書評七福神とは翻訳ミステリが好きでたまらない書評家七人のことなんである。
この連載が本になりました! 『書評七福神が選ぶ、絶対読み逃せない翻訳ミステリベスト2011-2020』(書肆侃侃房)は絶賛発売中です。
(ルール)
- この一ヶ月で読んだ中でいちばんおもしろかった/胸に迫った/爆笑した/虚をつかれた/この作者の作品をもっと読みたいと思った作品を事前相談なしに各自が挙げる。
- 挙げた作品の重複は気にしない。
- 挙げる作品は必ずしもその月のものとは限らず、同年度の刊行であれば、何月に出た作品を挙げても構わない。
- 要するに、本の選択に関しては各人のプライドだけで決定すること。
- 掲載は原稿の到着順。
千街晶之
『ボタニストの殺人』M・W・クレイヴン/東野さやか訳
ハヤカワ・ミステリ文庫
M・W・クレイヴンのワシントン・ポー・シリーズが上下巻で刊行されるのは『ボタニストの殺人』が初めてだが、長さを意識させないほどの圧倒的な面白さだ。病理学者エステル・ドイルが、父を殺害した嫌疑で逮捕される。ワシントン・ポーは彼女の嫌疑を晴らすべく動き出すが、現場の周囲の雪上にエステルの足跡しかなかった事実に説明をつけなければ無実を証明できない。この事件だけでも厄介なのに、世間の嫌われ者が相次いで毒殺されるという「ボタニスト」による連続殺人事件が起こり、ポーはそちらの捜査も担当しなければならなくなる。エステルの父の事件が起きたノーサンバーランド州とロンドンの距離は約500キロ。その距離を往還しなければならないのだから大変だ。しかも、「ボタニスト」は警察の先手を打って次々と毒殺を成功させてゆく恐るべき知能犯。この稀代の強敵とポーたちの頭脳戦が、上下巻を費やしてじっくりと描かれるのだが、お馴染みレギュラー陣の軽妙な会話のおかげですいすいと読み進められるのが本作の長所。このシリーズの最高傑作が第三作『キュレーターの殺人』だという私の見解は今のところ動かないものの、本作もシリーズ上位の出来ではある。
霜月蒼
『喪服の似合う少女』 陸秋槎 大久保洋子訳
ハヤカワ・ミステリ
豊作の月ゆえ悩みに悩んだが、これを択る。なんとごりごりの正統派私立探偵小説である。リアルタイムでこういう新作を読んだのはいつぶりだろうかと考えてしまった。おそらく「ハードボイルド/私立探偵小説」は、現在の日本のミステリ・シーンでもっとも誤解されており、世界のミステリ・シーンでは忘れられてしまっているジャンルだろうと思う。そこにこれである。推さねばならない。
戦前の中国を舞台とし、アメリカ帰りの女性私立探偵が失踪した女学生を追う。抑制の利いた一人称一視点の文体の、ロス・マクドナルドへのオマージュは堂に入っているし、当時の中国の街路を歩む体験も、都会小説としての私立探偵小説の妙味をしっかり味わわせてくれる。とくに主人公が放り込まれる留置場での一幕が忘れがたい。陸秋槎は『元年春之祭』や『雪が白いとき、かつそのときに限り』など、日本の新本格ミステリやライトノベルからの影響を受けた謎解きミステリを書いてきたから、まさかこういう小説を書くとは思わなかった。しかし思い返せば『雪が白いとき』などでの余韻嫋々たる抒情は印象的で、そこからハードボイルドまではほんの一歩なのだ。すぐれたハードボイルドを書くには詩人の才が要り、それを陸秋槎は持っている。
まさか令和の世に、結城昌治をオマージュした私立探偵小説が中国語で書かれるとは思わなかった。ついでにいえば、「~ですか」など、「か」で終わる質問文には「?」を置かない結城昌治文体で本書は訳されていて、そういう細部に払われた神経にも加点したい。
上條ひろみ
『ボタニストの殺人』M・W・クレイヴン/東野さやか訳
ハヤカワ・ミステリ文庫
大好きすぎて毎年この時期に邦訳を読めるのが楽しみで仕方がないM・W・クレイヴンの〈刑事ワシントン・ポー〉シリーズ。今月はおもしろい作品が豊作で大接戦だったけど、やっぱりこれでしょう。シリーズ五作目となる『ボタニストの殺人』は、酒井貞道氏の解説にあるとおり、とにかく楽しい! 振り切れたおもしろさの絶好調エンタメ作品です。
西表島のジャングルでの発見にはじまり、テレビ番組収録中のスタジオでの異変、ポーとブラッドショーとフリンのおとぼけ三人組の張り込みシーンときて、エステル・ドイルが殺人容疑で逮捕されたとの知らせが。これだけ盛りだくさんなのに、お楽しみはまだはじまったばかり。ポーたち国家犯罪対策庁重大犯罪分析課は、ターゲットに押し花と脅迫状を送りつけて毒殺する《ボタニスト》の正体を暴き、犯行を未然に止めようと奮闘します。今回もおれたちのティリー・ブラッドショーが大活躍です。ボタニストが選ぶターゲットがいわゆる社会の敵であるところがミソで、しかも密室での毒殺! 同時進行で展開するドイルの事件のほうはなんと雪密室! いくつもの伏線をたどりながら不可能犯罪の謎を解く楽しさよ。後半から一気におもしろくなる作品は多いけど、最初からおもしろさMAXなのですごいお得感です。現時点でのシリーズ最高傑作。
サイモン・モックラー『極夜の灰』(冨田ひろみ訳・創元推理文庫)も読者をブンブン振り回す、意外性たっぷりの徹夜本。1967年末、北極圏のグリーンランドにある米軍の秘密基地で火災事件が発生。生存者から事情を聞き出すために、精神科医のジャック・ミラーがワシントンDCの陸軍病院に派遣されます。太陽がまったく昇らない極夜と、基地での人間関係の過酷さに気を取られていると足元をすくわれる、一瞬の油断も許されない傑作です。
エヴァ・ドーラン『終着点』(玉木亨訳・創元推理文庫)も期待どおりのおもしろさでした。ある出来事を始点として、未来に進む章と過去に遡る章が交互に配されていて、ディーヴァーの『オクトーバー・リスト』を思わせる構成だけど、まったくちがった味わい。読んでいくうちにふたりの女性のイメージがどんどん変わっていって、心地よく脳が揺さぶられます。予想外でありながら読後はこれしかないと思わせる終着点でした。
川出正樹
『ほんとうの名前は教えない』アシュリイ・エルストン/法村里絵訳
創元推理文庫
毎年のことだけれどもミステリ年度末が始まる八月は、各社揃って自信作を投入してくるので月次ベスト1を選ぶのが本当に難しい。とりわけ今年はサスペンス・ミステリに秀作が多くて、このジャンルを愛する身としては実に悩ましかった。北極圏の米軍基地で発生した不可解な火災死傷事件の唯一の生存者を診断し、失われた記憶を甦らせ真相を究明するよう依頼された精神科医が陰謀を暴き出す、サイモン・モックラーによる謎解き成分濃いめの冷戦期陰謀スリラー『極夜の灰』(冨田ひろみ訳/創元推理文庫)。入念に練り上げられた企ての全貌を徐々につまびらかにしながらがすべての遠因が明かされる「起点」へと遡航する章と、狭まる捜査網に怯える事後共犯者が正当防衛を主張する友人の証言に疑念を抱き、真実に気がつく「終点」へと突き進む章が交叉する瞬間、目から鱗が落ちること必死のエヴァ・ドーランによる重厚でやるせない『終着点』(玉城亨訳/創元推理文庫)。死体どころか殺人の痕跡すら見つからない“完全犯罪”を自供した女性の目的を探る、ペトロニーユ・ロスタニャによるフレンチ・サスペンス特有の皮肉なエスプリに富んだ小味な逸品『あんたを殺したかった』(池畑奈央子監訳・山本怜奈訳/ハーパーBOOKS)。
三作品とも冒頭で殺人事件の概要を――中には犯人も――読者に明かした上で、一体何が起きたのかという興味で一気に読ませるタイプのミステリで、それぞれに凝らされた技巧の妙を堪能したが、これらを上回って面白かったのがアシュリイ・エルストン『ほんとうの名前は教えない』(法村里絵訳/創元推理文庫)だ。先の展開がまるで読めないという点で近年、一、二を争う、寝る間も食べる間も惜しい吸引力抜群の犯罪小説である。
名前を偽り経歴を偽造して、名家の相続人ライアンの恋人となった“わたし”ことエヴィ。読み始めてすぐに、ライアンの裏稼業を探るために彼に近づいたことは明かされ、なるほどこれは表面上恋人関係となった男女による騙し騙され型のサスペンスに富んだ犯罪小説なのかと思ってページを繰っていくと、六十七ページ目でとんでもない不意打ちを食らう。こんなやり方で主人公を窮地に陥らせるミステリは、寡聞にして知らない(ちなみに私と同じ衝撃を味わいたい方は、内容紹介・解説等、一切の事前情報を入れずに本文を読み始めること)。あまりに予想の斜め上過ぎて、以後、エヴィ同様、緊急軌道修正し、交互に語られる彼女の来し方からようやく本筋が見えてきたと思いきや、そう簡単には全貌を掴ませてくれないところが実に嬉しい。布石の置き方と、伏せたカードをめくるタイミングが巧く、意外な展開で読者を最後まで翻弄する。要するに演出が巧いのだ。脇役の掘り下げと人物造形がやや足りないために、若干ご都合主義的に思える場面もあるけれども、そんなことは些細な瑕瑾にすぎない。不穏な幕開けから鮮やかな幕切れまで一気呵成に愉しめる今年を代表する一流のエンターテインメントだ。
吉野仁
『極夜の灰』サイモン・モックラー/冨田ひろみ訳
創元推理文庫
今月は、まず連続密室毒殺犯との戦いを描いたM・W・クレイヴン『ボタニストの殺人』が断トツの出来映えで、まちがいなくこれがベストだと読み終えたとき思ったものだ。このシリーズ当初は、個性あふれる登場人物の魅力が大きいと感じていたが、巻を重ねるごと、作者による「次のページをわくわくした気持ちでめくらせる」小説づくりの巧さに磨きがかかり、本作はもうそれが章ごとに惜しみなく埋め込まれている感じで愉しませてもらった。最高。年間ベスト級である。ところが、そのあと手に取ったサイモン・モックラー『極夜の灰』は、小説のタイプはまったく異なるが「完全にやられた」と叫びたくなるミステリで、しかも最後の最後でうれしい驚きが待ち受けているから、これをベストに挙げざるをえない。主人公は精神科医ジャックで、かれが調べているのは、北極圏の極秘基地で起きた火災により重度のやけどを負って記憶をなくした男だ。その火災で他の隊員2名が死亡している。だが、遺体のひとつは人間の形をしていたが、もうひとつは灰と骨と歯の塊だった。なぜこんなことが起きたのか。謎とその真相を調べる過程がしっかりとごまかしなく描かれており、それだけで読み進めるのが楽しかったが、それで終わらず(以下略)。事前情報などいっさい入れずにただ読みはじめたのがよかったのかもしれないものの、これほど正統で出来映えのいいミステリも久しぶり。まだすれっからしではない十代後半から二十歳くらいの探偵小説ファンにこれほど最適な一作はないと思う。で、もうひとつ年間ベスト級の問題作があり、それがリズ・ニュージェント『サリー・ダイヤモンドの数奇な人生』だ。町外れで養父と暮らすサリーは、その父が病気で亡くなったため、言いつけどおりに家の裏の焼却炉で遺体を焼いたところ大騒ぎとなった。というのが冒頭シーン。養父が残した手紙やもうひとりの人物の語りなどによって、隠されたサリーの過去が明らかになっていく。とにかくおぞましい話だ。こんな読み心地のひどい小説は、ハイスミスやケッチャム以来のことかもしれない。なんでもあまりにダークすぎるとの要望からアメリカ版は一章書き足され結末が異なり、著者の3作目はアメリカでの出版を拒絶されたという。どれほど凄惨な話なのか気になる。これが作者の第5作で最高傑作なのかもしれないが、まえの4作もぜひぜひ読んでみたい。そのほか駆け足で紹介すると、ロス・トーマス『狂った宴』はアフリカの小国を舞台に、国家元首選挙をめぐるキャンペーンを題材にした作品で、例によってハリウッド映画のシーンを見ているかのような軽妙洒脱な会話から生まれるエピソードがすばらしい。ジョージ・ドーズ・グリーン『サヴァナの王国』もまたクセのある連中の人物造形や会話が見事で、南部の古都サヴァナの街と歴史をまるごととりこんだミステリの面白さを倍増させている。陸秋槎『喪服の似合う少女』は、女性の私立探偵が主人公、女学生の失踪事件を調べるのが事件の発端で、ロス・マクドナルドに捧げるという作品だ。エイヴァ・グラス『エイリアス・エマ』は、イギリス情報機関の新人女性スパイが亡命ロシア人の息子を守るべく奮闘する物語。エヴァ・ドーラン『終着点』は、ロンドンの集合住宅を舞台に、ある女性が見知らぬ男に襲われたものの、その男を殺してしまう。ふたりの女性に視点によって描かれるのだが、ひとりは現在の時間経過をたどり、ひとりは過去を遡って描かれ、やがて事件の真相が判明するという凝った趣向の作品だ。アシュリィ・エルストン『ほんとうの名前は教えない』は、潜入調査員として他人になりすまし対象人物を調査していたヒロインが主人公。あるとき自分そっくりの容姿でしかも自分の本名を名乗る女性と遭遇するとい驚きのサスペンス。ペトロニーユ・ロスタニャ『あんたを殺したかった』はフランスミステリ。あるとき警察署に、自分をレイプしようとした男を殺したという女性ローラが出頭してきた。警視ダミアンが調べると男の死体も犯行の形跡もみつからない。ところが十年前の事件が浮上して、というサスペンス。リー・チャイルド『副大統領暗殺』は、ジャック・リーチャー・シリーズ第6作(2002年刊)で、本国刊行順に邦訳されてないシリーズであり、一作ごと物語は独立しているのでこれから読んでも大丈夫。ジャック・リーチャーのもとに亡き兄の恋人から、副大統領を暗殺するために雇いたいとの依頼が舞い込むというのが幕開けで、暗殺方法には大きく分けてジョン・マルコヴィッチ式かエドワード・フォックス式かのどちらがあるというような分析が興味深いが、ともあれ謎の暗殺者との対決を描いたアクションがたのしめる。
酒井貞道
『ボタニストの殺人』M・W・クレイヴン/東野さやか訳
ハヤカワ・ミステリ文庫
解説を書いたのは私ですが、今月はこれを挙げざるを得ない。ご存知ワシントン・ポー・シリーズの第五長篇である。今回は連続毒殺事件を扱っている。毒殺が劇場型犯罪に発展しているのは比較的珍しいが、本書はそれ以上に、シリーズ最高にエンターテインメントに振り切っていて、最初から最後まで「楽しい」ミステリである。衆人環視で予告された人物が毒殺される、という謎は魅力的で、犯人は奸智に長ける。プロットが錯綜していて謎解きミステリとしても歯応えが強い。レギュラー陣はわちゃわちゃと大活躍。何より、ストーリー展開が非常にダイナミックなのが良い。緊張感がずっと途切れない上に、様々な事態が矢継ぎ早に起きるのだ。音楽用語でたとえますが、ずっとアレグロないしプレストでぶっ飛ばしています。シリーズ最長の作品なのに、最初から最後までずっと読みやすいのも嬉しいところである。シリーズ最高傑作かと言われると、私個人は『キュレーターの殺人』の衝撃を僅かに上に置きたいですが、完成度と娯楽性は『ボタニストの殺人』の方が上でしょう。本作単体でも読めるので、シリーズ未読の方も、騙されたと思って是非。
杉江松恋
『喪服の似合う少女』 陸秋槎 大久保洋子訳
ハヤカワ・ミステリ
現代ミステリーのありように一石を投じた作品ということで、『喪服の似合う少女』を推す。解説を担当した作品なのだが、今一度注意を喚起しておきたいと思う。
これまで訳された陸作品は、新本格以降の日本ミステリーと、アニメや漫画などのサブカルチャーから受けた影響が濃厚な謎解き小説・SFが主であった。古色蒼然という言い方は失礼かと思うが、なぜ今一人称私立探偵小説を、という疑問が湧き上がってくる。その理由は作者自らあとがきに記しているので省略するが、さまざまな現代ミステリーの形を試したあとでこの形式に回帰したという点が重要だと思う。一人称の視点から見えるものとは何か。私立探偵という立場を用いて世界と対峙するとき、どのようなことが起きるか、という点を非常に自覚的に書いていて、ここ数年で発表された同型の作品でもっとも好感を抱いた。一人称私立探偵小説のファンは皆読むべきだと思う。
現実社会の似姿としてのリアリズムをいかに成立させるか、という主として文体に帰属する技巧の問題と、古典的な悲劇をどのように現代人の心性に合った物語に適合させるか、という物語構造の問題を、作者は熟考した上でこの物語を書いているのだろう。作品の時代設定は1930年代に設定されている。これは懐古趣味ではなく、中国において個人の私立探偵が活動しうるぎりぎりの時代設定なのだ。共産化した後では、そうした稼業は確かに難しくなるだろう。書きたい内容に設定を合わせるのではなく、作者は社会背景から書ける内容を絞っている。これはあとがきで明かされているが、ロス・マクドナルドの某作に本作はオマージュを捧げている。ということは職業的な犯罪者ではなく、家族の事件を扱う小説ということである。これまで多くの作家が取り組んできた課題だが、作者はおもしろい形で物語を着地させている。ミステリー的解決とドラマの終幕をずらすことによる効果というか。これは読んで確かめてもらったほうがいいだろう。
優れた私立探偵小説はもう書きづらくなってしまったのか、セルフパロディでしかもうそれは成立しないのか、というような諦念を抱きつつあったところにこの小説が出た。良い作品を書いてくれたものだと作者には感謝している。できれば書き続けてもらいたい。同じ主人公の物語にはこだわらない。私立探偵小説という形式には何ができるかを問い続けてもらいたいのだ。
待ってました、という感じでクレイヴンの大作が出ましたが、それを冒険小説や私立探偵小説、スリラーなどさまざまな作品が追いかけている印象、つまりは豊作だったということですね。ミステリー・ランキング戦線もいよいよ佳境に入っていく中、どのような作品が次月は登場しますか。楽しみです。(杉)
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