エヴァ・ドーラン『終着点』(玉木亨訳 創元推理文庫)はテムズ川河畔に建つ築六十年の集合住宅〈キャッスル・ライズ〉が舞台となっています。開発ブームの煽りを受けて、住人たちは不動産ディベロッパーから立ち退きを迫られているという状況です。〈キャッスル・ライズ〉からはすでに多くの住人らが出ていっており、残っているのはほんの数世帯。その彼らとて、ディベロッパーの圧力に屈するのは時間の問題でした。
すでに出ていった住人もまた、立ち退き料だけでは近隣に建ち並ぶ高層マンションに住めるわけもなく、住み慣れたロンドンを遠く離れて暮らしていくという選択肢しか残されていません。残っても出ていってもその先にあるのは地獄。〈キャッスル・ライズ〉の住人たちはそのような状況に置かれているのでした。
日本でも、地価が上がっているというニュースをこの数年よく聞くようになりました。私の住んでいる福岡市も例外ではなく、聞くところによると福岡市近郊のマンション価格は十年前の一・七倍ほどにもなっているのだとか。もしいま、住んでいるところを立ち退かなきゃならなくなったとしたら、同じ地域で住み替えるなんて絶対無理。じゃあ他の地域に引っ越すかと言っても、あと数年で還暦という身にはそれもまたつらい。そう考えると、〈キャッスル・ライズ〉の住人たちの苦境は想像に余りあります。
本作は、そういった状況に憤りを感じている二人の女性が主人公です。エラは〈キャッスル・ライズ〉とその周辺の、貧困のなかにある人々のことを本にして世に広く伝えようとしている若い女性。そしてモリーはエラの支援者です。モリーには、美術教師として非常勤の仕事をするかたわら市民運動に長く関わり続けているという経歴があり、エラは彼女から活動家としての手ほどきを受けています。
物語の起点となる二〇一八年三月六日の夜。〈キャッスル・ライズ〉の屋上では、エラの出版をクラウドファンディングで支援する人々を集めたパーティがおこなわれていました。スピーチを終えて、しばし喧騒から離れるため別室にいたエラでしたが、やがてうろたえた様子でモリーを呼び出します。モリーが駆けつけるとそこにはエラのほかに、男性の死体があったのです。事故だった、自分の身を守ろうとしただけだった、そう主張するエラを守るため、モリーは事後の処理を進めていくのでした。
本作の特色は、三月六日の夜を起点として、徐々に時間を遡っていくエラの章と、遺体発見以後の流れのままに描かれるモリーの章が交互に配置されていることです。モリーの章で事件の経過を、エラの章でこの物語全体に関わるさまざまな背景をそれぞれ描いています。まったく違う地点から始まった複数の事柄がひとつに収束していく様子を描くミステリならいくつも思い出せますが、あるひとつの地点で起こった事柄を起点にして、時間的に反対の方向へ物語を動かしていくというのはなかなか例がないと思います。ディーヴァー『オクトーバー・リスト』を思い出す方も多いと思いますが、味わいはまったく違います。
で、どうやったってひとつに収束するはずがないって思うじゃないですか。かたや時間を遡っていき、かたや時間を下っていくわけですから。そのふたつの流れが交わることはけっしてないはずです。が! 驚くことにこれがちゃんとたどり着くんですよね、「終着点」に。
ロンドンにおける貧困層の問題や女性たちが生き抜くことの困難さなど、社会的なテーマも織り込みながら描かれる二人の女性の共闘と裏切りの物語をぜひご堪能ください。
あ、そういえば『終着点』には登場人物表がありません。なぜないなのかは読めば納得できると思いますが、気になる方は人物相関図とか作りながら読むとわかりやすくなると思います。
M・W・クレイヴン『ボタニストの殺人』(東野さやか訳 ハヤカワ・ミステリ文庫)はみんな大好きワシントン・ポーシリーズの五作目、初の上下巻となりました。
テレビ収録中の出演者を襲った異変。厳重警備のなか自宅の風呂に入っている最中の議員を襲った異変。病院の個室で厳重に管理された状態の女性を襲った異変。殺されたのはすべて社会から大きな批判を受けている者たちでした。殺害方法はすべて毒殺。誰がどうやって彼らに毒を飲ませたのか。ポー、ティリー、フリンの三人組はこれまでと変わらぬチームワークで事件に挑みます。加えて今回は、エステル・ドイルの父親が密室状態で殺害され、その容疑者としてドイル本人が逮捕されるという事態も発生。ポーはふたつの事件を行き来しながら、真相を探っていくのですが……。
連続毒殺殺人と密室殺人です。おまけにポーにとっては無二の存在ともいえる女性が容疑者になっているというシリアスな状況であるにもかかわらず、この三人組のわちゃわちゃ加減に頬が緩む。こんなシリーズも珍しいのではないでしょうか。とにかく最初から最後までエンタメ方向に振り切っていて楽しく読めます。既作のいずれもすばらしいリーダビリティでぐいぐい読ませますが、今作のページターナーぶりは群を抜いている。不可能状態で起こったふたつの謎を彼らがどのようにして解決していくのか、読み始めたらとにかく先が知りたくて一気に読んでしまうこと必至です。しっかり時間を確保してからページを開きましょう。傑作『キュレーターの殺人』に匹敵するおもしろさ。年間ベスト級。個人的にはこっちのほうが好きかも。
ということでミステリ年度末です。すなわち年末の各種ベスト企画の締め切り月。各社とも傑作を次々に出してくる時期です。読者としても気の抜けない時期になりました。年末のベストテンを予想しながらいろんな作品を読み漁るというのも楽しいのではないでしょうか。
大木雄一郎(おおき ゆういちろう) |
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福岡読書会世話人兼翻訳ミステリー読者賞改め「どくミス」の実行委員。年末までには次回開催要項がお知らせできればと思っています。 |