「今の翻訳ミステリー大賞シンジケートは、過去の名作についての言及が少ない!」ーーそんなことをお思いの方はいらっしゃいませんか?

そういう方向けの連載が今回から月イチで始まります。犯罪小説が大好きでしかたがないという小野家由佳氏が、偏愛する作家・作品について思いの丈をぶつけるコラムです。どうぞご期待ください。(事務局・杉江)

 最近、ジェイムズ・M・ケインの『ミルドレッド・ピアース』(1941)を読みました。ケインの代表作として挙げられることも多いのに、日本では二〇二一年に幻戯書房から『ミルドレッド・ピアース: 未必の故意』として出されるまで未訳だった作品です。
 これが大変に面白かった。長年、専業主婦として暮らしていた主人公ミルドレッド・ピアースが、役立たずの夫を家から追い出し、二人の娘を抱えながら奮闘するという粗筋です。犯罪小説らしい要素はほとんどなく、恐らくはそれも訳出が遅れた一因なのではないかと思うのですが、いざ読んでみると、そうした「ジャンルらしさ」がないことなんてまるで気にならない。
 物語を牽引するのはミルドレッドの、自分と家族を幸せにしたいという願いです。最初は生きていくために動く。これまで働いたことなんてない。特別な技能も持っていない。そんなミルドレッドが働けるのはウェイトレスとしてくらい。歯を食いしばる思いで頑張っていく内に道が開けていき、やがてはレストランの経営者としての成功へと繋がっていく。
 しかし満足には程遠い。ミルドレッドが真に欲しかったものは、これではない。ミルドレッドの望みは娘、ヴィーダとの幸福だ。
 本書の中でヴィーダは、ミルドレッドと対照的な存在として描かれます。地を這うような労働とは生まれながらに遠い、優雅な世界の人間。ミルドレッドは、ヴィーダにそうありたかった理想の自分の人生を重ねている。ヴィーダはそんなミルドレッドのことを見下しながらも彼女に頼って生きている。この歪んだ関係性がストーリーの根幹で、サスペンスまで生んでいる。
 読み終えて実感したのは、ケインの小説には犯罪や暴力が必須なわけではないのだということでした。ただ、人間さえそこにいればいい。
 人間の欲望について描く手際、ケインはそこが上手い。性的な要素や暴力といった、ケイン作品の特徴としてよく挙げられている部分については結局、欲を赤裸々に書いたら自然と付随してくるからというだけでしかない。僕らが何かを欲す時、そこには絶対に、健全な感情以外のものも生じる。
 本連載で前回取り上げたフランク・グルーバーの作品では、非合法な手口を使うことはあっても、金を稼ぎたいという、資本主義社会では真っ当な気持ちが中心に置かれていましたが、ケインはもっと、恥ずべきものとして欲望を語る。『ミルドレッド・ピアース』だって、ミルドレッドの気持ちは「愛する娘を幸せにしたい!」と無邪気なだけのものでは決してない。
 平凡な人間の抱える、言い訳のきかない汚い欲望を書かせたら古今東西、ケインの右に出る者はいない。
 『殺人保険』(1943)がその代表です。ケインだからこそ至ることができた領域の作品だと思います。
 
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 ウォルター・ハフは〈カリフォルニア・誠実社〉の優秀な保険勧誘員である。
 その日も彼はいつもの手腕を発揮して保険の更新契約を勝ち取ろうと、ナードリンガーという男の家を訪れた。この時に、ナードリンガーではなく、その妻フィリスが応対に出てきたのが全ての始まりだった。
 二人は恋に落ちた。そして、ナードリンガーに保険金をかけて殺そうとする計画が立ち上がる。ウォルターは確実に保険金を手にすることができるよう、完璧なプランを立てるが……。
 以上が物語の導入部ですが、ケインの非凡さを伝えるためにはこの粗筋を読んでもらうよりも、まず本を手に取ってもらった方が良いかもしれません。第一章を読むだけで小説家としての技量がよく分かる。
 たとえば、ケインは「保険金を手に入れるために夫を殺すのを手伝ってほしいの」とはフィリスに言わせない。「あなたは、災害保険までお扱いになりますの?」とだけ言わせる。ウォルターの方も「たぶんこの言葉を聞かれても、諸君は僕の感じたような感じは受けないであろう」と妙に感じた理由を独白するだけで、直接的な文章は出てこない。
 けれど、分かるのです。ということはつまり、と。そして、その遠回りさが、そのまま、ウォルターとフィリスの中に生じた感情が最初は小さなもので、ゆっくりと膨れ上がり、固まっていくことの表現になっている。ケイン本人はそう分類されるのを嫌がっていたのは有名な話ですが、直接的な言葉ではなく行動や台詞で物事を伝えていく、ハードボイルド的な文章の組み立て方です。
 『殺人保険』では、こうした手法でストーリーが語られます。新潮文庫版で二百ページという長さの作品ですが、密度は凄まじく、読む方にも覚悟が必要となる濃度です。それでいて、読み始めたらもう、本から手を離すことができない引力がある。
 
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 結局のところ『殺人保険』はウォルターの堕落の物語です。
 先に触れたような無駄のない文章で、冷静沈着で現実的だった男の気持ちのタガがどんどん外れていく様を語っていく。人妻との恋愛、犯行の計画、そして実行……常に後悔を抱えながらも退くことができない。
 この取返しのつかなさが読者の心をえぐるのです。本書の後半部、ウォルターはナードリンガーの娘ローラに恋します。だけれど、彼はそれを成就させることはできない。ローラはどこまでも真っ当な子です。人殺しをしてしまったウォルターの汚れた手では彼女を抱くことは叶わない。
 金が欲しかった。女が欲しかった。そのために全てを失っていく。
 その先にあるのは果たして何なのか。ケインはそこを語ります。
 本書には『深夜の告白』というビリー・ワイルダーによる映画版が存在し、そちらもフィルム・ノワールの名作として有名です。映画ではウォルターの「本来あるべきだった未来」に焦点が当てられ、〈カリフォルニア・誠実社〉での上司キースとの関係性に原作よりも重点が置かれており、ラストシーンもその部分でまとめられています。
 対し原作では最初から最後まで、堕落という部分にフォーカスが当てられ続けます。だから、ラストにウォルターを待つ人はキースではなくフィリスです。
 個人的な好みで言うと、美しさという意味で、原作の方に軍配が上がると感じます。
 初読の時も、再読の時も、僕はラスト一行を読み終えた時、わけのわからぬ激情に駆られてしまいました。欲望の向こう側にある虚しさを語るものとしてこれ以上のものはない。
 
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 敢えてその言葉を使っていなかったのですが『殺人保険』は悪女ものとよく扱われます。
 実際、徹底的にウォルターの視点から書かれた本書ではフィリスは悪女としか言いようがないですし、ここまでの紹介を読んでも、そう感じる人が大半ではないかと思います。
 ただ、『ミルドレッド・ピアース』や『カクテル・ウェイトレス』(二〇一二)といった女性主人公のケイン作品を読んでみて、果たしてどこまでそうか、と少し疑問を抱きました。保険金殺人の提案を直接的に言っていないことからしてそうですが、フィリスのやったことは、あくまでウォルターが見聞きしてそう考えただけなのです。
 確定しているのは、彼女が何かを欲して行動をした、という事実だけ。ラストシーンでのフィリスの台詞を僕は悪と呼ぶことはできません。ただ、純粋な願いだけがここにある。それが、ウォルターにとっての堕落の果てと重なっていて、故にとてつもなく美しい。
 僕は、ジェイムズ・M・ケインが書く、人間の欲望が好きです。

 

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小野家由佳(おのいえ ゆか)
ミステリーを読む社会人七年生。本格ミステリとハードボイルドとクライムコメディが特に好きです。Twitterアカウントは@timebombbaby