書評七福神とは翻訳ミステリが好きでたまらない書評家七人のことなんである。

 この連載が本になりました! 『書評七福神が選ぶ、絶対読み逃せない翻訳ミステリベスト2011-2020』(書肆侃侃房)は絶賛発売中です。

 (ルール)

  1. この一ヶ月で読んだ中でいちばんおもしろかった/胸に迫った/爆笑した/虚をつかれた/この作者の作品をもっと読みたいと思った作品を事前相談なしに各自が挙げる。
  2. 挙げた作品の重複は気にしない。
  3. 挙げる作品は必ずしもその月のものとは限らず、同年度の刊行であれば、何月に出た作品を挙げても構わない。
  4. 要するに、本の選択に関しては各人のプライドだけで決定すること。
  5. 掲載は原稿の到着順。
  6.  

 

 

千街晶之

『冬の子 ジャック・ケッチャム短篇傑作選』ジャック・ケッチャム/金子浩訳

扶桑社ミステリー

 迂闊にも今まで気づいていなかったのだが、『冬の子 ジャック・ケッチャム短篇傑作選』を読んで、ケッチャムがこんなにも乙一と資質が似ている作家だったということに今更思い至って驚いている。宣伝になってしまって恐縮だが、三月に千街晶之・編で角川ホラー文庫から刊行予定の『Wi-Fi幽霊 乙一・山白朝子ホラー傑作選』を読んでいただければ、両作家の不思議な相似に納得するのではないか。例えば表題作「冬の子」。父親と二人暮らしの少年のもとに正体不明の少女が現れる。やがて少年は少女が普通ではないことを察知するが、父親のほうは全く気づかない。少年の視点に同化した読者は、そのうち禍々しい出来事が起こることを予想できてしまうが、それをどうすることも出来ない……。無残なカタストロフィが待っているのはわかりきっている結末に向けて物語が進んでゆくのを止められない、胸を掻きむしりたくなるようなこの読み心地は、乙一のファンであれば幾つかの代表作を連想する筈だ。他にも、ある一家を襲う不条理な運命を描く「箱」、アイディアストーリーとして上出来な「未見」、胸糞悪い物語が痛快に着地する「聞いてくれ」、母親のために人生を捧げてきた娘の哀しい人生を描いた「母と娘」等々、乙一のファンなら歓迎しそうな、時には恐ろしく、時には切ない物語がこの短篇集には数多く収録されている。ケッチャムの短篇名人ぶりを改めて認識させられる、文字通りの傑作選だ。

 

上條ひろみ

『ミセス・ワンのティーハウスと謎の死体』ジェス・Q・スタント/唐木田みゆき訳

ハヤカワ・ミステリ文庫

 二月は怒涛のように各社から翻訳ミステリーが刊行され、しかも年間ベスト級がごろごろ、というハイレベルな月でした。

 まず『こわされた少年』(野中千恵子訳/創元推理文庫)はこれで全作翻訳刊行となった記念すべきD・M・ディヴァインのフーダニットの傑作だし、ハイアセン好きにもお勧めしたいドナルド・D・ウェストレイク『うしろにご用心!』(木村二郎訳/新潮文庫)はオフビート感がたまらないし、クローディア・グレイ『『高慢と偏見』殺人事件』(不二淑子訳/ハヤカワ・ミステリ)はジェイン・オースティン作品のカップルが総出演でファン垂涎の豪華さだし、S・A・コスビーのデビュー作『闇より暗き我が祈り』(加賀山卓朗訳/ハヤカワ文庫HM)は荒削りながらコスビーらしさが詰まっているし、ミシェル・ビュッシ『誰が星の王子さまを殺したのか?』(平岡敦訳/集英社文庫)は世界的ベストセラーに隠されていた「暗号」を探るという、『星の王子さま』ファンには応えられない展開です。

 エマ・スタイルズ『銃と助手席の歌』(圷香織訳/創元推理文庫)は、オーストラリアを舞台にした少女版「テルマ&ルイーズ」とも言うべきロード・ノヴェルで、まったくタイプがちがうふたりの少女チャーリーとナオがともに暴力に立ち向かう姿は、痛い思いもたくさんするのに痛々しさはなく、どこかすがすがしい。そして強い。若いっていいなあ。

 マルク・ラーベ『19号室』(酒寄進一訳/創元推理文庫)は『17の鍵』との合わせ技で、おもしろさ倍増。『17の鍵』から一年半後のベルリン国際映画祭の会場で殺人の映像が流れる事件が起き、大聖堂殺人事件のときの面子がふたたび集結します。疾走感のあるストーリーと、ちょい役に至るまで描きこまれたキャラ設定、背後に見え隠れする想像を絶するほど黒い陰謀。読みはじめたら止まらない、これぞページターナー。

 ファンタジー・SFのジャンルになりますが、翻訳者としてはやっぱりR・F・クァンの『バベル オックスフォード翻訳家革命秘史』(古沢嘉通訳/東京創元社)ははずせません。だって「翻訳」が主役なんだもの。翻訳によって「銀」が魔法の力を発揮するってどういうこと?と思ったけど、異なる言語のあいだの意味のズレによって力が生まれるんですね。とにかく「翻訳」がないとまわらない世の中なんですよ(ざっくりした説明)。それなら翻訳者をもっと大事にしろよって思うけど、「翻訳力」は搾取されまくりで、戦争にまで利用されている。ダイナミックでエキサイティングな設定とストーリー展開で、想像力が最高に刺激されます。翻訳あるあるも多出で、個人的に翻訳学校の日々を思い出しました。ことばを信じる者たちの戦いの書であり、ほろにがい青春譚であり、すべての本好きに読んでほしい作品です。全翻訳者が泣くぞ。

 とはいえ、『銃と助手席の歌』『19号室』『バベル』はどなたかが選ばれるかもしれないので、コージーの味方を自認するわたしとしては、ジェス・Q・スタント『ミセス・ワンのティーハウスと謎の死体』(唐木田みゆき訳/ハヤカワ文庫HM)を推したいと思います。サンフランシスコのチャイナタウンで中国茶専門のティーハウスを営む60歳のヴェラ・ワンが、素人探偵としてパワフルに活躍する、おいしくて楽しくてちょっぴりほろりとさせられるコージーミステリ、MWA賞最優秀ペイパーバック賞受賞作です。ヴェラ・ワンのティーハウスで男性の死体が発見され、ヴェラは容疑者らしき人々をお茶でもてなし、おいしい料理でたくみに情報を引き出そうとします。見当違いのおせっかいおばさんのように見えても、ヴェラには「中国の母親たちが何世代にもわたって磨いてきたやましさを嗅ぎつける技」や、「大半のCIA工作員が脱帽する尋問技術」があるのです。すごいでしょ。おまけに漢方や薬膳の心得があるヴェラのお茶と料理は絶品。謎解きもしっかり楽しめますよ。著者は中国系インドネシア人で、アジア系移民の登場人物が多いのも特徴です。

 

霜月蒼

『うしろにご用心!』ドナルド・E・ウェストレイク/木村二郎訳 

新潮文庫

 豊作の月だった。S・A・コスビーのデビュー作『闇より暗き我が祈り』、苛烈な物語とオーストラリアの自然描写の鮮烈さが響き合う「Guns with Girls」なロード・ノヴェル『銃と助手席の歌』の2作も必読であるとまず言ってから、巨匠ウェストレイクの本作をベストとさせていただく。

 ウェストレイクが生涯書き続けた「計画は完璧なのにいつも不運にみまわれる」泥棒ジョン・ドートマンダー・シリーズの一作である。毎度、盗む対象の設定、襲撃の計画、計画を狂わせるアクシデントのいずれにもアイデアが惜しみなく注ぎ込まれたこの連作、ユーモラスとコミカルさでミステリ界随一の名シリーズで、僕にとって数十年にわたってオールタイム・ベストの一つになっている。

 本作は通常とちょっと変わってメインの大きな泥棒一本の話ではなく、金持ちのペントハウスを襲撃する計画のほかに、いつも一味が密談に使っている酒場が何者かの手に渡り、密談の場所の確保に困ったドートマンダーらが、店の問題を解決する話が並行する格好。リゾート地にいるペントハウスの持ち主のいけすかない富豪の物語(カール・ハイアセン風)も並行し、群像劇のような面白さがある。初期作品にあったアイデアのキレキレさの角がとれた一方、最高の職人作家らしい物語の転がしぶりが見事で、あれよあれよといううちに全編をつるりと楽しく読まされてしまうのである。

 ウッドハウスとハイアセンを足してデイモン・ラニアンの香りを足したような素敵な一冊。これが売れるとシリーズの紹介がまだ続くそうなので、同好の士は是非お読みください。個人的には、アイデアのキレとストーリーテリングが噛み合った中期の傑作で、長いせいだろうか、唯一未訳で残っている『Drowned Hopes』(ダムの底に沈んだお宝を狙う)の邦訳に期待したい。

 

川出正樹

『銃と助手席の歌』エマ・スタイルズ/圷香織訳

創元推理文庫

 エマ・スタイルズ『銃と助手席の歌』(圷香織訳/創元推理文庫)に胸が熱くなる。

金の延べ棒(インゴット)の盗難を巡る災厄から一蓮托生の身となり、心ならずも共闘する羽目に陥ってしまった二人の若い女性――貧しい白人家庭に育ち高校を退学処分になったばかりのチャーリーとアボリジニと白人の血を引く大学生ナオ――の葛藤と紐帯を、渇いた短文で活写するロード・ノヴェル型式の犯罪小説だ。

 相互不信状態にある二人の女性が、灼熱の西オーストラリア州の原野をひた走るというシンプルなれど骨太のストーリーから目が離せないのは、演出の巧さ故だ。互いに隠し事をしているバディ+チャーリーの姉という三つの視点を切り替えて、徐々に全貌を明かしていく手際が見事。それぞれの境遇や心情を慮れば納得せざるを得ない選択が危機と誤解を生み、ごつごつとした肌触りのまま避けがたい幕引きに向かって走り続ける。突如明日が見えなくなってしまった対照的な二人の若者が、桎梏から逃れどん底から這い上がるべく奮闘するビターな味わいの青春小説でもある 今月はもう二作、マルク・ラーベ『19号室』(酒寄進一訳/創元推理文庫)とミシェル・ビュッシ『誰が星の王子さまを殺したのか?』(平岡敦訳/集英社文庫)もお勧め。

 『19号室』は、ベルリン国際映画祭の開会式でオープニング作品がスナッフフィルムにすり替えられ、会場が大混乱に陥るというセンセーショナルなシーンで幕を開ける。先月取り上げた『17の鍵』に続く《刑事トム・バビロン》シリーズの第二作で、一作目で残されていた謎が解明され、東ドイツ時代に遡る更なる深い闇が姿を現す。版元が二カ月連続で刊行してくれたおかげで、前作の昂奮が覚めないうちに読めたのは嬉しい限りだ。

 一方、『誰が星の王子さまを殺したのか?』は、『星の王子さま』の作者サン=テグジュペリの今なお謎が残る失踪事件と主人公の王子さまの不可思議な最後を重ね合わせ、大胆に推理を巡らせて真相を解明する類のない謎解きミステリだ。億万長者からの依頼を受けて二つの謎を解くべく、中年の飛行機整備士と若き見習探偵の男女バディが世界中を飛び回る。『黒い睡蓮』や『恐るべき太陽』など、常にギリギリのコーナーをつく曲球で読者を手玉に取ってきた豪腕ぶりは本作でも健在。よもやこんな「真相」にたどり着くとは思いもしなかった。『星の王子さま』を読んでからだと面白さ倍増、ただし訳者あとがきに記されているようにアガサ・クリスティーの四つの有名作のネタバラシがあるので、ご注意のほどを。

 

酒井貞道

『ミセス・ワンのティーハウスと謎の死体』ジェス・Q・スタント/唐木田みゆき訳

ハヤカワ・ミステリ文庫

 重量級も軽量級もよりどりみどりの大豊作(ベストにしても良い作品が10作はある)の中、私はこれを選びます。主役の活躍度がとんでもない! 自分の店で見知らぬ男の死体を発見したミセス・ワンは、もちろん通報はするが、その後が最後まで凄い。勝手に調査を始めて事件関係者への聞き取り調査に飛び回るのです。しかも行った先々で、各人の個人的事情に首を突っ込み倒す。彼女以外の登場人物は、彼女が登場している場面ではほとんど常に、間断なく、ずっと振り回されている。大袈裟に書いているのではないです。本当にのべつまくなしに振り回していて、振り回し方のパターンも豊富、作者もよくネタが切れないものだと感心します。ここまで徹底しているのは、辛うじてジョイス・ポーターがドーヴァー警部やホンコンおばさんにさせていたぐらいかもしれないが、ミセス・ワンは善意ゆえ余計にタチが悪い。でも素直に笑えるからやっぱりこちらの方が楽しいかもしれません。自分の常識を疑いもせず、思い込みは激しいが、憎めないし、実際に目の前にいたら話を聞いて相手してしまうだろうな、という絶妙なラインを突いているのも見事。このバランスで実際に小説の登場人物を描写するのは、至難なんてもんじゃないはずです。ミステリ的な仕掛けも結構しっかりしていて、物語全体の構成も達者です。MWAの最優秀ペイパーバック賞を受賞したのも当然、コージー・ミステリに興味がない人にも強くお勧めしたい。

 

吉野仁

『バベル オックスフォード翻訳家革命秘史』R・F・クァン/古沢嘉通訳 

東京創元社

 大英帝国が君臨した19世紀を舞台に、中国出身の少年ロビンが英国ロンドンはオックスフォードにおいて学びつつ、さまざまな試練に翻弄されていく、という歴史冒険ファンタジー。なのだが、こうした要約では伝わらない面白さがそこかしこにある大作だ。副題に「翻訳家革命秘史」とあるとおり、さまざまな外国語の語源をめぐる話がちりばめられているほか、なにより物語の展開が憎いほど巧みで、とくにいくつかの章で設けられた、いわゆるクリフハンガーが効果絶大、ロビンの運命のゆくえが気になり先を読まずにおれなくなるのだ。また「バベルの塔」という知の迷宮をさまよう幻想的な展開という意味では、どこかサフォン『風の影』を思いだした。邦訳上下本の装丁からの印象で、読む前は重厚難解な小説かと身構えたがまったくそんなことはなく、小説世界に自然と引き込まれてしまった。そのほか、今月はバラエティに富んでいて、傾向の異なる作品が並んだ。巨匠から挙げていくと、まずドナルド・E・ウェストレイク『うしろにご用心!』はドートマンダー・シリーズの第12作。例によって大泥棒ドートマンダーとその仲間が美術品を盗もうとたくらむが……という展開で、作者ならではの筆致による場面場面をたっぷりと味わった。ジャック・ケッチャム『冬の子』は、ケッチャムの傑作短編集で、いかにも作者らしい容赦なしの恐怖譚があるかと思えば、ケッチャム自身がモデルではないかとおぼしき実話めいた話があったり、詩情にあふれた小説だったりと、質の高い短篇が集まっており、これは作者のファンならずともお薦めしたい。ミシェル・ビュッシ『誰が星の王子さまを殺したのか?』は、世界的に有名な小説の作者サン=テグジュペリの死の真相を探っていくという物語で『星の王子さま』を読みかえしたあとに本書を手にとればなお興味と理解はまし面白く読めるだろう。ハーラン・コーベン『捜索者の血』は、単独作。我が子を殺した罪で終身刑となった男のもとに、元妻の妹が面会に現れ、殺したはずの息子が成長した姿で写っている写真を見せた。息子は生きていたのか。そこで男はその事実を確かめ無実を晴らそうと決意する。読み終えてから考えるとかなり強引で都合のよい部分もあるものの、さすがコーベンだけあって、読みはじめるとそんなことに頭をめぐらす余裕もなくぐいぐいと最後まで面白く読まされてしまうのだ。S・A・コスビー『闇より暗き我が祈り』は、なんと著者のデビュー作であり、主人公は南部の田舎町で葬儀社に勤める男ながら、まったくの私立探偵小説として展開していく。ここにコスビーのルーツがあり、そこから次に犯罪物を手がけ、たちまち化けて大物作家になったのかと思うと納得する内容と出来映えで、もうひとつの今月のベストだ。W・C・ライアン『真冬の訪問者』は1920年代のアイルランドを舞台にした一種の歴史ミステリで、そうした特異な背景があるため、単に事件の真相を調べて解き明かす物語だけでない作品となっている。エマ・スタイルズ『銃と助手席の歌』は、姉の恋人を殺してしまった少女がもうひとりの若い女性と盗んだ車で逃避行に出たところ、謎の追っ手が現れ、という女ふたりのロードクライムだ。S・J・ショート『私があなたを殺すとき』は、若くして夫を亡くした妻たちの集まり〈ヤング・ウィドウズ・クラブ〉のメンバーで集まりながら、それぞれに秘密を抱えていたところ、不審な出来事が連続していくという女性向けロマンス風なスリラー。そして、とても愉しく読んだのが、ジェス・Q・スタント『ミセス・ワンのティーハウスと謎の死体』。冒頭いきなりミセス・ワンの中国茶専門店で男の死体が発見されるというコージーミステリながら、なにしろお茶とおいしい料理がこれでもかと出てくるので満足度は申し分ない。最後にマルク・ラーベ『19号室』は、〈刑事トム・バビロン〉シリーズの第二弾、先月の本欄でベストにあげた『17の鍵』の続編だ。今回は、ベルリン国際映画祭で起きた奇怪な事件が、トムの相棒である臨床心理士ジータとつながっているという物語。封印したはずの過去が主人公らの身に迫ってくるという展開のほか、外連にあふれたベルリン名所めぐりなど読ませどころ十分である。ああ、はやくシリーズ全四作の最後までたどりつきたい。

 

杉江松恋

『冬の子 ジャック・ケッチャム短篇傑作選』ジャック・ケッチャム/金子浩訳

扶桑社ミステリー

 根っからの短篇ミステリー好きであるので、こういう珠玉の作品集が出てしまったら選ばないわけにはいかない。えっ、ケッチャム、と尻込みする方もいらっしゃると思うのだが、凄惨極まりない長篇と比べるとだいぶ穏やかなのでご安心を。もちろんひどい暴力場面がないわけではない。だが、それ以上に印象に残るのは感情に訴えかけてくる人生の蹉跌に関する場面である。

 いくつか印象に残った短篇を挙げる。「見舞い」は意外なことにゾンビ小説だ。ソンビ・ウイルスが蔓延し、主人公の妻もそれに感染、ついには病院のベッドで命を落としてしまう。ここまではよくある展開だが、そのあとが違う。主人公の男は、妻が亡くなった後も病院を訪れ、妻が寝ていたベッドをそのとき占有している患者をひそかに見舞い続けるのである。こんな病院小説は初めて読んだ。ありそうでなかった設定だと思う。大事な人の死を悼む気持ちがひしひしと伝わってくる一話だった。

 びっくりしたのは「八方ふさがり」で、精神科医のところに新たな患者がやってくる。患者は妻の関係に問題を抱えているらしいのだが、態度が頑なであるためになかなか防護壁を突き崩せない。改善のためには妻も一度連れて来てはどうか、と提案するも不発、時間が来て男は帰ってしまう。こういう話で、何度も読んだような状況設定なのだが、ケッチャムは意外なひねりを加えてくる。それも〈最後の一撃〉なのである。その一行を読むと空間がぐにゃりと歪んだような感覚に襲われ、物語の見え方が一変する。うまいなあ。

 アメリカほら話のテイストを盛り込んだ「運のつき」や暴力小説として申し分のない「二番エリア」など、19篇すべてがおもしろく、現時点では今年の短篇集ベスト候補である。これは編者である訳者の金子浩の功績が大きいと思う。個人短篇集の編纂は、作者に対する尊崇の念がなければできない仕事だ。改めてその努力を讃えたいと思う。

 このほかも名作が目白押しの2月だった。もちろんウェストレイク『うしろにご用心!』は読み逃せないし、自分が解説を担当したので遠慮したが『銃と助手席の歌』はテルマ&ルイーズ・タイプのロード・ノヴェル傑作、そして『バベル オックスフォード翻訳家革命秘史』はあの『フリッカー、あるいは映画の魔』と『ジョン・ランプリエールの辞書』を足して二で割ったような大傑作だった。こいつは春から縁起がいいや。

 

 各人のコメントでもわかるように大豊作の2月でした。ここまで粒ぞろいの月になるのは異例のことでは。こうなると来月の結果も楽しみです。どうぞご期待ください。(杉)

 

書評七福神の今月の一冊・バックナンバー一覧