『高楼墜我:香港女傭墜亡案始末』(著:金澄/2025年)
フィリピン最高の大学を卒業したアイカ・アイリーンは、大学院に進学するため、大学で学んだ中国語を活かして香港でメイドとして働き、学費を稼ぐことを選ぶ。勤め先は、香港の大企業一族・黎家の顧問弁護士である陳茵とうつ病でケンブリッジ大学休学中の陳然がいる母子家庭。自他ともに厳しい母親とは対照的に、息子の陳然は温厚だがどこか陰があり、友人と不穏なやり取りをしている。そんな中、陳然の友人が自殺し、そして陳然と仲が良かった黎家のメイドのナナも高層マンションから転落して亡くなるという不審死が相次ぎ、アイカは陳然に疑いの目を向ける。だが陳然と彼の友人が黎家の長男黎柏成から強姦されていたと聞き、それを知っていたナナの死もきっと自殺ではないと考え、陳親子とともに黎家へ勝ち目の薄い戦いを挑む。
・香港で働くフィリピン人
「微信読書」という中国の読書アプリに掲載された本作『高楼墜我:香港女傭墜亡案始末』(高層ビルから落ちる:香港のメイド落下死事件の顛末)を読み、香港はフィリピン人が出稼ぎに来るほどメイド(ヘルパー)の需要があることを初めて知りました。
主人公のアイカも多くのフィリピン人同様、高給目当てで香港に来て、学費が貯まれば帰国するつもりでしたから、陳家に対して付かず離れずの距離を取っていました。距離感の描写で印象的なのが、初対面時にアイカが陳茵に挨拶するシーンです。「アイカ」はかなり発音しづらい名前らしく(漢字では埃卡で、この記事ではアイカというカタカナ表記にしています)、普段なら自己紹介のあとに相手に「アイカ」と何度も呼ばせて名前を覚えてもらうのですが、陳茵はメイドの名前なんか一度聞いたらもう十分というように、以降は彼女のことを「アカ」と呼びます。しかしこのとき、雇われる側であるアイカも雇用主を値踏みしているのです。彼女らも名前と自我がある一人の人間なんだということが、少ない描写で確実に伝わっています。
アイカという外国人労働者の視点で進むこの物語は、雇用者と被雇用者の隔たりとともに、恵まれた生活を送る者の苦労を読者に見せてくれます。アイカにとって陳茵は理不尽な差別やハラスメントこそしませんが、周囲に厳しく当たる、余裕がない成功者ですし、アイカのことをきちんと本名で呼ぶ息子の陳然も、進学したい彼女にとって、ケンブリッジ大学を「悩み事」程度で休学しているお坊ちゃんとしか映りません。しかし同じ境遇だったフィリピン人メイドのナナの死により、香港の富裕層の争い事に身を投じることになります。
・ぎこちない団結
個人的に好きな場面は、息子が黎柏成に強姦されていたと知ったときの陳茵の対応です。上述の通り、陳茵にとって黎柏成は最大の取引先・黎家の跡取り息子。だからこそ陳然も母親に黙っていたのですが、被害を知った彼女はためらうことなく息子の側に立って、弁護士として黎家と戦うことを決めます。今まで母と子をテーマにした中国ミステリー小説をいろいろ読んできましたが、法的手段を用いて復讐を果たそうとする陳茵に一番共感できました。また、この描写によって、アイカも読者も陳然のうつ病の理由を知り、陳茵が薄情な成功者ではないと認識を改めることになるのです。
しかし敵はあまりに巨大。黎柏成の他の被害者が、黎家の報復を恐れて口を閉ざしているのがわかりやすい例です。また、黎家は告訴されても一般人では思いもつかない対抗策を繰り出します。本文の記述によれば、香港では告訴された被告は被害者と家族の間柄がなければ実名で報道されるそうです。そこを黎柏成の母親は、陳茵の元夫(つまり陳然の父親)を買収して再婚し、被告である黎柏成と被害者の陳然との間に家族関係をつくることで、メディアに匿名報道をさせて息子を守るという手段に出ます。金に飽かせて法律をほしいままにするやり方もすさまじいですが、欲に目がくらんで息子のかたき側につく父親には情けなくなります。
敵の圧倒的防御力で窮地に追い込まれた陳茵たちの前に、黎柏成の実の姉である黎可欣が協力者として現れ、黎柏成によるメイドのナナ殺害の証拠の存在をほのめかします。彼女は別に正義感によって弟と対立しているわけではなく、男というだけで黎家の莫大な財産を継ぐことが決まっている弟をこの機に乗じて破滅させてやろうという目的があり、頼もしいが信頼しきれない相手です。それを言えばアイカも真の目的はナナのかたき討ちなので、こういう「小異を残して大同につく」チームがどんな妥協点に達するのかも見どころの一つです。
終盤ではアイカらフィリピン人メイドに活躍の場所が用意されているのは包括的な社会へのメッセージに思えますし、また軽んじられる彼女らの名前が伏線になっているのは構成力の高さを感じます。読者を最後まで飽きさせない一作です。
もう一冊オススメしたいのが、『不寛恕者迷宮』(荷小姐/2025年)です。インチキ宗教にハマった母親との確執を描いていて、日本人にも刺さりそうなサスペンス小説でした。
サイン会のために地元に戻った作家の珊妮のもとに、母親の王淑怡が死んだという連絡が届く。マンション高所から落下した鉢植えに当たったとのことだが、宗教家に騙されて家族を不幸にした母の死は、珊妮をそこまで動揺させるものではなかった。しかし母が遺言書に、生前親しかったマンション警備員の徐に自室を譲ると書いていたせいで、彼女は部屋を取り返すために徐と交渉――という名のつきまといを始める。彼が母を殺したのではないかと疑い、彼の旅行先にまでついていくが、長時間会話をするうちに、珊妮は徐の人となりを理解し、彼を通じて母・王淑怡への認識を改めていく。一方、王淑怡を殺したのは娘の姗妮だと主張する遺族側を納得させるため、定年間近の警察官・李は形式的な捜査を開始。マンション住民への聞き込みから、姗妮のアリバイに嘘があることを見つける。
・宗教信者が結ぶ男女の縁
感情に突き動かされる人間の言動の変化を上手に描写した一作で、直木賞候補作を読んでいるような気分を味わえました。
インチキ宗教にハマった母のせいで父とともに家を追い出された珊妮は、その経験をネットに投稿したところ思いがけず大バズりし、作家として大成してしまいます。それからは母親相手に裁判を起こし、その過程を文章として発表することで、名声を高めるほど母や母方の親戚との対立を深めていきます。そうして常に戦い続けている珊妮からは、他人には理解できない異常性が垣間見えます。そして母が死んで、父と自分の部屋をやっと取り返せると思ったら赤の他人に奪われた形になったことで、今度はその執着心を部屋の相続人の徐に向け、彼に部屋を売らせるために、嫌がらせをしたり、旅に同行するなどのストーカーじみた行動に打って出ます。だから、「こんないわくつきの部屋を相続しちゃった徐がかわいそう」と同情してしまうのですが、徐も嫌味に嫌味を返せる程度のしたたかさがあるため、お似合いの二人にも見えるし、徐が珊妮の復讐心を解きほぐしているようにも見えます。
しかし中盤から多くの人物の嘘が暴かれるようになる中で、徐がどうして遺産をゲットできるほど王淑怡の歓心を買えたのかの答え合わせがなされると、話が一気にサイコサスペンスじみていきます。調査のためにすでに徐のものとなった元自分の家に不法侵入する珊妮もおっかないですが、そこに隠されていた徐による「研究結果」の数々もドン引きする内容で、やはりこの二人、お似合いなのでは?と思ったら、後半にさらなる追撃が来て、いわば気持ち悪さのどんでん返しが用意されています。
・サスペンス風ヒューマンストーリー
人間がヒトやモノに執着するに至る過程を描く中で、王淑怡がインチキ宗教にハマった理由もきちんと書き、彼女の生い立ちに筆を割いているのがよかったです。王淑怡は結局、実の娘にすら本心を理解されず死別してしまいますが、生前親しくしていた第三者を通じて娘の恨みが晴れるのなら、それで満足でしょう。たとえその第三者が不純な動機を持っていても。宗教にのめり込むあまり家族を不幸にしてしまったらどうしようもないですが、そんなものにまですがりたいという気持ちまで否定してはいけません。
物語としては面白かったのですが、推理要素はほぼなく、王淑怡の死を早々に事故死と決めつけるのはちょっと納得いかなかった。中国では高所からの落下物に当たって死ぬ事件がまれにあり、その犯人、もとい落下物の持ち主が特定できることもあれば、特定できず疑わしい階の住民全員で被害者へ慰謝料を支払うというケースもあります。本作では後者の対応が取られますが、もし被害者が子どもだったら絶対にこんなぬるい捜査にはならなかったはずで、定年間近の警察官一人に名ばかり捜査をさせるのはちょっとご都合主義に見えました。
外国人労働者も宗教による家族崩壊も、日本で十分通用するテーマだと思います。特に『高楼墜我:香港女傭墜亡案始末』は「微信読書」というアプリを入れたら読めるので、興味がある方はぜひ読んでみてください。
|
・ブログ http://yominuku.blog.shinobi.jp/ |
●現代華文推理系列 第三集●
(藍霄「自殺する死体」、陳嘉振「血染めの傀儡」、江成「飄血祝融」の合本版)
●現代華文推理系列 第二集●
(冷言「風に吹かれた死体」、鶏丁「憎悪の鎚」、江離「愚者たちの盛宴」、陳浩基「見えないX」の合本版)
●現代華文推理系列 第一集●
(御手洗熊猫「人体博物館殺人事件」、水天一色「おれみたいな奴が」、林斯諺「バドミントンコートの亡霊」、寵物先生「犯罪の赤い糸」の合本版)
中国ミステリ愛好家。北京在住。現地のミステリーを購読・研究し、日本へ紹介していく。