中国では実在の事件を題材にしたサスペンス作品が少なくありません。例えば昨年に映画・ドラマ化されて大ヒットした『三大隊』の原作小説は、現役警察官の著者が実際に見聞きした事件を著したものと言われています。また、今年1月に日本で翻訳出版された紫金陳の『検察官の遺言』も社会的な大事件が背景になっていて、現実で起きた事件は中国の創作界でも良い題材として見られていることが分かります。

 先日購入した『凛冬之罪』も実在の事件をモデルにしたサスペンス小説でした。2019年6月、湖南省新晃県の小学校のグラウンドから2003年に失踪した男の死体が見つかりました。この男は当時、学校の汚職を告発しようとしていた教師でした。この死体が決め手となって県規模の汚職事件が明るみになったため、この件は中国人に大きな印象を与えたことでしょう(私はほぼ記憶にないですが)。官僚の汚職が絡み、子どもたちが使用するグラウンドから死体が出るというセンセーショナルな事件が小説のネタになるのも当然と言えば当然。しかしこの一件を題材にした本書には気になる点や不満な点も多かったです。というわけで今回は『凛冬之罪』を紹介します。

※注意※

本稿では物語の内容にかなり踏み込んだレビューを行っているため、ネタバレ多めとなっています。原作購入を検討している方はお気を付けください。

 

 高校教師の許敬元は、現在行われている高校のグラウンド工事が安全性皆無の手抜き工事であり、校長の孔偉徳が実の甥である工事業者の雷大銘とグルになって私腹を肥やしている現状をただすため、学校の視察に来た教育局副局長で旧友の章玉書に直訴状を手渡す。しかしすでに汚職官僚になっていた章玉書はこんなスキャンダルが世間に出回っては大変だと思い、校長側に許敬元の「口封じ」を命じる。その後、許敬元は行方不明となり、女生徒を強姦した末に反撃に遭って川に落ちて死んだという警察発表が出る。許敬元の娘の許雯雯は父の汚名をそそぐために、同じく捜査に疑問を持つ刑事の毛義寧とともに調査に乗り出し、父は孔偉徳校長たちに殺されたのではという確信を抱く。そして校内に残留していた血液が父親のものだったという決定的証拠を見つけた日、何者かに襲われ廃人となってしまう。許敬元失踪から15年、強姦魔の息子として肩身の狭い暮らしをしていた許星陽は父がやったとされる強姦事件に疑問を抱き、被害者・唐纓のもとを訪れる。一方、15年前に許雯雯に捜査情報を漏らしたことで窓際族になっていた刑事の毛義寧は、女子高生行方不明事件から偶然、許敬元事件の手掛かりを見つける。

 

・誰の何のための復讐か?

 このあらすじを読むと、許敬元の冤罪を15年越しに晴らすというのが作品のテーマの一つに感じられますし、それをするのは許星陽ということが容易に想像がつきます。父親を殺されているばかりか、姉すら廃人に追い込まれているのだから、テロリストになって無差別犯罪をしても心情的には理解できる生い立ちです。しかしその予想はかなり早めに裏切られることになります。この本、許敬元の冤罪を晴らすのはあくまで通過点で、真の目的は巨悪の章玉書を捕まえることにあり、そして許星陽という一個人ではそれが不可能なのは揺るがせない事実です。

 本書は序盤、許敬元の娘の許雯雯が探偵さながらに立ち回り、徐々に孔偉徳校長たちを追い詰めていきます。彼女の推理に孔校長も「大した想像力だ。ドラマの脚本家になった方がいい」と負け惜しみを言うぐらいしかできませんが、逆に考えると、素人の捜査でくつがえせるぐらい偽装工作がお粗末なのです。しかし腐敗が警察上層部にも及んでいるため、どんなにお粗末な工作でも問題ないという余裕が孔校長側にはあります。また、捜査を担当する毛義寧は正義感が強いまともな刑事なのですが、孔校長の息がかかった上司のせいで証拠の改ざんや捏造をバンバンされるため、せっかく見つけた血液も警察の捜査で「犬の血」として処理されてしまいます。それでも諦めず民間機関に血液の検査を依頼したのが許雯雯の運の尽き。決定的証拠をつかんだために暴漢たちに何日も監禁され、ひどい暴行を受けた結果、廃人となります。

 本書の序盤で明らかになるのは個人の調査の限界であり、そしてそれは探偵の弱さを表しているようにも見えます。

 だから許雯雯の弟の許星陽の活躍が尻すぼみになるのは分かりきっただったのかもしれません。父の失踪と姉の廃人化から15年後、大人になった彼は当時父に強姦されたという唐纓に会いに行き、彼女と共に本当の強姦犯を探そうとします。しかし真犯人の証拠をつかんだ唐纓が何者かに殺されてしまい、彼の捜査も暗礁に乗り上げます。残念ながら許星陽の主役パートはここで終わりで、これから刑事のターンに入ります。

 冷や飯を食わされていた毛義寧は女子高生失踪事件の捜査で部下からの信頼を得て、腐敗していない刑事仲間たちと証拠を固めながら許敬元失踪事件の真相に迫り、孔偉徳や雷大銘らを徐々に追い詰めていきます。子どもが親の敵を討つという復讐譚は序盤で終わり、物語は中盤で早々と汚職暴きへと移るわけですが、主導権が完全に警察に握られてしまったのが個人的に残念でした。

 また、2019年に小学校のグラウンドから死体が見つかった事件をモチーフにしているから許敬元も当然グラウンドに埋まっているはず……と思いきや、掘っても何も出てこなかったのも単なる読者への騙し討ちにしかならず、盛り上げるどころか盛り下げる展開になっていたのもマイナスポイントです。史実通りにやったら面白くないと思ったのでしょうが、その後、死体が出てこなければ事件が成立しないと気付いたのか、結局全然違う場所から死体を出土させることになるのですが、だったら最初からグラウンドに埋めておけよと思いました。この二転三転の展開にドラマ化を見越した尺稼ぎでは?と邪推してしまいましたが、それぐらいこの展開は無理がありました。

 

・『検察官の遺言』との相似……

 許敬元が強姦犯に仕立て上げられ川で溺れ死んだというエピソードに、紫金陳の『検察官の遺言』を思い出す華文ミステリー読者も多いのではないでしょうか。あと、死者の潔白を15年越しに晴らして巨悪を討ち取るという筋書きも似ていると言えば似ていますが、本書が『検察官の遺言』を参考にしたかどうかは置いておきます。

 本書には疑問を投げかけたくなるシーンがいくつもありますが、中でも一番「おいおい……」と思ったのがこの許敬元強姦冤罪関連です。毛義寧のつてで警察にやって来た許雯雯が許敬元に強姦されたと訴える唐纓を「嘘つき」と罵倒するシーンがあります。『検察官の遺言』の場合、強姦自体がでっち上げですが、唐纓は本当に強姦の被害者です。確かに読者は許敬元が強姦犯ではないことを知っていますし、実の娘の許雯雯がそれを否定したくなる気持ちも分かりますが、許雯雯が唐纓にやったことはかばいきれません。そして許雯雯は唐纓に謝罪することもなく、廃人になって物語からフェードアウトします。さらに15年後、許星陽に真犯人探しを持ちかけられた唐纓もまた命を落とします。この本、女はフィクションでひどい目に遭うのが当たり前だと思ってないか?と感じた瞬間です。何より、唐纓と許雯雯の面会を許し、許雯雯が探偵の真似事をするのを認め、なおかつ唐纓と許星陽を会わせ、結果的に許雯雯を日常生活が送れないような体にさせて、唐纓を殺してしまった刑事の毛義寧が何の法的・道義的責任を取っていないのがどうにも納得できません。作中で捜査情報を民間人に漏らしたことで窓際族に追い込まれていますが、クビになっても、というか辞職してもおかしくないことをやらかしていないか?というのが率直な感想です。

 作者の岳勇は「弱者のために声を上げる」人間らしいですが、この物語の警察は大きな虎や小さなハエ(要するに汚職官僚)を退治するためなら私人を犠牲にしてもやむなしと考えているように見えました。

 

・悪人視点不在という問題

 女を悲劇装置としか思っていないところや、中盤以降ずっと駆け足でドラマの脚本を思わせるストーリー、矛盾が目立つ登場人物の言動などの点から私は本書をあまり評価していませんが、面白かったところもいくつかあります。一番良いと思ったのが、本書の黒幕・章玉書のキャラクターです。汚職事件の捜査がいよいよ本格化した際、普通の汚職官僚なら捜査陣に圧力をかけて妨害するなどをするでしょうが、章玉書は逆に捜査を後押しして人員を補充します。捜査の手が自分に及ぶ前に短期決戦で終わらせたいと考えての行為ですが、この対応のおかげで、毛義寧すら終盤まで章玉書のことを高潔な政治家だと信じて疑いませんでした。

 章玉書は私利私欲のために旧友を殺せる残酷さや、常に善人の仮面をかぶって周囲に気取られない自制心、そして自身も危うい汚職捜査を取り仕切る胆力と政治力があってけっこう面白い悪役なのですが、彼の内面が一切描写されなかったのも残念なポイントです。

 色々惜しいところが目立つ作品でしたが、映像化されて諸々の点が改善されたら第二の紫金陳としてもてはやされそうです。

 

 

 中国ミステリ愛好家。北京在住。現地のミステリーを購読・研究し、日本へ紹介していく。

・ブログ http://yominuku.blog.shinobi.jp/
・Twitter http://twitter.com/ajing25
・マイクロブログ http://weibo.com/u/1937491737



現代華文推理系列 第三集●
(藍霄「自殺する死体」、陳嘉振「血染めの傀儡」、江成「飄血祝融」の合本版)


現代華文推理系列 第二集●
(冷言「風に吹かれた死体」、鶏丁「憎悪の鎚」、江離「愚者たちの盛宴」、陳浩基「見えないX」の合本版)

現代華文推理系列 第一集●
(御手洗熊猫「人体博物館殺人事件」、水天一色「おれみたいな奴が」、林斯諺「バドミントンコートの亡霊」、寵物先生「犯罪の赤い糸」の合本版)


【毎月更新】中国ミステリの煮込み(阿井幸作)バックナンバー

◆【不定期連載】ギリシャ・ミステリへの招待(橘 孝司)バックナンバー◆

【不定期連載】K文学をあなたに〜韓国ジャンル小説ノススメ〜 バックナンバー

【毎月更新】非英語圏ミステリー賞あ・ら・かると(松川良宏)バックナンバー