書評七福神とは翻訳ミステリが好きでたまらない書評家七人のことなんである。
この連載が本になりました! 『書評七福神が選ぶ、絶対読み逃せない翻訳ミステリベスト2011-2020』(書肆侃侃房)は絶賛発売中です。
(ルール)
- この一ヶ月で読んだ中でいちばんおもしろかった/胸に迫った/爆笑した/虚をつかれた/この作者の作品をもっと読みたいと思った作品を事前相談なしに各自が挙げる。
- 挙げた作品の重複は気にしない。
- 挙げる作品は必ずしもその月のものとは限らず、同年度の刊行であれば、何月に出た作品を挙げても構わない。
- 要するに、本の選択に関しては各人のプライドだけで決定すること。
- 掲載は原稿の到着順。
酒井貞道
『タイタン・ノワール』ニック・ハーカウェイ/酒井昭伸訳
ハヤカワ文庫SF
作者がル・カレの息子のハーカウェイとはいえ、SF文庫から出ているのだから、土星の衛星タイタンが舞台になるのかと初見では思ってしまったが、ここで言うタイタンとは、高額な施術を繰り返すことで理論上は不死身となった富裕層のことを指している。本作は私立探偵を主人公に据えて、タイタンが殺害された事件の謎を追う物語だ。ストーリーは基本的に一本道であり、ミステリとして必要十分なサプライズを用意しつつ、謎解き乃至ミステリとしては、そう高度なことをやっているわけではない。しかし読んでいてとんでもなく楽しい。負けん気の強い小洒落た言葉の応酬、未来の世界における空想上の様々な事物やイベントが次から次に登場して読者を翻弄する。前者は都筑道夫を思わせるほどであり、都筑道夫のファン或いは潜在的ファン(いずれも少数派とは思えない)にはぶっ刺さるはずだ。主人公視点から見た未来社会や人間模様も実に鮮烈である。しかも地の文は、明らかな一人称小説であるにもかかわらず、私、俺、僕、I, my, me, 等の一人称を意味する言葉が全くないのである!(「われながら」等の慣用句、「私立探偵」等の人称を意味しない「私」などはある。台詞の中だともちろん一人称を意味する言葉は使われています)酒井昭伸の膨大な訳業の中でも印象的な仕事と言えるだろう。以上を総合して勘案し、激戦だった2024年12月の翻訳ミステリとしては『タイタン・ノワール』を選びます。
川出正樹
『タイタン・ノワール』ニック・ハーカウェイ/酒井昭伸訳
ハヤカワ文庫SF
やっぱり抜群に面白いなあ、ニック・ハーカウェイは。『エンジェルメイカー』(黒原敏行訳/ハヤカワ文庫NV)以来九年半ぶり、エイダン・トルーヘン名義の『七人の暗殺者』(三角和代訳/前同)からでも五年ぶりの翻訳となる奇想SF仕立てのハードボイルド『タイタン・ノワール』を読んでいる間中、わくわく、ニヤニヤしっぱなしでした。久しぶりだよ、これほどご機嫌な超B級エンターテインメントは。
舞台は近未来社会の中枢たる大都市。故あってしがない探偵稼業を生業とする主人公キャルが、世界を牛耳る大富豪と暗黒街の伝説的顔役を相手に減らず口を叩きつつ、幾度も命の危険に身をさらしながら、大学教授殺しの謎を解明すべく一人卑しい街を往く。悪徳警官に運命の女、栄華と困窮、富裕層の醜聞と封印された過去。そんなフィルム・ノワールのテンプレートに〈タイタン化薬7(タイテイニアム)〉という劇薬を注入して生み出されたディストピアSFとクライム・ノヴェルのハイブリッド、それが『タイタン・ノワール』だ。
肉体を若返らせ不老不死を可能にするのと引き換えに、身体を巨大化・強靭化させる薬物が開発された近未来。タイタン化したごく少数の特権階級が、文字どおり生殺与奪の権を欲しいままにする社会でタイタンの男が殺された。九十一歳の実年齢に四十代の外見、加えて二メートル三十六センチという身の丈を除けば、平凡で退屈なナードにしか見えない男は、なぜ殺害されたのか。訳あってタイタン絡みの事件となると警察からお呼びがかかるキャルは、「ときどき世界中が犯罪現場だとでも思わないと、私立探偵なんて仕事は務まらない」とぼやきつつ、悪徳の街の明暗両サイドに踏み入っていく。時に真面目に時に非合法に、されどあくまでも軽妙に。
デビュー作『世界が終わってしまったあとの世界で』(黒原敏行訳/前同)以来十八番の、猥雑なれど爽快でユーモアと風刺の効いたスタイリッシュな語り口は、私立探偵小説というスタイルとの相性も抜群で、普遍かつ重い真相にもかかわらず読んでいる間楽しくて仕方がない。テレビ伝道師のイベントなんて、本当、爆笑ものです。今年刊行予定の続編Sleeper Beachが待ち遠しい。絶対、訳してくださいね早川書房様。
それにしても十二月の早川書房は“黒”かった。香港返還を間際に控え、ニューヨークの中国系犯罪組織に潜入捜査する羽目に陥った王立香港警察官のひりつくような奮闘を描いたジョン・スティール『鼠の島』(青木創訳/ハヤカワ・ミステリ)、ノルウェーの寂れた山村を舞台に、家族と兄弟と隣人の桎梏に囚われた者の生と死を容赦なく苛烈に彫刻するジョー・ネスボ畢生の漆黒犯罪小説『失墜の王国』(鈴木恵訳/早川書房)。『タイタン・ノワール』も含めて、三種三様の“黒”を味わってみて欲しい。
千街晶之
『タイタン・ノワール』ニック・ハーカウェイ/酒井昭伸訳
ハヤカワ文庫SF
『世界が終わってしまったあとの世界で』『エンジェルメイカー』の作者ニック・ハーカウェイが、またしても奇想天外な作品を発表してくれた。舞台はどこの国とも知れぬ近未来都市。その社会では、それを注射すると若返り、成長が止まらないので体格や骨密度が増加して巨人化するという薬品が発明されており、注射を受けて永遠の命を手に入れた人々は「タイタン」と呼ばれ特権階級化している。そんな世界で警察嘱託の私立探偵を務めているキャル・サウンダーは、ロディ・テビットという生物学者の変死事件の調査を依頼される。テビットは四十五歳くらいに見えるが、実は九十代の「タイタン」の一人だった……。タイタン化の技術を発明した大富豪一族のあいだに渦巻く確執や裏社会の連中の暗躍に、いかにもハードボイルド的な私立探偵が巻き込まれる……という古典的設定ながら、奇抜なSF的世界観が導入されたことで話が不思議な方向へとねじれてゆくのが面白い。ドライブ感のある展開、才気煥発な会話、スタイリッシュな文体……といったハーカウェイの作品の美点が詰め込まれていて満足の出来。次は、彼が亡父ジョン・ル・カレから引き継いだジョージ・スマイリー・シリーズの邦訳も読んでみたい。資質の異なる父親の世界をどのように彼なりに咀嚼しているのか気になるので。
上條ひろみ
『男を殺して逃げ切る方法』ケイティ・ブレント/坂本あおい訳
海と月社
新年になってだいぶたちますが、みなさまいかがおすごしですか? 今年もよろしくお願いいたします。
さて、十二月度も前月同様傑作ぞろいで年間ベスト級が続々でした。
なかでも印象的だったのが玖月晞(ジウユエシー)の『少年の君』(泉京鹿訳/新潮文庫)。帯の「君は世界を守れ、俺が君を守る。」だけで甘酸っぱく切ない気分にさせてくれる中国純愛小説で、大ヒット映画の原作です。過酷な現実のなかで生きる孤独な少年北野(ベイイエ)と少女陳念(チェンニェン)がしだいに心を通わせ合うシチュエーションにきゅんきゅんし(BGMは尾崎豊「I Love You」)、情景描写の美しさにうっとりしていると(壮絶な暴力シーンもありますが)、後半はサスペンス&ミステリ的展開が一気に押し寄せてガラリと印象が変わります。まさかこういう話だったとは。ミステリ好きもうなってしまうことまちがいなしの、切なく美しい純愛小説です。
ジョー・ネスボの北欧ノワール『失墜の王国』(鈴木恵訳/早川書房)もまちがいなく年間ベスト級でしょう。ノルウェーの山間の村オスでガソリンスタンド&コンビニの店長をしながら暮らす兄のロイ。そこへ、十五年まえ逃げるように村を去ってアメリカに行った弟のカールが、美しい妻シャノンを連れて帰ってきます。この時点ですでに嫌な予感しかないんですけど、案の定カールは詐欺まがいのリゾート計画に村人たちを巻き込み、ロイはヒヤヒヤしながらも見守るしかありません。でもこの兄弟、別の意味でそれぞれかなりヤバイんですよ。二段組五百ページ超えの大作ですが、抜群のリーダビリティ。そして、予想はことごとく覆されます。シリーズ一作目ということなのでぜひ読んでおくことをお勧めします。
シリーズといえば、シャルロッテ・リンク『罪なくして』(浅井晶子訳/創元推理文庫)では、自己評価は低いけど「犯罪捜査となると高度に研ぎ澄まされた直観という素晴らしい才能を発揮する」ケイト・リンヴィルの活躍がまぶしい。ケイト、もっと自信をもって! そしてケイレブ、生きろ!
S・J・ローザン『ファミリー・ビジネス』(直良和美訳/創元推理文庫)は今回はリディアのターン。チャイナタウンのギャングのお家騒動に巻き込まれます。リディアとビルの会話(とくにリディアの減らず口)はいつもながらずっと読んでいたい心地よさ。シェイマス賞最優秀長編賞受賞作です。
傑作ぞろいのなか、今月どうしても推したいのは、ケイティ・ブレント『男を殺して逃げ切る方法』(坂本あおい訳/海と月社)。美人でお金持ちのインフルエンサー(SNSフォロワー数、数百万人)、キティ・コリンズ(29)が必殺仕事人となって女性の敵を始末する、最高にゴキゲンなブラックコメディです。マンガチックな展開で、こんなにうまくいくわけないじゃんと思うけど(とくに「逃げ切る方法」がアレだけど)、そこはフィクションというかもはやファンタジーと解釈しよう! ゲス野郎ども(失礼!)に天誅が下されて本当にスカッとします。キティを動かしているのは、女性を傷つけておきながら罪に問われない男への怒りです。夜道をひとりで歩いたり、短いスカートを履くからいけないんだと言われるけど、それって別に犯罪じゃないですよね? どんな状況でどんな姿でいようと女性を襲うことこそが犯罪ですよね? 悪いのは男なのになぜ女の行動を制限するのかという、「#夜を取りもどせ」は、ほんと「それな!」と思います。なんで指のあいだに鍵をはさんで家まで歩かなきゃいけないの? そんなモヤモヤをキティが一刀両断にしてくれるのが最高に爽快です!
霜月蒼
『失墜の王国』ジョー・ネスボ/鈴木恵訳
早川書房
北欧ミステリでジョー・ネスボが異質なのは物語にマチズモの気配が色濃い点である。刑事ハリー・ホーレ・シリーズは明らかにアメリカのハードボイルドの影響を受けているし(その点でマイクル・コナリーのハリー・ボッシュや、イアン・ランキンのジョー・リーバスに通じる)、ノンシリーズ作品『その雪と血を』などもそうだ。だが、単発の犯罪小説では、尺が短くて余計な要素が削られているせいもあり、折々に昔なら「男のロマン」と呼ばれそうなストレートすぎるマッチョ感が匂い出してしまうきらいもあった。
だが、スケールを一挙に拡大した大作『失墜の王国』は違う。まぎれもなくネスボ流のロマンティックなノワールなのだが、男性性とその毒性を幾重にも屈折させて描くことで、孤独とデスペレーションをより尖鋭化させてみせたのである。
ノルウェーの寒村でひとり暮らす「わたし」のもとに、弟カールが妻を連れて帰ってくる。カールは、「わたし」が父から相続した農場にリゾートホテルを建設し、村おこしにつなげるという一大計画とともに帰郷、村人を巻き込んで、この危うい事業をスタートさせる――というのが大枠。そこに主人公の過去にまつわる秘密や村にひそむ不和が関わってくる。人物の配置や物語の展開は、古典的なフィルム・ノワールや、あるいはいっそギリシャ悲劇のような普遍性を持っていて、それをずっしりと地面につなぎとめるのがネスボの濃く重たい語りだ。いつも以上に低重心で稠密な文体が、ノルウェーの暗い空の下に読者と物語を閉じ込める。
本作には続編があるという。いずれはドン・ウィンズロウの〈市〉三部作や、あるいは『ゴッドファーザー』といったロマンティシズムと殺伐の彩る犯罪叙事詩が成立しそうであるし、それを予感させるに十分な力作だと思う。とにかく重層的なこのヘヴィネス!
吉野仁
『罪なくして』シャルロッテ・リンク/浅井晶子訳
創元推理文庫
〈ケイト・リンヴィル〉シリーズの第三弾『罪なくして』、面白さのあまり無心のまま一気に上下を読んでしまった。これはもう挙げざるを得ない。もともとシリーズ第一作もここでその月のベストにしており、とくにキャラクターが魅力的で気に入ったのだが、今回はプロットの巧さにやられてしまった。ぐうぜん現場に居合わせた被害者を守ったケイトがまったく接点のない別の事件とのつながりを探っていく……のだが、その展開方法が見事で読ませる読ませる。トリックにあわせて事件をつくり人物を動かすのではなく謎の見せ方隠し方驚かせ方にこだわって構成されたかのような筋書きの妙。その圧倒的な勝利だ。今月はもう一作、ベストに挙げるか迷ったのが、ジョー・ネスボ『失墜の王国』で、これは〈ハリー・ホレー〉ものではなく、新たなシリーズ。ノルウェーにある村で、農場で暮らす男のもとに弟が妻を連れて帰ってきたことから暗い物語が動きだす犯罪小説なのだが単行本上下二段500ページをこえる厚さにふさわしい濃さや熱さをともなう作品である。読みごたえということでは、唐福睿『台北裁判』 も負けてはいなかった。台湾における死刑判決をめぐる法廷ものでしかも少数民族をめぐるドラマが展開されていくという、これまで読んだことのない世界であることも加え、独特の迫力をもつストーリーにとりこまれてしまった。それにしても今月は中華ものが多い。中国の作家、玖月晞による『少年の君 』はいじめを題材にした純愛ロマンスだ。ジョン・スティール『鼠の島』は、香港警察の警部がニューヨークのマフィアに潜入捜査するという話なので、香港映画を思い浮かべてしまう。そういやむかしニューヨークが舞台のマフィア映画を見ていてイタリア系なのにやたら中華を食ってるなと思っていたら、のちにチャイナタウンとリトル・イタリーは隣り合わせだと知って合点がいったものだが、ここで「鼠の島」というのはもちろんニューヨークをさしており、鼠は干支の意味とともにレストランが多いから彼らも大量にのさばるのかなどと妙な連想を重ねながらこの作品を堪能していった。チャイナタウンといえばシェイマス賞受賞のS・J・ローザン『ファミリー・ビジネス』も中華系ギャングのボスの死から事件が巻き起こる話で、あいかわらず愉しく読ませてもらった。そのほか、まだ読めていない周浩暉、ポール・アルテ、そしてグリーニーやスローターなどは次回まわし。代わりといってはなんだが、先月間に合わなかった11月刊のミッティ・シュローフ=シャー『テンプルヒルの作家探偵』は「インドのアガサ・クリスティー」と呼ばれる作家による大都市ムンバイを舞台にした探偵小説なのだが、個人的にはそこで暮らす人々の日常が描かれ、とくにさまざまなインド料理が次から次へと作中に出てくるのが興味深かった。それにしても昨年末に刊行されたら真っ先に読むつもりでいたアンドリュー・ウィルソン『パトリシア・ハイスミスの華麗なる人生』をいまだ手に取る余裕がなくて哀しい。
杉江松恋
『失墜の王国』ジョー・ネスボ/鈴木恵訳
早川書房
偏愛するニック・ハーカウェイ『タイタン・ノワール』が出たので、これに決まりと思っていた。だって、何、あの著者近影。なのだが、その後でジョー・ネスボ『失墜の王国』を読んでしまった。そうなると犯罪小説的にはこれを推さざるを得ないのである。すごいものを読んだと思う。
ロイとカールのオブカル兄弟の物語だ。二人は親密な間柄だったが、カールはノルウェーを離れアメリカに留学してしまった。生き別れとなったロイは一人地方村のオスに残り、ガソリンスタンドの経営者として生きてきた。15年という歳月が経ち、カールがオスにリゾートホテル建設の計画を携えてアメリカから帰郷してきて、というのが物語の発端だ。カールが故郷を捨てた経緯にはある犯罪が絡んでいる。単行本見返しの内容紹介ではそこに触れているが、できれば情報は遮断して読み始めたほうがいいと思う。視点人物であるロイはさまざまな事実を隠して、というよりは言い淀んで語りを進めていく。そのままに語るには、家族の歴史に対する思いが深すぎるのである。回想場面とのカットバックを交えながら進んでいく物語の中で、ロイの中にあるその淀みが少しずつ形を表していく。それが本作の読みどころで、すべてが姿を現しきったと確信を持てるようになる地点が極めて遅い。情報を遅延させる技巧が実に見事なのである。
ロイの個人的感情がプロットと深く結びついている作品で、情痴小説と分類してもいいと思う。ジェームズ・M・ケインの長篇などを思い出しながら私は読んだ。兄弟が再開することによって中断していた過去が再び時を刻み始めるというタイプのプロットは犯罪小説では一つの定型と言ってもいいほどに書かれているが、本作においてはロイの情痴が深くそれに関わることで予測のつかない物語が出来上がっている。誰に、という部分は省いておく。それも読みながら気づいたほうが興趣も高まるからだ。
静謐な物語だが、暴力の噴出もきちんと描かれる。その唐突ぶりがたまらなく感情を揺り動かすのである。予測がつきにくく、最後の1ページまで読み終えて溜息が出た。そんなところに連れて行かれるとは思わなかったのだ。ハリー・ホーレ・シリーズとは別種の、新たな代表作である。
12月は豊作でしたが、やや票が集中した感があります。ジョン・ル・カレの息子とノルウェーきっての人気作家、やはり強かったですね。今年もいい作品がたくさん読めそうです。2025年も引き続き当欄をお楽しみに。(杉)
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