書評七福神とは翻訳ミステリが好きでたまらない書評家七人のことなんである。
この連載が本になりました! 『書評七福神が選ぶ、絶対読み逃せない翻訳ミステリベスト2011-2020』(書肆侃侃房)は絶賛発売中です。
(ルール)
- この一ヶ月で読んだ中でいちばんおもしろかった/胸に迫った/爆笑した/虚をつかれた/この作者の作品をもっと読みたいと思った作品を事前相談なしに各自が挙げる。
- 挙げた作品の重複は気にしない。
- 挙げる作品は必ずしもその月のものとは限らず、同年度の刊行であれば、何月に出た作品を挙げても構わない。
- 要するに、本の選択に関しては各人のプライドだけで決定すること。
- 掲載は原稿の到着順。
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千街晶之
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『記銘師ディンの事件録 木に殺された男』ロバート・ジャクソン・ベネット/桐谷知未訳
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早川書房
日本で言うところの「特殊設定ミステリ」が現在の海外にも存在するかを考える際、フランシス・ハーディングの『嘘の木』や『ガラスの顔』、スチュアート・タートンの『イヴリン嬢は七回殺される』や『世界の終わりの最後の殺人』などとともに恰好の参考例になりそうなのが、ロバート・ジャクソン・ベネットの『記銘師ディンの事件録 木に殺された男』である。舞台は神聖カナム大帝国という異世界。その辺境グレタナで、政府高官が体から生えてきた木によって引き裂かれて死ぬという怪事件が起きた。見たものすべてを記憶する能力を持つ「記銘師」のディンは、上司である司法省捜査官のアナとともに捜査にあたる。だが、アナは頭脳明晰だが傍若無人な変人で、ディンは彼女に振り回されながら捜査を進めることになる。安楽椅子探偵タイプのアナと、その目や耳や手足となって現場を調査するディンのコンビは、ジェフリー・ディーヴァーの『ボーン・コレクター』などに登場するリンカーン・ライムとアメリア・サックスを想起させるが、実はレックス・スタウトの作品に登場するネロ・ウルフとアーチー・グッドウィンのコンビが着想源だという。作中世界では「記銘師」の他にも、高度な生体改変技術によってさまざまな能力を得た人々がいる設定で、謎解きと同時に彼らの異能バトルも繰り広げられるあたりは阿津川辰海の『バーニング・ダンサー』などにも通じるし、雨季になると巨獣リヴァイアサンが帝国に上陸するという危機的状況(リヴァイアサンの侵入を許してしまうと街が破壊されるだけでなく、さまざまな変異感染が起きてしまう)の中で事件が発生するあたりは大倉崇裕の『怪獣殺人捜査 殲滅特区の静寂』を想起させる。なんだかいつもより引き合いに出す作品数が多くなってしまったけれども、それだけ日本の特殊設定ミステリのファンにもお薦めしたい内容ということである。バディもののミステリとしての面白さはもとより、とにかく世界設定の作り込み具合が見事であり、本国でミステリ・ファンタジー・SFの三ジャンルで高い評価を集めたのも当然の傑作だ。
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霜月蒼
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『死の烙印』ジャン=クリストフ・グランジェ/高野優監訳、坂田雪子訳
ハヤカワ・ミステリ
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2分冊刊行されたグランジェの新作『死の烙印』、完結編となる『Ⅱ』は3月奥付ということで3月のベストに推す。
ナチスドイツで起きる異様な連続殺人を三人の主人公が追う――父をフランス人に殺された憎悪を燃やすゲシュタポの捜査官フランツ、天才と謳われながらも上流婦人御用達の精神科医に甘んじる伊達男ジーモン、男爵令嬢として生まれつつも社会福祉的な医療に献身する一方アルコール依存に苦しむミンナ。彼らはそれぞれに事件を追う「必然性」を抱えている。
ジーモンのもとを訪れて、大理石の仮面をつけた男の悪夢に悩まされていると告白した貴婦人たちが次々に残虐に殺害されるという怪奇な探偵小説のごとき導入から、三人はさながらナチスドイツの暗部を這いずるような捜査行を強いられる。ゲシュタポによる「墓掘り」、ロマの人々の弾圧、東部戦線の凄惨、悪夢のような強制収容所。戦争と専制の地獄めぐりのなかで、正義と真実にどれほどの価値があるのか?
視点の役割をする人物が3人であること。視点が章ごとに順番に割り振られること、彼らが職務や義務感ではなく、個人的な感情や妄執で事件の深層へと突っ込んでゆくこと、こうした要素は本書がジェイムズ・エルロイの作品へのオマージュであることの証だろう。頽廃と圧制の様相は『ビッグ・ノーウェア』を思わせるし、汚濁の果てに光明をめざすラストは『LAコンフィデンシャル』を思い出させた。
思えばデビュー作『クリムゾン・リバー』もエルロイと京極夏彦を合体させたような作品だった。本書もノワール性と奇想ミステリの側面を併せ持つ作品であり、つまり『クリムゾン・リバー』直系だ。エルロイ的な暗黒警察小説をナチスドイツで展開し、娯楽小説としてのキャッチーさも十分に搭載した快作。
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川出正樹
『サプライズ・エンディングス 罠』ジェフリー・ディーヴァー/池田真紀子訳
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文春文庫
「短編小説を書く目的はただひとつ、読者を驚かせるためだ」と語るミステリ界随一の〈騙し絵画家(イリュージョニスト)〉ジェフリー・ディーヴァーが、2017年から21年にかけて電子版でのみ発表した大胆奇抜にして鮮やかな逆転劇八篇を、日本で独自に編纂し二分冊で刊行した『サプライズ・エンディングス 罠』と『サプライズ・エンディングス 嘘』が無類に面白い。ミステリを読む愉しみってこういうことだよな、ということを改めて実感させてくれる。
互いに面識のない七人の運命が意外な形で交差する「魔の交差点」は、ミスディレクションのお手本のような群像劇。ミステリ作家が犯罪組織壊滅作戦の立案を依頼される「どんでん返し」は、複雑精緻な多重構造と皮肉なオチに読後思わずニヤリとしてしまう逸品。ヒラリー・ウォーの諸作を彷彿とさせる「被害者クラブ」。限定された容疑者の中から内通者を特定するwhodunitに始まりwhydunit、さらに一体何が起きているのかと謎を発展させていく構成が見事な「帰任報告」。八篇の収録作すべてが「三角関係」(『クリスマス・プレゼント所収』)や「生まれついての悪人」(『ポーカー・レッスン』所収)といった初期の傑作に勝るとも劣らない。日本独自編纂の本書に《サプライズ・エンディングス》という直球ど真ん中のタイトルを命名したディーヴァーの自信の程がうかがえる。エラリー・クイーンが存命なら〈クイーンの定員〉に加えただろうと思われる珠玉の短篇集だ。ちなみに『サプライズ・エンディングス 嘘』は4月刊なので厳密にはフライングだが、二分冊刊行の上、既に店頭に並んでいるのでご寛恕の程を。
他にも気になる作品が多い月だった。ロバート・ジャクソン・ベネット『記銘師ディンの事件録 木に殺された男』(桐谷知未訳/早川書房)は、三重の防壁と生体改編技術で海から襲来する謎の巨獣の進撃に対抗する世界を舞台に、鋭敏かつ慧眼なれど傍若無人な名探偵と完全記憶能力者の助手が、体内から生えてきた木に殺された官僚の死に始まる大陰謀を暴くファンタジー・ミステリ。所謂“特殊設定ミステリ”で世界を作り込むことがいかに大切かを示す実例であり、このジャンルの評価基準のハードルを一気に数段階上げてしまった傑作だ。
八〇年代初頭のバーミンガムを舞台に、犯罪史と解剖学に魅了された十三歳の少女エイヴァが少年連続殺人の謎に挑むマリー・ティアニー『夜が少女を探偵にする』(能田優訳/新潮文庫)は、機能不全家族という深刻なテーマを背景に、頭脳明晰で機知に富み死者の守護者を任ずる主人公が残忍な犯行の根源を解明していく様から目が離せない。
クイーム・マクドネル『幸運すぎて埋められる』(青木悦子訳/創元推理文庫)は、苦笑と失笑、血と愛と暴力、そして風刺とユーモアに溢れるノンストップ犯罪小説《ダブリン三部作》の完結編であり、すべての伏線が回収されるので、これを機会にシリーズを手に取り、矜持も信条も正義感もあれど、なぜか世間とズレてしまう三人の奮闘ぶりを愉しんでほしい。
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上條ひろみ
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『瞬きすら許さない』ジョー・キャラハン/吉野弘人訳
創元推理文庫
AIが相棒というのはもうSF設定ではなく、バリバリのリアル設定なんですね。たしかに実生活ではわからないことをいろいろ聞けて役に立つAIだけど、ベテラン警視正とAI捜査官のコンビとなるとどうなのか。と、興味津々で読んだジョー・キャラハン『瞬きすら許さない』(吉野弘人訳/創元推理文庫)。内務大臣の肝煎りで、人工知能捜査体ロックと未解決の行方不明事件を再捜査するパイロットプロジェクトへの参加を命じられたキャットは、長年の勘にAIが勝てるわけないとバカにしていました。案の定データ重視できき込みでは空気を読まない発言をするけれど、瞬時に答えを出してくれるロックの処理能力の速さはたしかに魅力的。お互いの能力を補完しながらの捜査は、スリリングだけど謎の安心感があって、これはあり寄りのありでしょう。キャットをはじめチームのほかのメンバーもそれぞれ事情を抱えているのですが、全員に共感できるし、そこから生まれるチーム内の人間模様もなんかいいんですよ。謎解きミステリとしても高水準で、なんといってもラストシーンが最高。凄腕刑事とAIのバディ。この設定、これからどんどん出てきそうですね。
キャラハンと最後まで悩んだのがマリー・ティアニー『夜が少女を探偵にする』(能田優訳/新潮文庫)。舞台は一九八一年のバーミンガム。犯罪史に詳しく、小動物の死骸の分解過程を観察する十三歳の少女エイヴァ(アラン・ブラッドリーの化学大好き少女フレーヴィアを彷彿とさせる)が、連続少年拉致殺害事件の謎を解くダークな少女探偵小説です。複雑な家庭環境のサバイバーであるエイヴァのそばに、まともな大人代表のデライエ刑事がいてくれてよかった。
三月はユーモアミステリ好きにはうれしいことにクイーム・マクドネル『幸運すぎて埋められる』(青木悦子訳/創元推理文庫)とジャナ・デリオン『アリゲーターには手を出すな』(島村浩子訳・創元推理文庫)が刊行。マクドネルの「○○すぎる」シリーズ(正式なシリーズ名は〈ダブリン三部作〉だけどなぜか四作目)はこれで一旦完結ということですが、それぞれに○○すぎるキャラクターの活躍と、広げまくった風呂敷を見事に畳んだ著者の手腕に唸りました。デリオンの〈ワニ町〉シリーズ第九弾は、町の象徴ワニの密猟をする輩が現れ、濡れ衣を着せられた罪のない住民とワニを守るために立ち上がるフォーチュンたち。いつもながらガーティの戦い方がユニークです。
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- 吉野仁
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『死の烙印』ジャン=クリストフ・グランジェ/高野優監訳、坂田雪子訳
ハヤカワ・ミステリ
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『死の烙印』は、ナチ政権下のベルリンを舞台に、〈大理石の男〉が悪夢の中から現実に飛び出し女性たちを襲って惨殺していくという、なんとも奇想天外な話で、精神科医、ゲシュタポ捜査官、女性院長の三人が、その真相をつきとめようとする。仮面をかぶった怪人の登場、怪しい医者と異常心理、ナチの暗躍と陰謀など、オモシロ要素がこれでもかと繰り出されるだけでなく、凝ったディテールで現実と虚構がないまぜとなり、翻弄されっぱなしの怪奇冒険スリラー大作に仕上がっている。子どもの頃に怪人二十面相の物語を夢中で読んだ興奮がさらにパワーアップして今また味わえるとは思いもしなかった。グランジェ恐るべし。冒頭からわくわくして読みすすめたといえば、まったくタイプは異なるものの、ジョー・キャラハン『瞬きすら許さない』もそんな一冊。警視正がAI捜査官とコンビを組んで未解決事件を捜査するのだが、このあらすじだけだと、何か現代風な題材を取り入れてみせたという安易な発想による陳腐な警察ものかと思うだろう。さにあらん。女性刑事キャットと人工知能ロックとのやりとりの描き方がじつに上手いのだ。噛み合わないキャラとドラマ展開の妙。本のページを自分でめくるというより、先がどうなるのか知りたくてページを次々とめくらされてる感じですっかり物語に没入してしまった。単なるAI活用じゃなく、ちゃんとバディ刑事ものの面白さを堪能できる。読み逃すなかれ。そしてこれがイギリス警察ミステリの最前線ならば、こちらはアメリカ警察ミステリの尖ったところにあるのかも、と思いながら読んだのが、オースマ・ゼハナト・カーン『黒い滝』で、舞台はコロラド州の田舎町ブラックウォーター・フォールズ。シリア移民イスラム教徒少女の死をめぐり、パキスタンとアフガニスタンをルーツにもつ女性刑事イナヤが困難にめげず捜査していく。彼女の同僚キャットがメキシコ系三世で、黒人女性弁護士アリーシャとも協力する一方で、白人至上主義の保安官が登場したり、福音派の復活教会牧師の名がジョン・ウェインだったりするのは、イナヤの男性上司とのロマンスめいた描き方も含め、逆にそれもまた偏ってるのではないかと思うものの、たしかにステレオタイプで語られる対立と分断の様相がいまのアメリカには、あからさまにあるのかもしれない。そして同じ著者名カーンといえば、『ペルシャ王女の棺』の書き手マハ・カーン・フィリップスは、パキスタン出身で現在ロンドンに住んでいる女性だ。こちらの舞台はパキスタン大都市カラチ。女性考古学者が意外な場所で発見された「ペルシャ王女」ミイラの謎と陰謀に巻き込まれるという話。ミイラおよび考古学といった題材やさまざまな事情をかかえたヒロインの活躍もさることながら、個人的にはカラチを舞台にしていたりパキスタンの現実が描かれたりしているあたりの興味だけでも読まずにおれない一作だった。何年か前からインド人やインド系の英米作家らがミステリ界で評判を呼んだものだが、こうしてパキスタン系およびパキスタン人の作家二作が同時期に邦訳されたのもおそらく偶然ではないのだろう。そして英米作家の猟奇連続殺人ものは、いまだ人気が衰えてないのか、マリー・ティアニー『夜が少女を探偵にする』、ジャクリーン・バブリッツ『連続殺人鬼の妻』、タリク・アシュカナーニ『真夜中の王』と三作も続けて読む。『夜が少女を探偵にする』は、十三歳の少女ヒロインがとても魅力的で、殺人を重ねる怪物の正体も含め、ちょっとファンタジーぽいヤングアダルト小説のような読み心地でもあり満足した。『連続殺人鬼の妻』もまたヒロインのニューヨークでの生活ぶり、そしてなにかに取り憑かれたように事件を追う彼女がすごく印象的で、それは登場するほかの人物にもいえるところだった。三作のなかでもっともダークなのが『真夜中の王』。俗悪ハードボイルド作家の父が亡くなったことで息子が故郷に戻ってきた。父の家で見つけたのは「真夜中の王」と題された原稿で、これまでの父の小説とはまったく異なる、殺人犯による告白の物語だった。小説内小説が挿入される一方、息子の友人の私立探偵が少女失踪事件を追うという何重にも闇に包まれたシリアル・キラーもので、おぞましいもの好きな人にお薦めしたい。逆にその手が苦手であれば、馬伯庸『長安のライチ』を読むしかない。楊貴妃のために好物のライチをはるばる長安まで届けねばならない、ミッション・インポッシブルな使命を帯びた主人公の奮闘を描いたもの。すぐに落語「千両みかん」を連想したものだが、なるほど白髪三千丈の国だけあって桁違いのスケールによる面白さだ。
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酒井貞道
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『死の烙印』ジャン=クリストフ・グランジェ/高野優監訳、坂田雪子訳
ハヤカワ・ミステリ
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フランスの大物グランジェの最高傑作にして、フランス人が事実上一人も登場しない作品である。ストーリーは大部分が1939年の第二次世界大戦の開戦直前から開戦直後にかけて展開され、残る僅かな部分も1943年と、相変わらずナチス政権下のドイツが舞台であることには変わりがない。ナチスはフィクションの世界では悪役として便利に扱われ、ナチスを出しておけば手っ取り早く絶対悪としての敵を設定することができた。政治の世界でも、政権を批判する人間が政権をあまりにも簡単にヒトラーやナチスになぞらえてきたし、その手の批判は頭が悪く見えてかえって悪手だと行為だと考える人も増えてきたように思う。要は、ナチスは軽く扱われてきた。しかし本当にそれで良いのか。あなたはナチスの何を知っているのか。悪役フリー素材ではない真のナチスは、言葉に尽くせないほど、実在すら疑いたくなるほどの邪悪と虚妄と偏見と暴力に満ちていたのではないか。フィクションであれば、その闇に目を凝らすのが本務ではないか。
この点を、『死の烙印』は極めてリアルな質感で掘り下げる。精神科医、ゲシュタポ捜査官、精神病院の女性院長。ナチス体制の「中の人」すら含む三人の主人公の日常を、邪悪と暴虐がじわじわ侵食し、ある一点を超えた後は一気に破壊する。それでもなお彼らの人生は続くのがリアルであり、恐ろしい。ベルリン在住の上流階級の女性を標的にした連続殺人事件は、地上で最も反映している大帝国の首都では「あってはならない」事件である。そして犯人は、ゲルマン民族以外の者に違いない。悪いのはゲルマン民族以外の者だ。或いは、頑健ではない者のせいだ。ナチスのこの、現実を見ない、思い込みとほぼ同等の思想によって歪んだ行動原理が、ありとあらゆるものを揺さぶり始める。そしてこれとは別に、(これもまた、単なる思い込みも同然の思想によってナチスが悪辣な手段で引き起こした)戦争も始まってしまう。上手いのは、連続殺人の捜査の進展と、ナチスの暴威のエスカレーションとが、物語の中でシンクロして一緒に物語を盛り上げている点である。そこに、主人公三者三葉の苦悩が露わになっていく。こう書くとずっと陰鬱に進む物語と誤解されそうだが、なぜかとても読みやすい。読者にずっとストレスを賭けるタイプの物語ではないので、そこは安心していただいて結構である。ただし、背景にナチスとその思想を肯定する絶対悪が、生々しく息づいているのは常に感じられる。その悪は、(主人公の一人であるゲシュタポ捜査官以外の)ナチス体制側の個々人にも容赦なく襲い掛かっている。
思えばグランジェは、社会や主人公の抱える闇を悍ましくも鮮やかに、痛烈に描いてきた。そして、よく考えれば、そんなグランジェがその特徴を最大に発揮できる舞台は、倫理や矜持が壊れた社会に他ならない。よって、ナチス・ドイツを舞台にした作品が彼の最高傑作となったのは、必然であったのかもしれない。素晴らしい。……と、レビューは終わっていられた。この作品が本国で刊行された2021年ならば。しかし、2026年4月時点でどうだろうか。我々は『死の烙印』を、フィクションだと笑って楽しむことができるだろうか。或いは、その資格はあるだろうか。ナチスと同等の邪悪、すなわち、自らの偏見を絶対視し、自らの欲望にのみ忠実で、自分が間違っているのではとの懐疑とは無縁にひたすら自己を肯定した上で、他者を認めず他者を否定し攻撃し排除し、その手法が下品になっても正義を気取り、取り繕うことすらしない邪悪は、今、ロシア、アメリカ、イスラエルを筆頭として、日本も含めて世界中で蔓延してはいないだろうか。この作品に巣食う邪悪は、間違いなく、今もまだ我々と共にある。『死と烙印』が力を失う日が来ることを私は願って止まないが、そんな日は絶対に来ないのだろう。だからこそ、小説好き、虚構好きの皆さんは、本書を読んで、楽しみ、省察してほしい。
杉江松恋
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『波の子どもたち』チョン・スユン/斎藤真理子訳
岩波書店
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長編なら『死の烙印』、短篇集なら『サプライズ・エンティングス』、いや『記銘師ディンの事件簿』も捨てがたいし、とあれこれ迷っているうちにふっと、そういえば先月これを挙げそこねた、というのを思い出してしまった。今月は秀作目白押しではあるが、今言及しておかないと機会を失ってしまいそうなので書く。発売日は2月10日で、かつ純粋なミステリーではないが、お許し願いたい。ミステリー・ファンの琴線にも触れる部分が必ずあるはずだ。
『波の子どもたち』の作者チョン・スユンは、日本の近代文学を多数韓国語に翻訳している作家で、スタンプブックスのレーベルで刊行されていることからもわかるように、ヤングアダルトに属する作品である。物語は三つの視点で進んでいく。語り手は二人の少女と一人の少年、みな年齢は十六歳に設定されている。北朝鮮で生まれ育った彼らが、川を渡ることからそれぞれの物語は始まる。北朝鮮から中国側に向けての脱出ルートにおいては、大きな川を渡らなければならないのである。立場はばらばらで、脱北に至る経緯にも違いがある。たとえばサッカー好きの少年ハン・クァンミンは、母に連れられて旅立つまで国から逃げることは考えてもいなかった。彼の母はひそかに脱北ブローカーとして働いていて、当局に疑いの目を向けられ始め、窮地に陥っていたのだ。
川を渡ることを選択した彼らが味わう苦難を描いた物語で、中には肉親に裏切られる者も出てくる。脱北者が接するのは決して親切な人ばかりではなく、騙そうとしてくる者も中にはいる。ヤングアダルト作品なので、目を背けたくなるような暴力は出てこないのだが、それでも絶望するしかない状況は描かれる。三人はその中でくじけることなく、自由を希求して駆け続けるのである。
本作執筆の前に作者は、百人もの脱北体験者に取材を行っており、その見聞が物語には活かされている。自由を制限し、国に従わせようとする権威主義者がはびこる時世であるだけに、こうした個人の闘いを描いた作品が多くの人に読まれることを望む。自由は求めなければ手に入れられないものであり、現実を直視することで自分の目的を見つけることができる。
SF・ファンタジー要素のある作品から近代史の一側面を描いた大作、名匠の短篇集と、今月もさまざまな作品が集まりました。どの作品から読んでも外れなしだと思います。来月もお楽しみに。(杉)
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