■ドロシー・ボワーズ『弔いの鐘は暁に響く』(友田葉子訳:論創海外ミステリ )■


 ドロシー・ボワーズは、ドロシー・L・セイヤーズの後継者とも目されながら、五つの長編を遺し、46歳で早逝した英国の女性作家。本書『弔いの鐘は暁に響く』(1947) は、彼女の遺作であり、これをもってすべての長編は、紹介されたことになる。
 デビュー作『命取りの追伸』(1938) は人物描写に優れ、謎解きにも工夫がある佳品、『未来が落とす影』(1939) は巧緻なプロットで繰り出されるアクロバティックな大技を決めた一作、『謎解きのスケッチ』(1940) はダイイングメッセージ物だが、群像劇としての魅力もある作品、『アバドンの水晶』(1941) はサスペンスに幻想味に恐怖、フェアな謎解きとサプライズが一体となった逸品と一作ごとに丹精が込められているが、特に『未来が落とす影』『アバドンの水晶』は、屈指の作。その作品からは、黄金時代風の謎解きを大事にしつつ、持前の人間描写・自然描写を武器にミステリを前進させる意志を感じずにはいられない。
 本書の舞台は、二次大戦終了後の小さな町。完全なる田舎というわけではなく、都会と田舎が入り混じったような町だ。隣接する村では、五人もの死者が相次いでいた。いずれも自殺として処理されていたが、町には不穏な空気が漂っていた。そんな中、美容室などを経営するやり手の老婦人バーサ・タイディーが自らに送られてきた手紙をもって、警察を訪れる。手紙の内容は、バーサの殺害を予告するような脅迫状だった。万全の捜査を約束した警察だったが、24時間経たないうちに、老婦人は殺害されてしまう。
 前四作における捜査官は、スコットランドヤードのパードウ警部だったが、本書ではレイクス警部に代っている。レイクスは、冷静沈着な切れ者。探偵役変更は、何かといえば地元愛ゆえに地域の人々を擁護する町の警察官との対立軸をつくりたかったのかもしれない。
 本作は、手紙がキーになっていること、小さな村を覆う暗雲を描いていることで、アンリ=ジョルジュ・クルーゾー監督の傑作ミステリ映画『密告』(1943) を思わせるところもある。
 五人もの相次ぐ死に加えて、老婦人の殺害、さらには何事かに気づいた節のある老婦人の店の女性従業員までが殺されてしまう。まさに、異常事態だが、容疑者は多岐にわたる。店の従業員である娘たち、歯に衣着せない舌鋒の持ち主である女性推理作家、独身生活を営む高名な作家、孤独を愛する古本屋の女店主、死んだ五人の遺族たち。『アバドンの水晶』でそうだったように、独身の高齢女性の描写が実に巧みだ。著者の筆は、一癖も二癖もある町の住人の生活と思考に自由で出入りしながら、不可解な事件の輪郭に迫っていく。やがて、五人の死に再調査が及び、ある人物の途方もない悪意がせりあがってくる。
 『未来が落とす影』でも感じたが、作者の情報の出し方が実に巧みで、おぼろな霧の中から、事件の全体像が次第に浮かび上がってくる過程が目覚ましい。時にもどかしさも感じさせる「急がない」叙述も、「じらし」を感じさせるための作者の計算のうちに違いない。
 レイクス警部がキッチンでの尋問中に別人が大鍋を落とす何気ないシーンがあるが、直後に、尋問を続けさせないための意図的な行為であることをレイクスは見切っていることが明らかにされる。こうした不可解と推測の積み重ねが大きな構図の発見につながっているのだ。
 終章近く、レイクスは、犯人に罠をしかけるが、その後の叙述では、誰が犯人かはもちろん、誰が罠の協力者かすら判然としない。複数の人間が協力者らしく見えるのは、やりすぎともとられかねないが、これがボワーズ流の誤導のテクニックなのだろう。
 真相の開示が手紙による告白である点は残念だが、真犯人はそれまでの捜査で十分に明らかになっているものともいえる。犯人の告白後、教会の牧師が直面する葛藤の挿話は忘れ難い。
 クイーン『九尾の猫』といかないまでも、七人の死が小さな町に及ぼした集団ヒステリーが描かれているのも興味深い。町では、作家には石が投げられ、女従業員の着衣は切り裂かれ、「魔女を焼き殺せ」の声が響く。その意味で、本書は、群像劇であるとともに、町が主人公ともいえる小説で、過去の四作で磨いた描写力、情報の出入れのテクニック等を集大成しつつ、町を俯瞰する全体小説的趣向により作家としての新境地を開いたものといえるだろう。
 最後に、本書各章のエピグラフには、マザーグースの「オレンジとレモン」の一節が使われているが、これだけ内容と照応して効果を挙げている小説も珍しい。
 二次大戦の影響によるものか、第4作から6年後に発表された本作で、さらに新たな境地を示しているだけに、作者の早逝が惜しまれてならない。

■シルビナ・オカンポ/アドルフォ・ビオイ・カサーレス『愛する者は憎む』(寺尾隆吉訳:幻戯書房〈ルリユール叢書〉)■


 〈ルリユール叢書〉から、まさかのアルゼンチンのミステリの登場である。しかも、ホルヘ・ルイス・ボルヘスとアドルフォ・ビオイ・カサーレスが編んだ伝説のミステリ叢書〈第七圏〉から出た一冊だ。〈第七圏〉は、四十年にわたり、全刊行366点、そのうち、二人が直接選定したのは、120点といわれるが、英米の黄金時代以降の本格作品がズラリと並ぶ。ジョン・ディクスン・カーが10作、ニコラス・ブレイクが8作、パトリック・クェンティンが8作などなど。英米では評価が低いフィルボッツが『赤毛のレドメイン家』をはじめ5作も収録されているのも眼を引く。未訳の作品は知らず、選択された作品は、誠に趣味がいい。(〈第七圏〉については、訳者解題に詳しい。リストは、「本棚の中の骸骨」(藤原編集室通信)のサイトに掲載されている。) http://www.green.dti.ne.jp/ed-fuji/column-borges-dai7ken.html
 二人のミステリの志向が黄金時代以降の本格ミステリにあることは明らかだが、自ら〈第七圏〉に加えた『愛する者は憎む』(1946) は、これらの名作群に伍す構えで執筆されたものと思われる。
 〈第七圏〉の選者であり、作者の一方のアドルフォ・ビオイ・カサーレスは、それ自体形而上ミステリといってもいいような幻想小説『モレルの発明』(1940) の著者であり、邦訳も複数ある。ミステリでは、独房の探偵が事件を解決する『ドン・イシドロ・パロディ 六つの難事件』(1942) をボルヘスと合作している。もう一方のシルビナ・オカンポは、カサーレスの11歳年上の妻で、詩人であり、幻想的短編の名手といわれている。
 さて、前置きが長くなったが、『愛する者は憎む』は、邦訳にして140頁足らず。中編といってもいい分量だが、これがなかなかミステリの楽しさが凝縮されたような作品だ。
 医師であり、映画の脚本家でもある中年紳士の「私」ドクトル・ウベルマンが語り手である。彼は、海の森という地の海辺のホテルに滞在し、ガイウス・ペトロニウス『サテュリコン』をシナリオ化しようとしている。彼は、浜辺でかつての患者だったメアリーと出逢う。メアリーはその日、妹のエミリアと諍いを起こし、翌日には死体で発見された。一帯を包む砂嵐の中、警部補と警察医が駆けつけるが…。
 何やら冒頭から奇 (くす) しい。退廃と悪徳がはびこる古代ローマを描いた小説『サテュリコン』を映画化するという企画が、そもそもどうかしている(余談だが、といっても1969年にフェデリコ・フェリーニ監督が映画化している) 。「私」の知性を鼻にかけ、自意識過剰な態度も気になる。これは、もしかして、ミルワード・ケネディ『救いの死』 (1931) の語り手のナレーションが癇に障る一人称の反復ではないだろうか。そういえば、カサーレスが高く評価していたミステリが『救いの死』だ。「私」は、いわゆる「信頼できない語り手」ではないかと身構えることがまず必要であるかもしれない。
 メアリーは、毒死であり、自殺なのか殺人なのか、決め手に欠ける。彼女は、ミステリの翻訳家であり (現在訳しているのは、マイケル・イネス! )、その翻訳文を熱心に読んでいたメアリーの恋人と宿泊客が彼女の遺した遺書めいたメッセージを見つける。翻訳文の一節でないことを確認するために、彼らは訳文を読みこんでいたのだ。
 物語は、ここから急展開し、意外な名探偵の登場、第二の殺人、宿泊客と子どもの失踪、砂嵐の中の捜索と続く。多重解決めいた仕掛けが施され、最後には、「モースト・アンライクリー・パーソン」意外な犯人の出現となる。短い枚数で、簡素な事件にかかわらず、謎解きの醍醐味があり、フィルボッツの小説が重要な役割を果たすなど、マニアックな試みも楽しい。
 これだけなら英米ミステリマニアが書いたミステリともいえるが、そこは、さすがに文学者同士の合作。「私」の恋愛も探偵行為も一人相撲めいた失敗譚というファース味があり、文学談義があり (ウベルマンは、警部補とトーマス・マン『魔の山』について語り合う)、探偵小説論があり、印象的な挿話や思考がある。
 砂に沈みゆくホテルや砂嵐の猛威といった舞台設定、特に浜に打ち上げられ一夜にして消える船のイメージ喚起力は抜群である。全体を通しては、はかなく散った美しい姉と残された美しい妹への愛惜の念が残る。重厚な小説ではなく、淡彩のスケッチゆえの効果だろう。
 タイトルにもつながる皮肉めいた終わり方は、軽くもあり、考えようによっては重くもある問いかけになっていて、結語にふさわしい。
 なお、作中の文章の引用元とされるフィルボッツの小説の特定ができていないとのこと(訳者解題)。実は、存在しない小説なのかもしれない。

■アガサ・クリスティー『蜘蛛の巣』[小説版] (チャールズ・オズボーン小説化)(山本やよい訳:クリスティー文庫)■


 アガサ・クリスティーのオリジナル戯曲第二作「蜘蛛の巣」(1954) の小説化。小説化したのは、クリスティー研究家で文芸評論家のチャールズ・オズボーンで2000年に刊行された。元の戯曲は、女優マーガレット・ロックウッドのために書かれたコメディ志向の作品。
 自宅の客間に突然現れた死体。クラリッサの空想は現実になった。夫の前妻と結婚した男の死体を見つけたのだ。数時間後には、外務省勤めの夫が外国の要人を連れてくる。クラリッサは、死体を隠し通すことにしたが、通報もしないのに警察が現れて捜査を始め、発見された死体は消えてしまう…。
 クリスティーとコメディという取り合わせは意外なようだが、もちろんコメディもいけるのだ。初期のトミーとタペンス物や『書斎の死体』を見よ。
 本作では、ヒロイン、クラリッサが溌剌としている。20代後半の美女で、想像力旺盛なタイプ。年の離れた夫の妻となり、12歳の娘の継母にもなっているが、夫婦仲や娘との関係は良好。死体出現の椿事に弱り果てる来客たちを説得、鼓舞して警察に立ち向かう。影の主役といっていいのが、庭師のミス・ピーク。色んなところに首を突っ込み、大笑いするアマゾネスと呼ばれる女。
 警察は来る、死体は消える、麻薬密売組織が絡み、秘密のメッセージが見つかり、クラリッサは三度の違う説明をし、犯人への罠があり、宝の発見がある。要人が来るまでの短い間に、めまぐるしいほど事件が起こるが、それらは必然の糸で結ばれ、緻密に組み立てられている。一見、犯人は明らかなようだが、実はもう一段深い真相が隠されており、その骨格もしっかりしている。一人二役あり、アリバイトリックあり。読み返してみると、タプルミーニングあり、叙述トリックめいた仕掛けあり、大胆すぎたり、きめ細かな手がかりあり。本作は名匠が腕によりをかけたフルコースなのである。
 オズボーンの小説化は、基本はクリスティーの戯曲に忠実だ。クラリッサの演技好き、いたずら好きの性格を強調するため過去の逸話を追加したり、外国の要人を東ドイツからソ連邦首相に変えたり、凶器とみられるものをアフリカの棒からステッキに変えたりと、細かな変更点はあるけれども。ト書きの部分にも隠された手がかりや含意が顕在化されるし、容易に読み直しができる分、小説版の方がクリスティーの大技・小技を味わいやすいかもしれない。

■竹内康浩『謎解きエドガー・アラン・ポー 知られざる未解決殺人事件』(新潮選書)■


 「文学探偵」として瞠目の成果を上げている英文学者がミステリの祖エドガー・アラン・ポー作品中の「知られざる未解決殺人事件」の謎に挑むという心躍る書。
 著者は、マーク・トウェイン『ハックルベリー・フィンの冒険』のハック・フィンの父親殺しの真犯人を探求した英文の論文で2019年のMWA賞評論・評伝部門の日本人初の候補となり、『謎解きサリンジャー』(朴舜起との共著) では小林秀雄賞を受賞するなど、その実績は折り紙つき。
 著者が、知られざる未解決殺人事件の謎を見出したのは、ポーが書いた最後の探偵小説「犯人はお前だ」(1844) である。
 町の資産家シャトルワージーが行方不明となり、乗っていた馬のみが銃で撃たれて帰還する。親友のグッドフェローが指揮して捜索すると、血で汚れた資産家の甥の着衣が見つかるなど、甥に不利な証拠・証言が次々と出てきて、彼は逮捕され、裁判で死刑を宣告される。そうした中、生前にシャトルワージーがグッドフェローに贈るといっていたワインの大箱が到着することになり、グッドフェローは町民を招き豪華な宴が開かれるが、奇怪な仕掛けにより、真犯人が明らかにされる。
 従来は、「最初の喜劇的探偵小説」とも「探偵小説のパロディ」とも評価され、江戸川乱歩は、トリックの面では「〇〇が犯人」という型の先鞭をつけた作品とも書いている。
 しかし、著者は「ポーの天才の神髄を私たちに教えてくれる希有な作品」「この作品こそがポーの推理小説の最高到達点」と評価する。なぜか。デュパンの登場しない「犯人はお前だ」は、実は、事件の謎の提出にとどめ、答えは書かず、謎解きを読者に任せた小説だから。著者は、この作品の中に二世紀近く誰も解くことのなかった「未解決殺人事件」を見い出し、その真犯人まで看破してしまうのだ。
 ポーは自らの探偵小説に疑問をもっていた。作家が謎をつくり、謎を解いてみせたからといって何がすごいのか、という趣旨の手紙を友人に書き送っているという。「犯人はお前だ」は、作家の謎の提出者・解答者という一人二役という「茶番」から脱し、(謎を明示しないまま) 読者に解答者の役割を求めた小説だと著者はいう。
 「犯人はお前だ」に表面的な内容以上の仕掛けがあることを明らかにする客観的資料 (手紙など) がないのは残念だが、ポーの天才は、最初の探偵小説「モルグ街の殺人」を書いてから3年で、解かれるべき謎があることすら明らかにしない、最後の探偵小説「犯人はお前だ」に行き着いたことになるという議論には、魅了されずにはおかない。
 一見、立証は不可能のようにみえるが、著者のロジカルで犀利な読みは、十分な説得力をもって迫ってくる。特に、馬に打ち込まれた弾丸とワインに共通するin とout との平行関係からある会話自体が存在しないのではないかという推理や、ワイン業者の手紙の署名にはポーの名が隠されているという指摘には驚かされる。
 「一ヶ所を井戸のように深堀りして読んではならず、目を水平方向に向けて、その箇所が他のさまざまな箇所とどのようにつながっているのか、その関係の糸をたぐっていかなければなりません」と読み解きの秘訣が書かれており、それが「モルグ街の殺人」におけるデュパンの台詞と類比的であることには、感銘を受ける。
 「「犯人はお前だ」とは、直接見ることができない真実に鏡像を通して到達する物語」と定義した著者は、作品の中の鏡像関係を仔細に分析する。従来、語り手の不誠実アンフェアと思われていた部分も、人物同士の鏡像の関係に気づくと、とたんに戦略的創造として輝きだす、というくだりは、「ロジック」ではなく「マジック」だと評された探偵エラリー・クイーンの推理を彷彿させる。語り手は、嘘も書いているが、嘘かそうではないかの手がかりは、作品中にあるのだ。
 鏡像関係におけるオリジナルとコピーの入れ替えというポーの「創作の原理」まで想到した著者は、その原理を武器にポーの他の作品の分析に乗り出す。この後半のパートも、「犯人はお前だ」の分析と同様、本書の重要な成果であり、さながら公理という魔法の剣を得た騎士がポー作品というドラゴンをなで切りにしていくような趣がある。
「犯人はお前だ」と並ぶ「もう一つの完全犯罪」として分析されるのが、「のこぎり山奇談」(「鋸山奇譚」)。「犯人はお前だ」の直前に書かれた作品で、あまり人気のある作品ではないが、この作品にも秘められた未解決殺人事件があり、読者を謎解きに誘うという。著者の分析は、こちらも非常に説得的であり、チャールズ・ブロックデン・ブラウンによるゴシック小説『エドガー・ハントリー』 (1799) と酷似した部分があるという従来の批評家が首を傾げていた謎も解き明かされている。
 ミステリファンとして嬉しいのは、ミステリ作家・評論家のアンソニー・バウチャーが本編を雑誌のアンソロジーに収録する際、「探偵はいないけれども読者がその役割を果たす推理小説である」と紹介し、短い注釈において独自の読み解きを披露しているという事実が紹介されていることだ。バウチャーのこの見解は、研究者たちに捕捉されることもなく、批評的な関心を集めることもなかったようだが、そこから60年の時を経て、極東に良き理解者を得たことになる。本編が読者に開かれた探偵小説なら、その直後に書かれた「犯人はお前だ」はさらに技巧を駆使した同種の作品であることは、さらに説得的になる。
 さらに、著者の筆は、「モルグ街の殺人」「盗まれた手紙」の分析に及び、デュパンと「犯人」の鏡像関係を見い出すとともに、思考あるいは分析とは鏡像関係の発見 (類推) であり、隠喩や直喩はその知的活動の言語面での表れであるとまで、一般化される。ポーは、晩年、この「類推」を武器に、「ユリイカ」で宇宙の謎まで解き明かそうとする。
 ポーの鏡像関係を用いた創作の原理により、「アッシャー家の崩壊」「ウィリアム・ウィルソン」「黒猫」などが再吟味され、論じ尽くされたかにみえるポー作品の新たな新しい読み解きの可能性を感じさせる。
 本書には、小難しい文学理論などは出てくることはなく、明晰にロジカルに縦横に、作品世界が探索・分析され、見える景色が一変する。本格ミステリ好きなら、解決編が大部分を占めるような作品を夢想したことがあるだろうが、作品を真摯に「読む」という「探偵」行為を通じて、著者は現実にそうしたことをやってのけたのだ。

ストラングル・成田(すとらんぐる・なりた)
 ミステリ読者。北海道在住。
ツイッターアカウントは @stranglenarita
note: https://note.com/s_narita35/

 

 

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