「今の翻訳ミステリー大賞シンジケートは、過去の名作についての言及が少ない!」ーーそんなことをお思いの方はいらっしゃいませんか?

そういう方向けの連載が今回から月イチで始まります。犯罪小説が大好きでしかたがないという小野家由佳氏が、偏愛する作家・作品について思いの丈をぶつけるコラムです。どうぞご期待ください。(事務局・杉江) 

 

 ドナルド・E・ウェストレイクの小説に登場する悪党たちが、好きです。
 ドートマンダーと愉快な仲間たち、悪党パーカー一味といったシリーズキャラクターは勿論、『踊る黄金像』(1976)や『空中楼閣を盗め!』(1980)に登場したようなギャング御一行も、『聖なる怪物』(1989)『斧』(1997)あたりの殺人鬼も、『殺しあい』(1961)『二役は大変!』(1975)の主人公みたいな空回り系も、どんな性格のどんな犯罪者であろうと、ウェストレイク作品の登場人物なら、みんながみんな愛おしい。
 ただ単にキャラクターが立っているというだけではなく、どいつもこいつも、人間臭いんですよね。文章に書かれている以上の何かを持っていて、そこがたまらなくグッとくる。
 ウェストレイクはエッセイでパーカーやドートマンダーのことをまるで友人のように語っていたりしますが、それを読むと「彼らは作者の中に一つの人格として、人生を持って存在しているのだろうな」と納得させられます。そして、その人格をそのまま小説に自然に落とし込んでいるのだろうな、と。
 『バッド・ニュース』(2001)だったと思います。ハッとさせられるシーンがありました。
 ドートマンダーが、素人の立ててきたプランに反論を返す場面です。
 失礼ながら、それを読むまで、僕はドートマンダーに対してやっぱりちょっと抜けている道化役、というイメージばかり持っていました。ですから、ドートマンダーのもとに持ち込まれた依頼主の計画(これがなんと墓荒らしの計画!)についても一読して、特に疑問は抱きませんでした。「このままこの話にノっちゃっていいんじゃない?」と納得さえしてしまいました。
 けれど、ドートマンダーは「それは上手くいかないだろう」と首を振るのです。そして、実際に行うにはあれが足りないこれはできないと指摘を重ねていく。ついでに依頼主達の言ってることはこの部分で辻褄があっておらず信頼できない……反論を連ねていく彼の台詞はびっくりするくらい論理的でその様子を見て、印象を強く改めたのです。
 彼はやはり天才的な犯罪プランナーであり、プロフェッショナルなのだと。ウェストレイクは基本的に彼や仲間たちに視点を置いて、その視点で自然に描くから、彼らがしていたプロとして当たり前のことというのをこちらは余り意識していなかっただけなのだ、と。振り返ってみれば、確かにドートマンダー達は普通の小悪党だったら絶対にしてしまう凡ミスはしていないし、当然のこと故に意識すらしていないのです(その上で、それでも何故か失敗してしまう、というのがこのシリーズの可笑しさなのですが)。「ドートマンダー達はプロフェッショナルだ。そんなミスするか? するわけがない」と作者はあえて書いていなかったのです。
 こうした自然さは、一人の人間として彼らのことを見ているからこそ出てくるもので、それ故にウェストレイクのキャラクターには実在感があるのでしょう。
 『警官ギャング』(1972)の主人公である二人の警官、トムとジョーも、あたかも本当にそこにいるような、読んでいてそんな気分になってくる素敵な悪党でした。

   *
 
 お互いに家族と家を持ち、日々の勤務に勤しんでいた、親友同士の中年警官、トムとジョー。うんざりするような暑さの夏季のニューヨークで、そんな二人のいつもの会話に、あるアイディアが現れた。警官の地位を利用して、強盗を行わないか――最初は冗談だったその計画は、段々と現実味を帯びていき、やがて……というのが粗筋。
 まず目を引くのはタイトルの通り、警官でありながらギャング、犯罪者であるという主人公らの立場でしょう。
 警官の制服だったら、どこをどううろついていても誰も不審に思わない。それどころか、犯行に及んだ後でさえ、警官に変装した誰かが襲ってきたのだと被害者は証言するだろう。署の倉庫から持ち出せば犯行に必要な道具も使い放題だし、パトカーならいつでもどこでも通行や駐車までできる。警官ほど強盗に向いている職業はない、というこの概要からしてなんとも皮肉で秀逸です。
 これをウェストレイクのコミカルな筆致で描いてくれるなら、それだけで最高だ……と言いたいところですが、実は本書はそのあたり、ちょっと違います。今回、ウェストレイクはこの話をスラップスティックでユーモラスなドタバタ劇にするのではなく、トムとジョーの心理描写に焦点を当てた、ちょっとシリアスな雰囲気で書いているんですね。
 訳者あとがき曰く『ホット・ロック』(1970)を書いたあと、ウェストレイクはただのユーモラスな犯罪小説はもう書かないと宣言をしていて、本書はその方針転換の第一球として書かれたとのことなのです。
 そう言われてウェストレイクの著作一覧を見直してみると成る程、『ホット・ロック』の系列に連なるコミカルな作品も沢山書かれていますが、それとは別にリチャード・スターク名義や『殺しあい』などの初期作とはまた違ったシリアス風味な作品がこの後には増えているようで、本書はそうした方向へ作風の幅を広げる為の第一歩だったということなのでしょう。相当の意欲作だったであろうことが伺えます。
 喜ばしいことに、その挑戦は見事に成功しています。
 ウェストレイクは先に述べたようにドートマンダーやパーカーのようなプロフェッショナルな悪党を描くのが抜群に巧いのですが、それと同じくらい、悪党になりかけのアマチュアを描くのが巧い作家でもあります。
 本書のトムとジョーの描きっぷりは、その白眉、と断言してしまって良いくらい素晴らしい。
 日々の勤務の中、周囲に理不尽なことを言われたことによって生まれたり、それとはまた別に自省の中から湧き出たりした、様々な鬱憤が段々と一つの方向へとまとまっていく。けれども結局は善人の警官だから、本来はその領域からはみ出さない筈だった。しかし、なまじ理解者である相棒がいたがために二人はいつの間にか、引き返せないところまで踏み込んでしまう。
 犯行をするから仲間を集めるプロフェッショナルの計画とは真逆の、仲間がいるから犯行をするというアマチュアの計画がゆっくりと進行していく様子は思わず引き込まれてしまう濃厚さで、こちらを退屈させることがありません。
 リアリティのないキャラクターを自然に書ける人が、読者に近い性格や属性の、リアリティのあるキャラクターを書こうとしているわけですから、感情移入のラインも申し分ない。二人の日常のちょっとした感情や動作は、いちいちキュートで読んでいてどんどん好きになってしまいます。トムが計画のために、今は着ていない昔の制服を引っ張り出してきた時の家族とのやり取りの辺りなんて、読んでいて涙ぐんでしまうくらいに印象的でした。
 また、先にシリアスと言いましたが、別に真面目一辺倒というわけではなく、警官がギャングにというアイディアに現れているような突飛さや少し意地悪な皮肉の効いた人物描写、テンポの良い会話など、ウェストレイク一流のニヤリとできるユーモアも健在です。
 そういうわけですから、読んでいて面白くて仕方がない。
 〈動〉の印象が強いウェストレイクですが、〈静〉の描き方も抜群なんです。
 その上、本書には、〈動〉もある。中盤過ぎ、トムとジョーの計画が実行されたところから、彼らが性質の悪い冗談を言う警官から本当の悪党になってしまった瞬間から(実は片方はここに至るまでで既に罪を犯しているのですが、ここはあえてそう言いたい)、物語が一気に加速するのです。
 「これぞウェストレイクらしいケイパー小説!」と叫びたくなる大胆な犯行、その最中で起こるアマチュアならではの失敗、強盗が終わってもまだ終わらない計画……始まるまでの積み重ねがあったからこその大爆発は、盛り上げ方の勘所を分かっているウェストレイクだからこその切れ味で、巻を措く能わずという他ない吸引力!
 勿論、トムとジョーの繰り出す犯行のアイディアは、ただ意外というだけではなく、警官という立場の二人だからこそ考えられたもので、かつ、心底の悪党ではない彼らだからこそ見落としてしまっていた失敗のタネがある、というものです。
 この物語は何処にオチるのか。トムとジョーはどうなってしまうのか。
 読んでいる間、何度も「そうくるか!」と膝を打ち、何度も「ああ、それはいけない!」と拳を握ってしまう。そんな読書でした。
 
   *
 
 くどいようですが、最後にもう一度言わせてください。
 ドナルド・E・ウェストレイクの小説に登場する悪党たちが、好きです。
 そして、そんな悪党たちをそれぞれに合った最高の舞台で活き活きと動かすことができる、ドナルド・E・ウェストレイクという作家が、僕は本当に大好きです。

 

◆乱読クライム・ノヴェル バックナンバー◆

 

小野家由佳(おのいえ ゆか)
ミステリーを読む社会人二年生。本格ミステリとハードボイルドとクライムコメディが特に好きです。Twitterアカウントは@timebombbaby