今回は、純然たるミステリはないが、黄金期と同時代に書かれたミステリ的にも見どころがある作品が並んだ。ジャンルから少し離れたところにある作品をミステリファンの眼で眺めてみたい。事実の記述の多くは、それぞれの作品解説に負うところが多い。
■チャールズ・ウィリアムズ『天界の戦い』(風間賢二訳:扶桑社BOOKSミステリー)■
この度、これまで翻訳がただ一冊しかないチャールズ・ウィリアムズの小説が異なる版元から二冊ほぼ同時に出たのは、奇遇というほかはない (これまでの翻訳は、『万霊節の夜』(1945) のみ) 。
ウィリアムズは、オックスフォード大学局出版社の編集者の傍ら、詩人・小説家・神学者等として四十冊ほどの著作を刊行した人で、現在では幻想小説の書き手として知られる。
とりわけ、『指輪物語』のJ・R・R・トールキン、〈ナルニア国〉シリーズのC・S・ルイスらの所属したオックスフォード大学の文学同好会〈インクリングズ〉のメンバーの一人であり、同グループの「第三の男」と目されていたことが有名なようだ。
ミステリとの関わりでいえば、黄金期のミステリ作品のレビューを二百点ほど執筆するほか、オックスフォードの若手ブルース・モンゴメリー (エドマンド・クリスピン)、キングズリー・エイミスらとも交流があった。
その作品は、「神学的スリラー」「形而上学的ショッカー」等と何やら恐ろしげで手強そうななレッテルが貼られている。
デビュー作である『天界の戦い』(1930) は、こんな話。
ロンドンの出版社で、身元不明の殺害死体が発見される。警察の捜査が難航する中、出版社の新作において、キリストの遺物である聖杯の存在が英国の教会にあることが示唆され、至高の宝を巡って、聖と邪二つの領域に属する人たちの争闘が始まる。
筋だけ読めば、探偵小説+『マルタの鷹』+神学/オカルトの奇妙な混交体で、ジャンルミックスの小説が増えた現在となってはさほど驚かないかもしれない。ジョン・ブラックバーンやL・P・デイヴィスを経由してのジャンルミックス的モダンホラーの先駆けとして捉えられないこともない。
本書は、筋を追うだけなら、なかなか楽しい小説である。
最終的には、世界の破滅にもつながりかねない話なのに、事件は、出版社の会長、社員とその家族、教会周辺と警察と、ごくこじんまりと領域で起きるし、善人・悪人の区別は表向き明確である。聖杯奪取の計画は三度試みられ、一度などは教会の大執事がそれを奪って遁走し、警察らがそれを追いかけるというややユーモラスな展開もある。一方、秘儀や闇の力を駆使し、聖杯を奪還しようとする邪の側は、世界を支配しようとするフー・マンチューのカリカチュアのようだ。
しかし、ジャンル小説の殻を食い破って噴出する衝撃的ヴィジョンや神学的 (正統/異端) の思索や議論は、ワン&オンリーの作家というのにふさわしい。
例えば、幼子を用いた魔宴(サバト)における恍惚の描写や、聖杯を用いた秘儀、秘薬による主婦の狂気じみた叫びの描写は、五官に働きかける悪夢的ビジョンで、時代離れしている。
本来評価されるべきは、神学的思索の方なのだろうが、そちらは専門家による考証が必要な領域だ。
ウィリアムズは、自らの神学的思索を展開するに当たり、読者への口当たりを良くするためか、明らかに探偵小説の形式を利用しているが、冒頭の殺人については、半ばまで引っ張りながら、犯人の告白という形で解決させている。警察の活動もそれなりに描かれているが、探偵小説的感興には乏しい。本書で展開されるのは、ネイランド・スミスとフー・マンチューの間で繰り返される善と悪の対決型のスリラーである。
ミステリは、本質的に善と悪が拮抗・対決する話であり、現代の神話とも呼ばれることがある。この場合、神話→ミステリなのたが、ウィリアムズは、この小説では、現代の神話を書くために、知悉しているミステリの形式を利用した。ミステリ→神話なのである。大げさにいえば、コペルニクス的転回であり、ミステリという形式を神話に戻す手続が本書では意図せずに行われているともいえる。その意味でも、本書はフォロワーがいない孤高の作品なのである。
余談だが、終幕で、菓子屋と下宿の間にあったはずの薬種商が忽然と消えているという場面がある。これは、超自然的な力によるものだが、エドマンド・クリスピン『消えた玩具屋』(1946) の設定を想起させる。作者がクリスピンと交流があり、デビュー作『金蝿』(1944) の一章のエピグラフにウィリアムズの詩を引いている (後記『ライオンの場所』訳者解説) ことを考えあわせれば、本書の影響が及んでいると考えるのは、あながち妄想とも言い切れない気もする。
■チャールズ・ウィリアムズ『ライオンの場所』(横山茂雄訳:国書刊行会)■
『ライオンの場所』(1931) は、ウィリアムズの第三作。
こちらは、こんな話。
ロンドンにほど近い田園地帯スメザムで、雑誌の編集者アンソニーとその友人クウェンティンは、サーカスから逃げ出した雌ライオンを目撃する。男に襲いかかったライオンは、いつの間にか雄ライオンに変身している。続いて、アンソニーの従姉妹であるダマリスの出席した会合では王冠を戴いた蛇が出現し、アンソニーとダマリスの父とは蝶の大群に包まれる。さらに怪現象は頻発し、スメザムの地は崩壊の危機に立たされる。
侵略SFのような展開である。しかし「敵」は外宇宙にいるわけではない。
なぜ、このような現象か起きているのか。アンソニーが蝶の大群に包まれた後に、ある男が訪れ、この世界は、物質に本源的形相 (プリンシプル) =力=イデアが入り込んでできたものであり、特定の力の影響力により怪現象が発生していること、世界が彼方に引きずり込まれかねないことが示唆される。
この後の展開で、アンソニーは、先に訪れた男とおとなしい娘に突然襲われるのだが、螺旋状に体をくねらせ、蛇のように迫る娘の図は、衝撃的である。草叢の溝で腹這になって怯えて狂気に至りそうなクウェンティンの場面、アンソニーがライオンに襲われた男の家で感じる巨大な絶壁にいるような場面、ダマリスが家の中で巨大な嘴、鉤爪に襲われる場面…、いずれも世界が痙攣しているような恐怖のビジョンが開示される。『天界の戦い』で部分的にみられた悪夢的ビジョンは、さらにスケールを増している。これらの描写だけでも、本書は屈指の幻想小説といえるだろう。
襲撃事件で、アンソニーは自らの内部にある霊力を意識する。一方で、中世のスコラ哲学者の研究により博士号の取得を目指しており、自分だけを愛していたダマリスには「廻心」が訪れ、アンソニーの愛に応えるようになる。
作中、16世紀に書かれた『天使論』が紹介されるが、その内容はいかにも晦渋であり、紹介した男ですら、その内容を理解していない。登場人物たちの哲学的、神学的思索も理解が難しい部分が多い。
しかし、本書が秘めたメッセージは、意外に明快なものとも思える。
ダマリスの廻心の際に現れる、「美しい無垢」と「変容させる力をもつ神聖さ」(「ライオンの場所の裡に存在する子羊の場所」と形容される)
15章でのアンソニーの大いなる覚醒のビジョン。歌うように滑走するように、きらびやかでめくるめくビジョンが顕現する (ここの描写も素晴らしい) が、ここでも、「無垢」と「力」は分離してはならないとされる。
力を適切に使ったアンソニーは覚醒し、力を自分のものにとしようとした男は滅びる。
人は「物事を変容させる力」をもたなければならないが、同時に「無垢」を併せ持たなければならないというメッセージは熱心な英国教徒でもあったモラリストの側面が強く出ているとも思え、本書の美点とも欠点ともとれる。
作者は、熱心な英国教徒でありながら、著名な魔術結社である〈黄金の暁〉分派のメンバーでもあり、魔術、オカルティズムへの傾向をもった人だった。異端神学・魔術・オカルティズムへの傾倒を経つつ、国教徒であり続けたことが重要だろう。本書の悪夢のようなビジョンも覚醒のビジョンも、作者の両睨みがなければ、作品として結実しなかったはずだ。
■フィリップ・スーポー『パリの最後の夜』(谷昌親訳:国書刊行会)■
国書刊行会から『シュルレアリスム叢書』(全5巻) が発刊される。その第1回配本フィリップ・スーポーの小説3編を収録した『パリの最後の夜』は、ミステリとの関連で見逃せないような要素を含んでいる。
シュルレアリスムは、いうまでもなく、1920年代フランスで起きた芸術のアヴァンギャルド運動。「夢」や「無意識」の探究から生まれた詩・絵画・オブジェ・小説・映画は、いまなお参照され続け、表現者の霊感の源になり続けている。
シュルレアリスムとミステリ。一見何の連関もないようだが、例えば、シュルレアリストたちが、ピエール・スヴェストルとマルセル・アランによる犯罪王『ファントマ』シリーズに魅了され続けたという一事をもってしても、同時代に勃興した文化として、相互的影響が窺える (シュルレアリストとファントマの関係に関しては、千葉文夫『ファントマ幻想』が詳しい。)
運動の首領格は、『シュルレアリスム宣言』(1924) を書いたアンドレ・ブルトンだが、フィリップ・スーポーは、その盟友の一人だった。二人の共著である詩集『磁場』 (1920) は、シュルレアリストたちの代表的手法である自動記述 (自分の意識、意思によらず身体の自動作用により、文字や絵などを描く) を取り入れたものだった。
『パリの最後の夜』(1928) は、そのスーポーが書いた長編小説。29年には英訳され、30年には早くも『モンパリ協奏曲』のタイトルで邦訳されている。
なお、シュルレアリスムと「小説」の相性は良くなく、小説はブルトンらにとっては堕落した形式とされ、スーポーがシュルレアリスムの運動と袂を分かったのも、小説の執筆が問題視された部分が多かったからだという。
1928年のパリ。街娼ジョルジエットの魅力に惹きつけられた主人公 (おれ) は、夜の街を同行し、一人の女が複数の男たちに追い詰められ秘密を告白する場面を目撃する。ジョルジエットはいずこかへ消え、続いて船乗りらしき男と同道するが、男も夜明け前に消えてしまう。翌日、バラパラ殺人が発生したことを知ったおれは、前夜に見た船乗りが殺人者で、追い詰められた内縁の女がそれを告白したものと推測する。秘密を知っているらしい男を追ってエッフェル塔近くの水族館の秘密の会合に辿り着いたおれは、会合にジョルジエットが参加しているのを知る。
シュルレアリスムの小説といっても、ストーリーのある話であり、自動記述めいた部分がないでもないが、詩的な叙述の範疇だろう。
出だしは、ウールリッチ=アイリッシュの都会派ミステリ風といってもいいし、内面が描かれることの少ない主人公の叙述、謎めいた女の秘密を追う行動様式は、ハードボイルド風といってもいい。ファム・ファタルであるジョルジエットの存在は、ノワール小説の美女の如く主人公を攪乱する。ジョルジエットは、アンドレ・ブルトン『ナジャ』(1928) の謎めいた女ナジャと並ぶファム・ファタルと称されているようだが、ナジャには背景が与えられ、語りも多い (眼の写真まである) のに比べると、ジョルジュエットは語りも少なく、一層つかみどころがない。
殺人を主題とするミステリ風に始まる本書だが、当然のことながら、殺人の謎解きを目的としたものではない。殺人の謎そのものは、あっけなく殺人者本人が告白する。しかし、本書の謎は、ストーリーの進行とともに、増幅していくのである。ジョルジュエットとは何者か、夜な夜なパリを歩き回る彼女は一体何を目的としているのか、ジョルジュエットが後景に退くとともにせり出してくる彼女の弟オクターヴは何を目的に動いているのか、闇の経済を仕切っているボス・ヴォルプとは何者なのか。しかし、これらに明確な回答が与えられることはない。
その意味で、本書は、謎解きを欠いたミステリ、犯罪王ファントマを欠いたファントマ譚ともいえる (作者は、この小説を書いていた時期を振り返り、「マルセル・アランやピエール・スヴェストルの才気や妙技が自分にはなく」と書いているのは注目に値する)。
本書の魅惑は謎そのものにある。それは、内面を欠いているようにみえるジョルジエットの謎、彼女が表徴する夜のパリの謎 (「あの女は夜そのもので、その美しさは夜だけのものだ」「ジョルジェット自身が街と化していった」) 。セーヌ河、エッフェル塔、パサージュ、カフェ、銅像などの記号が咲き乱れるパリ。「花と鳥と視線と星でいっぱいの不思議な一大王国」。犯罪や犯罪組織さえも、その魅力に加える都。夜間逍遥者である主人公は、行き場のない情熱を死体に出逢うまでは終わらせることはできない。
チェスタトンは、「探偵小説の弁護」(1901) で、「探偵小説の本質的美点の第一は、それが現代生活の詩的感覚といったものを表現した最初で唯一の大衆文学であるという点にある」(鈴木幸夫訳)と書いた。続いて「都会は、実を言えば、田舎よりもはるかに詩的なのである」「都会は意識的な力がつくった混沌」で、「街路の石、街の煉瓦には、一つとして考えて作った象徴でないものはない」と述べている。
都市を描くのに、ミステリの手法を導入したのは、作者スーポーが意識してのものか、無意識下の戦略だったのだろう。
ミステリの手法との関わりでいうと、もう一つ「偶然」が気になる。「偶然はさらに大きくなり続け、パリは、おれの街は、偶然が好んで住みつく場所なのだというという結論をまもなくおれは出した」
本書には「偶然」が多く顔を出す。ミステリの分野でも、J・T・ロジャーズのような意識的な「偶然」や「暗合」の使い手がいるが、これらはシュルレアリスムの手法の応用ととれなくもない。
併録されている「ニック・カーターの死」は、米国産ダイム・ノベルの名探偵ニック・カーター (最近の翻訳は、『ミカドの謎 ニック・カーター日本の冒険』) が登場する散文詩のような短い短編で、カーターへの常軌を逸した詳細すぎる調査報告、横滑りしていくような部下の調査、精神病院での探索中の犬死に近いカーターらの死といった断片から成っている。カーター探偵譚を歪な鏡に映したような短編。作者は、少年時代にこのアメリカン・ヒーローの小説を読みふけったという。
ストラングル・成田(すとらんぐる・なりた) |
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