『大宋懸疑録-貔貅刑』
みなさんはどの書評サイトをよく利用していますか?ざっと調べてみただけでも読書メーター、ブクログ、HONZなどが見つかり、「このジャンルのレビューならここ!」などの特徴の違いがあるからこそ、こんなにいくつものサイトがあるのでしょう。
私が中国で使っているのは「豆瓣読書」です。これは「豆瓣(ドウバン)」という音楽、映画、アニメなどのレビューサイト兼SNSの機能を持つプラットフォームの書評専用サイトに当たります。「豆瓣読書」の良いところを挙げるとすれば、出版社、編集者、作家らが投稿したレビューを読め、フォローしているアカウント(好友)の誰がその作品をどう評価しているのか簡単に分かるところです。
遠藤かたる『推しの殺人』中国語簡体字版の豆瓣読書ページと友人の評価(写真キャプションです)
有名作品の評価を調べたいのなら、万を超えるアカウントによる集合知に軍配が上がるでしょうが、中国ミステリー小説というマイナーなジャンルはレビュー数自体が少ないため、同好の士の評価が重要になります。
ここで厄介なのが、その作品の作者や編集者といった直接の関係者によるレビューです。まさか「駄作なので買わなくていいです」と言う作家などいるはずもなく、どんな作品であっても自信満々に満点の星5をつけるので、あまり参考になりません。さらには中国にもいわゆる「サクラ」(中国語で水軍)がいるので、ただでさえ少ないレビューで評価が二分していたら何を信じていいか分からなくなります。
評価の高低にかかわらず、気になった作品があれば読んで自身の評価を下すのですが、つまらないと感じた作品に高評価レビューが多くても判断が揺るがないほど自分に自信を持ってもいないため、サクラレビューは敵です。
最近はサクラレビューの見分け方がちょっと分かってきましたが、知り合いからの評価は低いのに知らないアカウントからの評価が高いミステリー小説が怪しいことに変わりはありません。そんな中、レビューが軒並み高評価という中国歴史ミステリー小説『大宋懸疑録-貔貅刑』(著:記無忌)を見つけたため、今回はこれを紹介します。
豆瓣読書で10点満点中9.2点、友人3人の評価が満点だった(写真キャプションです)
・飽きさせない展開や設定
北宋(960~1127年)の熙寧年間(1068~1077年)、神宗・趙頊(在位1067~1085年)の治世時代が舞台のお話です。豪商・胡安国の倉庫が焼け、宰相の王安石から頼まれていた数千冊もの『周礼』が一冊残らず灰になってしまいました。木版印刷が当たり前のこの時代、今から刷ったのでは到底間に合わず、納品できなければ王安石の信頼を失ってしまいます。そこで彼はわらにもすがる思いで、どんな問題でも解決してくれる「救急教授」の異名を持つ司天監(天体観測などを司る職務)の雲済に助けを求めます。すると、活版印刷設備を持っていた雲済によってあっという間に『周礼』が印刷され、無事納品ということになったのですが、喜びもつかの間、『周来』のうちの2ページが、郡主(皇帝の一族)の娘・真珠が失踪したという非公開事件の顛末が書かれた内容と入れ替わっていたため、胡安国に今度は皇室侮辱という大罪の疑いがかかってしまいます。
この冒頭の、ピンチからの脱出……からの再びのピンチという展開に私はすっかり引き込まれてしまいました。約500ページ、50万文字以上という分量の本書を読むに当たり、私が真っ先に恐れたのは「飽き」でした(ちなみに、邦訳された馬伯庸の『両京十五日』全2巻の原文は47万文字と言われている)。魅力的な謎が出てくるまで時間がかかったり、登場人物が多すぎて人間関係がこんがらがったりするのは、長編小説を読む上での「敵」です。しかし本書は私のような根気のない読者を想定していたかのように、のっけから主人公・雲済の博学多才ぶりや困った人を放っておけないという善性を見せつけるとともに、短期間で大量の本を刷るという功績をそのまま次のピンチに繋げることで、雲済の活躍をすぐに見せてくれています。
もう少し本書のあらすじを説明すると、『周礼』ごと燃えた倉庫を調査した雲済は、これが失火ではなく放火だと判断し、放火犯の目的は『周礼』であり、『周礼』に細工したのも同一人物だと推理します。その後、狄青将軍の孫娘の狄依依が放火犯だと分かり、誘拐されてどこかの奴隷になっている真珠を助けるために事件を流布させたかったという動機が彼女の口から語られ、北宋の首都・東京(とうけい)で暗躍する人攫いの存在が明らかになります。そして雲済は狄依依を相棒にし、真珠の居場所を突き止めるために潜入捜査を提案するのでした。
ちなみに『周礼』の2ページだけを書き換えた入れ替えトリックは、当時の製本技術をうまく利用したもので、その詳細な描写は、もしかして当時実際にこういう手口が使われたのではと思うほどでした。
雲済は「救急教授」のあだ名を持つほどお人好しというばかりか、一度見たものは決して忘れない瞬間記憶能力の持ち主であり、しかも女性が近づくと発作が起こるという持病があります。一方の狄依依は酒豪で、気が強く豪快な性格から、酒に弱く青瓢箪の雲済を当初は軽蔑しますが、一緒に調査を進めるうちに彼の推理に全幅の信頼を置くようになり、頭脳派の男と肉体派の女という、現代的なコンビが出来上がります。他にも、自分のことしか考えない強欲な商人や腐敗しきった官僚、身の丈を自在に伸縮できる物乞い、庶民の救済を是とする寺で謀を巡らす怪しげな坊主らが本書を面白くするとともに、神宗・趙頊や王安石などの実在の偉人や事件が歴史小説としての重みを与えてくれています。
・怪物に狙われた都
古代中国の首都が舞台なのだから、作中には絢爛豪華な都の様子が描かれているのかと思いきや、本書には贅を極めたシーンがほとんどなく、酒を飲む場面が一番華やかにさえ見えます。それというのも、都はこのとき、大干ばつのせいで深刻な食糧不足にあり、庶民は食うや食わずの日々を送っているからです。その一方で、金持ちや権力者はどこに食糧を隠し持っているのかみんな優雅に暮らし、その上、庶民の足元を見て、食糧を高値で卸すのでした。ですが特権階級にも心配事があり、彼らの間でとある奇病が流行っていました。その奇病は裕福な人間だけにかかり、いくら食べても下から出てこずお腹だけが膨れることから(つまり便秘)、貔貅刑と言われて恐れられていました。
貔貅(ひきゅう)とは中国の神獣で、金運の象徴として知られています。この神獣は金銀財宝を食べる口はあれどもそれを出す肛門はないため、その身体的特徴が蓄財を連想させるからです。原因不明の便秘が貔貅の祟りと見なされているように、本書に出てくる怪現象や怪事件はいずれも貔貅のせいにされています。都を襲った食糧難も、倉に貔貅が出現して百万石もの食糧を一夜で平らげたせいだと噂されています。また、仏像のお腹が妊娠したかのように膨らむ珍事も発生し、まるで都そのものが貔貅に飲み込まれているような圧迫感が物語に漂っています。
一見無関係な数々の事件が実は繋がっていたという展開は、ミステリーやサスペンスでは珍しくありません。しかし見せ方や読者の受け取り方によっては、話がとっ散らかっている、またはつかみどころがないように見えなくもないです。そこで本書では、集団便秘とか食糧の消失などの結果から、貔貅の仕業という理由を推量させ、全ての事件に貔貅が関与していると早くから読者に思わせることで、実在しない神獣に存在感を与え、展開が散漫になるのを防いでいます。もちろん読者、そして登場人物の一部は、貔貅の存在など信じておらず、背後には貔貅の仕業に見せ掛けたい何者かの悪意や思惑があるわけですが、仮の答えとして神獣を用意することで謎をより大きく魅力的にしています。
・皇帝に謎解きを披露
中国の歴史ミステリーのラストは皇帝の前で謎を解きがちな気がします。地位が高く権力も強い官僚を相手にするなら、いっそ皇帝を連れてきた方がスムーズに事を運べるからでしょう。本作でも、雲済が神宗・趙頊以下名だたる関係者や閣僚を前にして一連の事件の謎を解き明かし、どこかから批判の声が上がれば、推理に興味がある皇帝がにらみをきかせるという構図で謎解きパートは進んでいきました。
「倉庫から一夜にして大量の食糧が消えた」という怪物の仕業とでも考えたくなるトリックは、流れ作業をする人間の盲点を突いたシンプルかつ大胆な手口で、そんな子供だましで飢え死にさせられたら国民もたまったものじゃなく、むしろ雑がゆえに怒りが湧くという内容でした。トリックを明らかにして読者を感心させるのではなく、犯人に怒りが湧くように仕向けたのなら大したものです。ただし、建造物を使ったトリックが多いのに、図解が一枚もないのが不満点でした。
・亡国が示す意志の力
中国の歴史ミステリー小説を読むたびに、盛者必衰や栄枯盛衰といった四文字熟語が浮かびますが、朝廷の腐敗っぷりばかり描かれた本書の場合は、最初から亡国の足音しか聞こえず、雲済たちが何をなそうが、それで北宋の滅亡を覆せないことを読者は知っています。では、運命を前にしたら、いかなる行動も無意味なのでしょうか?
本書では、王安石が変法の改革を進める決意を示しますが、その失敗を知っている読者に対し、悪や卑怯といった低きに流れることなく正義と公平を貫いたのが王安石の失敗の原因だと暗に述べ、結果よりもその目標に向かう意志が大切だと伝えています。こういった歴史という大局から見たら無意味かもしれないが人間の営みの中では価値がある行為の重要性はほかの箇所でも言及されています。何より、主人公・雲済は「救急教授」の異名を持つお節介焼きですので、著者の記無忌が上と下のどちらに目を向け、派手と地味のどちらを美しいと思っているのかは言うまでもないでしょう。
第1巻は今年11月に発売されましたが、次巻がすでに完成していて、第2巻『大宋懸疑録-包拯局』がまもなく出版されます。実在した名裁判官の包拯(ほうじょう)が死後に閻魔になり、地獄から犯罪者に死を与えているという信じがたい怪事件に雲済らが挑みます。
面白いのが、1巻の巻末に第2巻の試し読みができるQRコードが記載されているところです。こういう小説の試し読みサービスって中国でも日本でも見たことがなかったので、素直に感心しました。
右下のQRコードをスキャンし、そのサイトに「大宋2」と入力すると2巻の試し読みができる(写真キャプションです)
持つ者がますます富み、持たざる者がますます貧しくなる北宋を舞台にしたこの中国歴史ミステリーは、日本人読者ものめり込める世界観になっています。むしろ特権階級を貔貅に見立て、その怪物を推理で退治する様子を描いた本書は今の日本でこそ流行るかもしれません。いつか何かの形で日本に広まればいいですね。
中国ミステリ愛好家。北京在住。現地のミステリーを購読・研究し、日本へ紹介していく。 ・ブログ http://yominuku.blog.shinobi.jp/ |
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