特に悪いとは思わないのですが、グルーバーに関しては、大金持ちになれた、出世したで終わりという単純なところで終わる作家ではありません。ちゃんと、そうした思いの本質的な部分は何かまで考えが及んでいると感じます。
 その本質とは、居場所が欲しいという願いです。
 愛し、愛される人と一緒にいられる安住の地こそが目的であって、金も地位も手段でしかない。
 古今東西、流れ者を主役とする物語に共通のテーマだからということなのでしょう。この気持ちは、グルーバー作品の中でもミステリーではなく西部小説の方に直接的に現れています。特に南北戦争で賊軍となってしまった男を主人公とした『叛逆者の道』(1940)は、強盗を重ねていった末に見えてきた本当に望んでいたものは何かというところで心を震わせる佳品です。
 『走れ、盗人』でもトミーが突きつけられているのは、この問いかけです。これまでの生活全てを捨てて、犯罪に手を染め、散々な目に遭った先、トミーは本当に欲しかったものを手に入れることができるのか。
 ラストシーン、僕は「グルーバーらしいなあ……」と思いながら泣いてしまうのです。

 

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小野家由佳(おのいえ ゆか)
ミステリーを読む社会人七年生。本格ミステリとハードボイルドとクライムコメディが特に好きです。Twitterアカウントは@timebombbaby