——その男の名はレスター・バラード。おそらくあなたによく似た神の子だ。

 

全国20カ所以上で開催されている翻訳ミステリー読書会。その主だったメンバーのなかでも特にミステリーの知識が浅い2人が、杉江松恋著『読み出したら止まらない! 海外ミステリー マストリード100』をテキストに、イチからミステリーを学びます。

「ああ、フーダニットね。もちろん知ってるよ、ブッダの弟子でしょ。手塚治虫のマンガで読んだもん」(名古屋読書会・加藤篁

「後期クイーン問題? やっぱフレディの死は大きいよね。マジ泣いちゃったなー。We will rock youuuu !!!」(札幌読書会・畠山志津佳

今さら聞けないあんなこと、知ってたつもりのこんなこと。ミステリーの奥深さと魅力を探求する旅にいざ出発!

 

加藤:いやあ、この週末は台風と選挙で大変でしたねー。うちの地元、豊橋市では祭も重なっていたから、もうめちゃくちゃ。「盆と正月が一緒に来たよう」という慣用句がありますが、そこに結婚記念日が加わったくらいのカオスっぷりでしたよ。一年に一度、予告なく突然やってくる結婚記念日。あれは何とかならないものでしょうかね。「今日は何の日か知ってる?」とかホントやめてほしい。心臓止まるから。ねえ、大木さん。

 いろいろ重なったといえば、早川書房さんのノーベル賞3冠はすごかったですね。たまたま見ていたお昼のワイドショーに早川社長が登場したときはドンペリ噴きそうになったもん(<どんなシチュエーションなのか)。
 それにしても、カズオ・イシグロって、日本人にこんなにも知られていなかったんですね。

 さてさて、杉江松恋著『海外ミステリー マストリード100』を順に取り上げる「必読!ミステリー塾」。今回のお題は、コーマック・マッカーシー『チャイルド・オブ・ゴッド』です。「つい最近読んだ」と記憶されている方も多いと思いますが、実はマッカーシーのキャリア初期、1973年の作品だったのですね。こんなお話。

家を失った27歳の小男レスター・バラードはひとり森に隠れ、廃屋で寝起きし、リスや鼠を食らうという寄る辺ない日常を送っていた。ある日、山中で若い男女の死体を見つけたレスターは女の死体を担いで持ち帰り一緒に暮らすことに。やがてその廃屋をも火事で失ったレスターは洞窟に居を移すが、その孤独と闇は次第に彼の世界の内側と外側、理性と狂気の境界を見失わせてゆくのだった……。

 コーマック・マッカーシーは1933年生まれのアメリカ人作家。現代アメリカの文壇を代表するビッグネームのひとりです。

 邦訳はすべて早川書房から黒原敏行さんの訳で出ていて、映画化された『血と暴力の国』(2005年・映画の邦題は《ノーカントリー》)は大ヒットし、アカデミー作品賞ほか4部門を受賞。『ザ・ロード』(2006年)ではピューリツァー賞に輝きました。
 日本でその名を一躍有名にしたのは『すべての美しい馬』(1992年)から始まる、いわゆる「国境三部作」でしたが、本作『チャイルド・オブ・ゴッド』はそれよりもさらに20年近くも前の作品です。

 マッカーシーは、常にノーベル文学賞候補に挙げられるアメリカ人作家の一人なのだそうですが、ブンガクとツーゾクの違いが分かったことのない僕としては、その境界線のこっちにいるマッカーシーと、あっちにいる例えばジム・トンプソンは何が違うのだろうとか、ちょっと考えたりもしちゃいます。
 ハードボイルドでいえば、ヘミングウェイとハメットの違いみたいな感じなのかな?

 とはいえ、マッカーシー作品、たとえば本作『チャイルド・オブ・ゴッド』が、いわゆる「ノワール小説」の枠にスッポリ入りきらない面倒な話だっていうのは、僕にもわかる。
 主人公のレスター・バラードはシリアル・キラーや偏狂者ではなく、ただただ社会からドロップアウトした、アメリカ南部によくいそうな貧乏白人のひとり。冒頭にでてくる通り「おそらくあなたによく似た神の子」であり、この話は、家族も仕事もなく教育を受ける機会もなかった、別の世界に生まれ落ちた我々の話なのかも知れません。

 そういえば、沖縄読書会に参加するって張り切っていた畠山さんは、どんな週末を過ごしたのかな?

 

畠山:え? 沖縄? なんのことかしら? アタクシ、週末は東京でシャレオツなパンケーキをいただいたり、専門店でお紅茶を嗜んだりしておりましたのよ、オッホッホ……。
 ううう、オッホホじゃないよ、まったく。台風で帰れなくなるかもしれないと思ってキャンセルしたんですよ、沖縄読書会。でも蓋を開けてみたら想定よりも飛行機はちゃんと飛んでいたんですよねぇ。なんなのよ、台風!
 ああやっぱり行けばよかった、なぜあそこでヒヨっちまったのかと己を責めつづけ、天に向かって神様のいぢわるー! アタシちゃんと本読んだのにぃぃ! と文句をたれていたのでありました。
 あの時、誰かが選挙演説で「責任をもって台風の進路をコントロールいたします!」なんて言ったら、思わず一票入れてたかもしれない(投票は落ち着いて行いましょう)。

 そんなわけで、この世に神も仏もあるものかといった気分の週末を過ごしましたが、さてそもそも神が誰かを見捨てるなんてことがあるのだろうか、そんなことを考えてしまったのが、今月のお題『チャイルド・オブ・ゴッド』です。
 これはどこにも属さない、どこの人でもない、人としての原理原則を完全に逸脱してしまったある男のお話。その行動はまるで獣。殺人、とりわけ屍姦のシーンは目を背けたくなります。だけれども、冒頭で彼について説明する「おそらくあなたによく似た神の子だ」という一文が、悪臭を放つレスター・バラードと読者を見えない鎖で縛りつけて、彼を突き放すことができなくなる……まるで呪いの一文なのです。

 住む家を失い、周囲から孤立し、やがて山中や洞窟で死体とともに暮らすようになるバラードだけが特別なわけでないのが、これまた怖い。廃品処理屋とその娘たちのありさまや、知的障害のある幼児をほぼ養育放棄している家庭のエピソードは、バラードのそれと変わりないくらいえげつない。だけれども彼らもまた神の子なんだと思うと、自分の道徳の観念がとても揺らいできます。
 しかも、ちょうどこの本を読んでいる時に起こったのがラスベガスの銃乱射事件。理不尽な死を迎えなければならなかった人も神の子なら、犯人もまた神の子なのか……!? と思うと、もう何もかもわからなくなります。

 前回、海外ミステリが世界のさまざまなことを知るきっかけになったという話をしましたが、もう一つ大きいのが、宗教観ですね。特にこの「神」の概念。正直、今でもその辺のことは大した知識もなくて混沌としているのですが、小説を通して世界にはさまざまな価値観、倫理観があるのだということを学ぶと同時に、人として「こうありたい」と思うものは全世界共通しているのだとも感じる。ほとんど海外に行ったことのない私が、多様性と「人類みな兄弟」な考えは両立するんだ、とスルっと呑み込めたのは、海外小説のおかげかな。
 まぁ、なんか食べ物がくっついてくれば大概の世界の宗教と民族行事を受け入れる日本人の感覚のほうが、世界の中では高度な理解力を必要とするのかもしれないですね(笑)
 あ、そういえば加藤さん、神輿かついで足を挫いたんだって?

 

加藤:そうなんですよ、茂と猛。これからマラソンシーズンが始まるってタイミングでの捻挫は、文字どおり痛かった。
 聞こえたもん、ピシって音が。『巨人の星』の最終回で飛雄馬が聞いたあの音が。まったくヤキが回ったものです。もう神輿も引退かな。

『チャイルド・オブ・ゴッド』の主人公レスター・バラードも、どこかで聞いたのかも知れませんね、この何かが切れる音を。
 住む場所を失い、頼れる身内もなく、友人もいない。もとより教養も金もなく、将来も世間体も何も気にかけるものがなくなったとき、人はどこまで正気を保つもとができるのか。社会的存在でありえるのか。
 自分を縛るものが何もない自由と孤独の中で、人は何とどう向き合うのか。この作品はそれを問うているのかも知れません。
 そして、その荒涼たる世界が、黒原敏行さんの端正な訳文にピタッとくる。それは、カラカラに乾いてどこまでも澄み渡った、果てしない荒野を連想させます。もう本当に素晴らしい。

 これを書いていてつくづく思ったのが、この手の話の魅力を語ることの難しさです。おそらくマッカーシーは、人間の暗い部分を切り取った残虐な話で読者をビビらせたかったわけではなく、特殊な人の特殊な生き方というファンタジーを書きたかったわけでもない。といっても社会に問題を提起しているわけでもない気がする。この複雑で深い味わいはきっと、読んだ人にしか分からないし、受け取り方も人それぞれなのではないでしょうか。

 ツイッターでは、カズオ・イシグロのブレイクでひと山当てた早川書房さんに、「今こそ、途中でストップしたあのシリーズの翻訳再開を」とか、「絶版になっているあの名作の復刊を」とかいう便乗のお願いが溢れかえっていたけど、よくよく考えたら、いま急いで出さなきゃいけないのは、コーマック・マッカーシーなんじゃない?
 早川書房さんは来年のノーベル文学賞に備えて、マッカーシーの未訳作をぜひ出していただきたい。黒原さんが訳者あとがきで「名作」と書いている『Suttree』とかね。ついでにロス・トーマスとペレケーノスの未訳作を出してくれてもいいのですよ?

畠山:そうそう、復刊といえば早川さん、マッカーシーの『血と暴力の国』をヨロシク! 冒頭で加藤さんが紹介してくれましたが、アカデミー賞をとった映画《ノーカントリー》の原作が読めないのは、実に悲しいですよ。
 映画のストーリー自体は追いやすいけど、保安官役のトミー・リー・ジョーンズの独白なんかはけっこう難解だと思うのです。こういう時にはやはり原作にあたりたいじゃないですか。というわけでぜひ頼みます。以上、早川さんにお願い、のコーナーでした。

《ノーカントリー》はホントに面白かったですね。殺し屋を演じたハビエル・バルデムがマジで怖い。あの映画を観た後は、酸素ボンベとか消火器とかの形態がちょっと苦手になったもんです。
 あの殺し屋も、組織にやとわれているようでいて実は「どこにも属さない」、まるでモンスターのような脅威を振りまく人物ですが、ラストではそんな彼でさえ運命からは逃れらないことが示唆され、ああやっぱり等しく神の子なのだろうかと思ってしまう。『チャイルド・オブ・ゴッド』を読んだ後では特に。
 それにしてもトミー・リー・ジョーンズは、どんな映画に出ていても今にもBOSSを飲むんじゃないかと気が気じゃないので、仕事選んでください、とひとこと言いたい。

 もう一人、《ノーカントリー》の主要人物に、ひょんなことから(というか金にスケベ心を抱いたせいで)殺し屋に追われるはめになるモスという男がいますが、彼の暮らしぶりも興味深いんです。時代遅れのカウボーイといったところで、奥さんのファッションからみる時代感とかなりズレた感じがするし、空港のような比較的都会的な場所に立つとめっちゃ場ちがい。ベトナム帰還兵ということもあると思いますが、現在進行形の世界に取り残された印象を受けます。

 この「場違い」さと、やっぱり「どこにも属さ(せ)ない」感じとが、なんとも瑞々しく美しく描かれているのが、『すべての美しい馬』。恥ずかしながらこの本は、長年我が家の本棚に栄養を送り続けていたもんで、この機会にようやく読んだわけです。
 家を失った16歳の少年が、友人とともに馬に乗ってテキサスからメキシコへと越境し、牧童として生活するも、やがて大変な事態に巻き込まれていきます。こんな16歳いるかよ! と思うけど、いるんだなぁ、これが。主人公が馬とともに歩んでいくその風景はどこまでも美しく、その姿はどこまでも孤独。レスター・バラードとは似ても似つかないのに、なぜかどこか地続きであるようにも思えて、コーマック・マッカーシー、こりゃ全作必読だわ~、と深くうなだれたのでありました。
 次に読むならやっぱり『ザ・ロード』かな、いや『ブラッド・メリディアン』も面白そうだし、国境三部作を無視するわけにもいかん……と超お悩みの私を筆頭とするマッカーシー初心者には、訳者の黒原敏行さんが当サイトで素敵なガイドをして下さっていますので、ご一読を。☞ ■初心者のためのコーマック・マッカーシー

 いやまったくね、こいつを読まなきゃ人生損ってもんだぜ、相棒。いつかそのナントカっていうすごい賞を取るかもしれねぇしな。そんときゃ俺はサラリと言うね、ああマッカーシーなら全部読んだよ、肝っ玉が潰れるくれぇ面白いから、オマエも読んだがいいさ、メリー・ジェーン、てね。

■勧進元・杉江松恋からひとこと

 ミステリーという小説ジャンルは独立して存在するわけではありません。常に周辺領域の成果を吸収し、またはその定型が他のジャンル小説や一般小説に流用され、相互に影響を与え合って発展してきました。現在の主流文学作家にも、ミステリーと見なせる作品を多く発表している人物は多数います。たとえばアメリカのジョイス・キャロル・オーツ。またはイギリスのギルバート・アデア。彼らがミステリー作家と呼ばれることはほぼありませんが、その作品にはジャンルの境界内に含まれるものが存在します。

 そうした作家の代表格としてコーマック・マッカーシーを選びました。マッカーシーは少年期にアパラチア山脈のヒルビリーと呼ばれる貧困層の白人に強い関心を持ち、初期作品の『チャイルド・オブ・ゴッド』ではそうした人々の共同体で起きた事件を描きました。それに続く『ブラッド・メリディアン』や〈国境〉三部作などの作品では、アメリカとメキシコの国境地帯を舞台に選んでいます。国家や共同体の中央では秩序が整然と成立していても、周縁部では失われ、混沌が広がっていることがあります。そうした無秩序や無政府状態についての興味がマッカーシーに創作意欲を与えました。こうした主題は、犯罪小説が好んで取り上げるものでもあります。原作となった長篇『血と暴力の国』や『悪の法則』の脚本などの犯罪映画との関わりも、こうした傾向の延長線にあるものでしょう。読者や観客は、マッカーシーの描く世界の背後に広がるもの、自分たちの拠って立つ世界の影になっている部分を見るのです。

 さて、次回はジョン・ル=カレ『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』ですね。これも楽しみにしております。

 

加藤 篁(かとう たかむら)

愛知県豊橋市在住、ハードボイルドと歴史小説を愛する会社員。手筒花火がライフワークで、近頃ランニングにハマり読書時間は減る一方。津軽海峡を越えたことはまだない。twitterアカウントは @tkmr_kato

畠山志津佳(はたけやま しづか)

札幌読書会の世話人。生まれも育ちも北海道。経験した最低気温は-27℃(くらい)。D・フランシス愛はもはや信仰に近く、漢字2文字で萌えられるのが特技(!?)twitterアカウントは @shizuka_lat43N

 

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