■ジョルジュ・シムノン『袋小路』(臼井美子訳:東宣出版)■
シムノンの未訳小説をまとめて紹介する〈シムノン ロマン・デュール選集〉第二弾『袋小路』は、1938年の作品。第一弾『月射病』(1933)から5年。メグレ物には一区切りつけて、矢継ぎ早にロマン・デュール (硬い小説) を発表していた時期の作品だ。『人殺し』や『ドナデュの遺書』と同年の刊行に当たる。
人の心の不可思議さと剥き出しの生の姿をドラマティックに描いて心揺さぶる小説だ。
舞台は、カンヌにほど近い港町。陽光ふりそそぐ南仏のイメージとは違って、物語の始まりは、雨ばかり降っている。白系ロシア人ウラディミールは、資産家の夫人であるジャンヌが所有するヨットの船長として雇われ、同郷の親友ブリニと船に寝泊まりしながら暮らしている。38歳のウラディミールは、50代のジャンヌの愛人であり、酒浸りの無為な生活を送っている。ジャンヌの娘エレーヌは、ブリニと親しく話すが、ウラディミールには冷たく、軽蔑している。ウラディミールは、ブリニに宝石盗難の罪を着せ、追い払う。罪の意識に苛まれたウラディミールは、ある行動に出る…。
ウラディミールは、二つの罪を犯す。一つは、親友に濡れ衣を着せた罪、もう一つは、さらに深刻な罪。最初の罪がまず判らない。革命のロシアを逃れ、数年の間、放浪しながら苦楽を共にした親友をなぜ偽りの罪に突き落とすのか。後のほうの罪はさらに判らない。もっと別の方法があるのではないか。しかし、判らないようで判る。理解できる。第一の罪では、ウラディミールは、おそらくは嫉妬していたのだ。エレーヌにひそかに思いを寄せており、彼女と親しいブリニを追い払うためという以上に、赤子のように天真爛漫で、今の暮らしに満足しているブリニに。第二の罪のほうも判る。これしかないとウラディミールは考えたのだ。道理としては判らないことが、感情的には理解できる。
現実の人間は、常に相矛盾する理屈や心情を抱え込んでいる混合体のような存在だが、シムノンは、その不可思議な混合体としての生をウラディミールの姿を通して描き出している。
エレーヌという存在も、また判らない。母親を嫌って船で暮らし、ブリニと親しく話す以外は、心を閉ざしているようにみえる。『運河の家』(1933) の内面が語られない少女を思わせるが、物語の半ばで、彼女は、ある人物に膝を屈し、哀願している姿をウラディミールは目撃し、衝撃を受ける。このシークエンスで、倦怠の暮らしを描いているように見えた物語には亀裂が生じ、事態は動き出す。人物とストーリー展開が有機的に組み合わされた見事な構成だ。
ウラディミールは、寡黙な印象を受け、その行動からもアモラルな男のようだが、実は、喜怒哀楽にあふれた人間性を隠し持っている。ジャンヌと酒を飲めばともに涙する。後半、ポーランドのワルシャワに列車で向かう場面では、見ず知らずの旅行客に喋り続ける。実は語りたいことで溢れている人間なのだ。こうした人間性が魅力で、その罪にかかわらず、読者には近しい存在として意識される。
人物という点では、ジャンヌという女主人も巧みに書かれている。我儘で贅沢好き、知人を常に屋敷させているが、彼女を愛する者は誰もいない。唯一、ウラディミールだけが、心を許せる存在だ。ウラディミールは、彼女の使用人で愛人という立場であり、無為な生活という人生の袋小路に迷い込んでしまったのだ。
船の近くにあるカフェに集う面々も淡彩ながらくっきりと描かれ、中でもひそかにウラディミールに思いを寄せる下働きのリリの姿は印象的だ。
物語後半は、雪のワルシャワに移るが、ラストでウラディミールは、ある決断をする。物語がこうした形で収束を迎えることを予想できる人はいないだろう。自然の成り行きで袋小路に迷い込んだ男が、今度は自らの意志で袋小路に入っていく。絶妙な幕切れだ。喜劇であり悲劇である。不思議で奇妙な贖罪であり、希望への道でもある。判らない、けど沁み入るほど判る。それは、人の心が不可思議な混合体として描かれているからだ。そして、読者もその混合体であるからだ。ラストの余韻は、読者の中で鳴動し続ける。
本書をあえてミステリということもないし、ミステリの主眼とは別なところに面白さがある小説だが、シムノンの普通小説には、何らかの犯罪が扱われている例が多い。人間の欲望や感情が、法やモラルに衝突するところに、人間の剥き出しの生が生じるからだろうか。メグレが解き明かす、犯罪とその巻き起こす波紋を「探偵」の存在なしに描いたら、このような作品になるのかもしれない。シムノンの中では、メグレ物は、下位に置かれていたかもしれないが、多かれ少なかれこの作品に書かれたような人生のドラマと真実を内包しているように思われる。
■チェスター・ハイムズ『逃げろ 逃げろ 逃げろ!』(田村義進訳:新潮文庫)■
昨年取り上げたアンドリュー・ウィルソン『パトリシア・ハイスミスの華麗なる人生』の中で、思わぬところで、チェスター・ハイムズに出くわした。ハイスミスは、第一長編『見知らぬ乗客』(1950) をヤドーという文学者・芸術家の共同体の施設で書き上げる。その施設には、フラナリー・オコナー等そうそうたる顔ぶれの小説家が滞在していたそうなのだが、チェスター・ハイムズが、ハイスミスの向かいの部屋に滞在していたという。この二人の間で、どのような会話がされたのか、されなかったのか興味津々だが、伝記では何も触れられていない。
チェスター・ハイムズは、1909年生まれの黒人作家。オハイオ大学で高等教育を受けたが、1929に武装強盗を働き、服役。獄中で小説を書き始める。出所後の1945年に書かれた普通小説がベストセラーになったが、47年発表の長編が酷評され、国内に居ずらくなり、53年に渡欧。さきのヤドーへの滞在は、この間のできごとで、作家としての道を模索していた時期に当たる。パリ滞在中に、著名なミステリ・シリーズ〈セリ・ノワール〉の監修者マルセル・デュアメルから、ミステリの執筆をしないかと声をかけられ、『イマベルへの愛』(1957) を発表。50歳近くなってからミステリ作家となった。このミステリ第一作はフランス推理小説大賞を受賞し、ベストセラーになり、米国には遅れて逆輸入の形となった。同作で送り出したハーレムの黒人警官コンビ、棺桶エドと墓堀りジョーンズは、全9作の当たりシリーズとなった。
伝記的事実が面白すぎて、長く書いてしまったが、黒人ミステリ作家のハシリであることを抜きにしても、これだけ紆余曲折の作家人生を歩んだ人も少ないだろう。その作品は、70年代に大半翻訳されているが、『逃げろ 逃げろ 逃げろ!』(フランス1959、米国1966)は、ノン・シリーズ作品で、この度、新潮文庫〈海外名作発掘レーベル〉から初邦訳された。ハイムズ作品の邦訳自体がおそらく50年以上ぶりとなる。
年の瀬のニューヨーク。白人警官ウォーカーは、路上に停めた車がないことに気づき、近くのレストランの黒人清掃員たちに盗まれたと思い込む。なりゆきで清掃員を射殺し、さらに証拠隠滅のためにもう一人を殺害。しかし、二人の同僚のジミーには逃げられ、ウォーカーは執拗にジミーを追い回す。
タイトルからは、逃走と追跡のノンストップ・アクション小説が推測されるが、実はそうでもない。冒頭こそ逃走劇が繰り広げられるものの、銃撃されたジミーが退院してからは、意外にじっくりとした展開になる。
この小説、まず、32歳独身の白人警官のウォーカーが不気味すぎる。何の証拠もないのに、清掃員二名を撃ち殺し、法律に対する恐怖は感じるが、殺したことの痛みは感じていない。ジム・トンプスン小説の主人公のようなツルリとした内面をもつ道徳観念が欠如した人間だ。対するジミーは、コロンビア大学のロースクールに通う傍ら、清掃員の仕事もしいる知的な若者。銃撃された後、すぐに、ウォーカーに撃たれたと証言するが、逆に、現場に駆け付けたことを装ったウォーカーにより、病院の精神科に送られてしまう。
以降、ウォーカーの犯行を疑う警察側、ジミーの前に執拗に現れ狙撃のチャンスを狙うウォーカー、ウォーカーを恐れるジミーの三つの動きを中心にストーリーは展開していく。ウォーカーに撃たれたことを歌手の恋人であるリンダさえ信じてくれないことにジミーはいら立つ。
本書のフランス刊行年は、米国の公民権法成立以前。まだ、黒人への差別・偏見が色濃く残っている時代で、白人に追われ脅威を受け続ける黒人という小説の図式は、疑いなく現実の社会相を反映したものだ。公民権運動前後には、各地で白人民族主義者による黒人に対して、各地で陰湿かつ凄惨な暴行が加えられるようになり、黒人の恐怖が強まっていたといわれる。ミステリ作家として黒人を主人公にし続けたハイムズは、黒人の置かれた立場を肌で理解している数少ない作家の一人という自負もあったことだろう。その皮膚感覚をハイムズは追う者と追われる者エンターテインメントに仕立て上げたのだ。
ハーレムにある11人の子供がいる被害者宅を訪れた後、事件を担当する白人刑事は、暗澹たる思いでこう考える。
「どこかで何が間違っているという感じがしてならない。それは昨夜起きたことかもしれないし、ずっとまえに起きたことかもしれない。アメリカという生命の仕組みがどこかで機能不全に陥っている。それはたぶん心臓だろう。鼓動はすでに停止し、ふたたび脈打つことはない」
これは、作者の苦い認識でもあるだろう。そう考える刑事にしても、酒浸りの黒人の女に会って、同じ黒人女性でも、感じのいい者より感じの悪い者に相対するほうが気が楽になると、内なる差別意識を露呈させる。
ジミーの行く手に立ち塞がるように現れるウォーカー刑事は怖いが、さらにゾクリとさせる場面がある。ジミーの恋人リンダがウォーカーと相対するシークエンスだ。ハーレムの黒人のクラブでリンダは、ウォーカーに対し、ジミーにつきまとわないように言うが、自分が犯人のはずがない、ジミーを救おうとしていると言いくるめられてしまう。それどころか、ウォーカーの催眠術師のような口ぶりに、性的欲望まで感じてしまう。「あきらかに支配されている。自分は丸裸になり、抗うことができないように感じる」ウォーカーとリンダはどうなってしまうのか。単に、力の誇示ではない脅威がジミーに及び、サスペンスを高める。この場面は、力以外でも白人に服従せざるを得ない状況を象徴しているようにも思えるし、黒人対白人という構図を越えて、支配と被支配の関係性のグロテスクな寓意になっている。
ジミーは、自らの身を守るため、拳銃を手に入れることを決意し、行動する。力には力という構図は、後に64年から68年までロング・ホット・サマーと呼ばれる黒人暴動が頻発したことを想起させもする。
ウォーカーも捜査が自らに迫っていることを知り、ラストの対決になだれこむ。
本書は、追う者と追われる者の神経戦をスリリングに楽しめるエンターテインメントである一方で、力と力以外の脅威も描き、当時の黒人の置かれた状況も反映した時代の証言になっている。レストランの清掃業務の詳細やハーレムの暮らしや情景 (書店の黒人が書いた小説棚の描写を含む) が点綴され、風俗面でも興味深い点が多い。
BLM運動など、黒人差別の本質がいまだ解消されない現実を前に、65年前に発表された小説は、今なお我々にヴィヴィッドに迫ってくる。
■杉江松恋編『名探偵と学ぶミステリ 推理小説アンソロジー&ガイド』(早川書房)■
10数年前、とある高校の1年から3年までの生徒の1人1冊オススメ本リスト (ジャンル問わず) を眺めたことがある。全517人のオススメ本のうち翻訳物のフィクションはわずか28冊 (5.4%)、童話、ジュブナイル、YAを除くと、9冊 (1.7%) にとどまった。ちなみに、山田悠介を挙げたのが27人。つまり、山田悠介一人と翻訳小説すべてが拮抗していたのだ。海外作品で育った世代としては、若い読者に海外作品にもっと目を向ける手立てが必要と痛感したものだった。書店の翻訳棚が年々縮小していく現状からも、海外小説の旗色が悪くなっていることが窺える。
本書は、大人も子供も楽しめることを目指した海外ミステリの入門書。
ホームズ、ルパン、ポアロ、ミス・マーブル、クイーン、ネロ・ウルフ、ジェイムズ・ボンドといった探偵 (スパイ) たちへのオマージュ短編とガイド&コラム、4コママンガを収録と盛りだくさん。オマージュ短編の書き手は、現在活躍中の日本人作家、楠谷祐、辻真先、斜線堂有紀、水生大海、青崎勇吾、阿津川辰海、福田和代の諸氏。子供の読者も念頭に置き、総ルビつき。
編者あとがきにもあるが、筆者が子供の頃は、この種のミステリ入門書がいくつもあったように思う。良質のガイドは、読者の知識を増やし、読書の幅を広げる良き導き手となった。中には、名作のトリックや犯人を明かすような本もあったが、もちろん本書にはそうした心配はない。
当サイト「書評七福神」でもおなじみ、書評家の杉江松恋氏が「編著者のおすすめ本」や「豆知識」を教えてくれる。
中でも、全6回のガイドは、従来のミステリ内のジャンル論からはじまるミステリ観をいったん取っ払って、「ミステリのおもしろさとは何か」「名探偵とは誰か」「トリックとは何か」等を一から考え直した内容で、子供のみならず、大人のファンでも蒙を啓かれるところが多いのではないか。
例えば、ミステリの「why」にいち早く注目した作家として、G・K・チェスタトンの名を挙げ、「why」の重要さが理解されるようになり、ミステリの技巧は、この世で最も不思議なもの、人の心を描く技巧として見なされるようになったという指摘や、ミステリのプロットの類型は、簡略化すると「Aかと思ったらBだった」になるという言明は、斬新だし、手垢のついた言説ではなく、ミステリを新しい言葉で語ろうとする編者の意志を感じさせる。
オマージュ短編は、いずれも、名探偵へのリスペクトが感じられ好ましいが、水生大海のミス・マーブル物が原作の雰囲気を良く伝え、プロット的にも優れていた。
こうした新しいタイプの入門書が次の世代で広く読まれ、新たな海外ミステリファンが多く生まれてくることを願ってやまない。
ストラングル・成田(すとらんぐる・なりた) |
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