こんにちは。

 東江一紀さんの『ねみみにみみず』を毎日少しずつ大切に読んでいます。翻訳者の自主懲役生活について自虐ネタ満載で綴るワーカホリックな東江さんのエッセイを読むと、自分はまだまだなあと思うとともに、翻訳という仕事のおもしろさにあらためて気づかされます。そして、一行ごとに笑わせてくる攻めの笑いにタジタジとなります。ふだんから息をするように人を笑わせていないと、あの名調子は生まれないでしょう。ちなみに、東江さんにとってのパチンコと競馬にあたるのは、わたしの場合宝塚。むしろ仕事がはかどることの方が多いので、自主懲役中でも宝塚観劇は欠かせません。われながら苦しい言い訳……ちなみにその2:東江さんのエッセイを「翻訳の世界」で読んでいたころ、同雑誌の翻訳教室的な連載(いくつもあった)に、素人だったわたしはよく訳文を投稿していたものでした。翻訳学校に通うまえのことです。懐かしい。

 五月の読書日記はなかなかバラエティに富んだラインナップになりました。ほとんどが本サイトを参考にして選んだ本です。

 

■5月×日

 親が年をとると、訪問看護師と接する機会も多くなる。そういう視点からも、マシュー・ディックスの『マイロ・スレイドにうってつけの秘密』はとてもおもしろかった。

 訪問看護師のマイロは、公園でビデオカメラとテープのはいったナイロン製の鞄を発見する。テープには若い女性が自分の秘密を告白する映像が録画されていた。自分も大きな秘密を抱えたまま生きているマイロは、女性に奇妙な共感を覚え、彼女のためにあることをしようと決意する。

 最初はマイロの不思議な行動と思考にちょっといらいらさせられ、事情がわかるにつれ、彼を縛る〝要求〟というのが病気なのかストレスなのか単なる思い込みなのか気になってきて、やがてなんとしてもマイロに幸せになってほしいと思いはじめる……『マイロ・スレイドにうってつけの秘密』を読むと、だいたいこのような経過をたどることになるのではないだろうか。

 子供のころ、白線の上をずっと歩けたらいいことがある(もしくは、線から出たら死ぬ)とか、横断歩道をわたりきるまで息を止めていられたら(以下略)とか、そういうへんな自分縛りってありませんでした? マイロの場合、大人になってもそれがずーっとつづいているという感じがするんだけど、ちがうんだろうか。ボウリングでストライクを出すとか、カラオケで歌うとか、未開封のジャムの瓶を開けるとか、どれもやればストレス解消になりそうなことばかりだけど、そういうわけでもないんだよね。やらなければつらい、やれば楽になるのだから、やはり強迫神経症なのかしら。

 マイロ以外にもたくさんの変わった人たちが登場し、人と同じでなければいけないと思うほうがまちがっているのだ、と素直に思えるようになる。あと、いけ好かないマイロの妻クリスティンに対し、ラスト付近である人物が擁護する発言をするのがすごくフェアで好感を持った。

 マシュー・ディックスといえば、やけに几帳面な泥棒の話があったよね……あ、まんま『泥棒は几帳面であるべし』か。泥棒にはいられたことを絶対に気づかれてはいけないというあの泥棒ポリシーは、今回のマイロのメンタリティーとどこかかぶっているような気もする。著者もこだわりの強い人なのかしら。マイロは思いっきり行き当たりばったりで、全然几帳面じゃないけど。

 それにしても、カラオケでネーナの〈ロックバルーンは99〉ドイツ語バージョンを歌うマイロが好きすぎる……読んでいるあいだずっと頭のなかであの曲がぐるぐるしてた。リアルタイムで知ってた曲なんで(わたしもドイツ語バージョンのほうが好き)。

 

■5月×日

 本サイトの不定期連載「K文学をあなたに〜韓国ジャンル小説ノススメ〜」第4回で藤原友代さんが紹介していたキム・ジュンヒョクの『ゾンビたち』がどうしても気になって、正直スプラッター系はあまり得意ではないのだが、〝グロ度低め設定〟ということなので読んでみた。

 通信会社で電波チェックの仕事をしていた僕ことチェ・ジフンは、無電波地帯であるコリオ村の存在を知り、ひょんなことからその村に住む女性翻訳家ホン・へジョンと知り合う。ホン・へジョンの口ききでコリオ村にほど近い家に住みはじめた僕は、村で何か恐ろしいことが起こっていることに気づく。

 いきなり異世界にいる感じはどこか『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』風、村が謎の基準によって統治されている不気味さは『パインズ—美しい地獄—』風、ある日突然村が外界から遮断されてしまうところはちょっと『アンダー・ザ・ドーム』風。最初にゾンビに遭遇するシーンはちょっと怖いけど、だんだんと切なくなってくる不思議。たしかに普通のゾンビ小説とはちがいます。

 登場人物はひじょうに少ないのに、全員がなんとも個性的で、みんながいい具合に物語を引っ掻き回してくれるので、すごくわくわくするし、こう言ったら変かもしれないけど実に効率的。主人公である若くして家族全員を失った孤独な青年チェ・ジフンは、さまざまな面を持つ複雑なキャラクターなのだが、その言動はどれもしごく納得がいくものばかりで、読んでいてとても心地よく寄り添えた。オタクで甘えん坊のデブデブ130、飄々としたつかみどころのないホン・へジョン、頑固だけど男前なイアン姐さん、謎の実力者ケゲルなど、全員に味があり、彼らの会話のどこかオフビートな感じがすごくいい。あと、本筋にはあんまり関係ないけど〈イヴ&ローク〉シリーズのオートシェフみたいなものも出てきます。

 母の死、兄の死、その兄が残したレコード、そのレコードに導かれて出会った人びと、コリオ村、悲しいゾンビたち。そしてそのゾンビたちのなかに死にゆく母が残した思いを見る「僕」。「僕にとって人生というものは、一本の線だった。(中略)ドミノが次のドミノを倒していくように、すべてはつながっていた」。それは「僕」にとってつねに死が身近な存在だったからかもしれない。

 何百ものゾンビに追われながらチェ・ジフンは思う。「俺のこと、見失うんじゃないぞ。俺の手を離すなよ」。この刹那的なゾンビ愛。状況的に絶望と恐怖の淵にいるはずなのに、前向きなエネルギーやすがすがしさを感じてしまうラストにただただ驚愕。

 

■5月×日

 今年のコンベンションのイチ推し本バトルで紹介され、気になっていたハーラン・コーベンの『偽りの銃弾』。コーベンのノンシリーズのサスペンスはどれを読んでもすごくよくできていて感心してしまうが、本書も例外ではない。

 イラクへの派遣経験もある元特殊部隊ヘリパイロットのマヤは、何者かに夫を射殺され、二歳の娘をひとりで育てている。ある日、ベビーシッターを監視するために自宅に隠しカメラを設置したところ、死んだはずの夫が写っていた。夫は生きているのか? それともこれは何かの罠? あるいはPTSDによる幻覚? 夫の死を調査する警察や、裕福な夫の家族(自宅敷地にサッカー場があるジョーの実家……どんだけ金持ちなんだ!)に何やらキナ臭いものを感じたマヤは、独自に調査しようとする。

「疑念の多層レイヤー的サスペンス」とは、解説の堂場瞬一さんもうまいことを言うなあ。 夫の死の疑惑、姉クレアが死んだ理由、イラクでマヤに何があったのか、内部告発サイトの創設者がマヤにこだわる理由など、魅力的な謎がどんどん提示されて、物語を複雑にしていくのだが、これでもかというほど広げた風呂敷をたたむ手際の見事さ、そしてそれを読む快感といったらない。そこで生きてくるのが、マヤがつねに念頭に置いている〝絶対にありえないことを除外して残ったものこそ、それがどんなにありそうにないことでも、真実にちがいない〟というシャーロック・ホームズのことばやオッカムの剃刀の理論だ。ミステリの基本に立ち返って、あんなに複雑そうに思えたものが実に単純に解き明かされる不思議。それが読後の爽快感につながっているのかもしれない。

 スペックの高いヒロインや家族の秘密、怒涛のストーリー展開やサスペンス具合はなんとなくカリン・スローターを思わせる。ジュリア・ロバーツ製作・主演で映画化も進行中とのことで、こちらも楽しみ。

 原題のFool Me Onceは〝Fool me once, shame on you. Fool me twice, shame on me〟とつづくことわざ。「一度目はだますほうが悪い。二度目はだまされるほうが悪い。」たしかにそうかもしれないけど、ミステリはだまされるのが至福。悪いと言われても、何度でもだまされたい。そんな読者も満足すること請け合いの作品です。

 

■5月×日

『折りたたみ北京』は『紙の動物園』などで知られるケン・リュウが英訳し、セレクトした現代中国SFアンソロジー。ケン・リュウが執筆しているのは序文のみで、収録作品は陳楸帆(チェン・チウファン)の「鼠年」「麗江(リージャン)の魚」「沙嘴(シャーズイ)の花」、夏笳(シア・ジア)の「百鬼夜行街」「童童(トントン)の夏」「龍馬夜行」、馬伯庸(マー・ボーヨン)の「沈黙都市」、郝景芳(ハオ・ジンファン)の「見えない惑星」「折りたたみ北京」、糖匪(タン・フェイ)の「コールガール」、程婧波の(チョン・ジンボー)「蛍火の墓」、劉慈欣(リウ・ツーシン)の「円」「神様の介護係」。巻末にエッセイ三本(劉慈欣、陳楸帆、夏笳)も。みんな微妙にタイプのちがうSFで、どれもすごくおもしろかった。これも本サイトで松崎有理さんの「近くて遠い中国はこんなにもエンタメだった」を読んで、ぜひ読まねばと思った本だ。

 会いたい時間と場所を書いて犬の首輪にはさむという、犬を使ったやけにのどかな通信(「麗江の魚」)は、一周まわって逆に斬新だし、高齢者自身が操作する介護ロボットや、入院中のおじいちゃんの容体がわかるクマのぬいぐるみ(いずれも「童童の夏」)などはすごく実用的で、ぜひ早急に開発してもらいたいガジェットだ。秦の始皇帝の時代の巨大計算機(「円」)や、人口の増加に対応する折りたためる都市(「折りたたみ北京」)という発想は、切実だからこそぶっ飛んでいて、なんだか底知れない力を感じさせる。やっぱり中国パワーってすごい。想像を絶する世界なのに、読んでいて意外にすんなり頭のなかに思い描けるのが不思議。どの作品も描写が魅力的だからだろうか。

 オーウェルの『1984』へのオマージュだという「沈黙都市」も強く印象に残った。人々がウェブに支配され、ことばを話すことはおろか考えることすら規制されているディストピアの物語で、ことばの持つ力にあらためて気づかされる。現代中国のきびしいネット規制の行き着く先にも思えて、読んでいて怖かった。

 専門家ではないのであくまでもイメージだが、ガチなSFというよりファンタジーという感じ。独特な世界観がすてきな作品ばかりで、ほとんどが八〇年代生まれの若い作家によるものというのも新鮮。どの作家ももっと読んでみたいと思った。ほんとうに全部おもしろくて正直びっくりしたが、いちばん好きなのは、おじいちゃんと孫の交流が微笑ましくも切ない「童童の夏休み」。涙なしには読めません。

 

上條ひろみ(かみじょう ひろみ)
英米文学翻訳者。おもな訳書にフルーク〈お菓子探偵ハンナ〉シリーズ、サンズ〈新ハイランド〉シリーズ、バックレイ〈秘密のお料理代行〉シリーズなど。趣味は読書と宝塚観劇。最新訳書はカレン・マキナニーの《ママ探偵の事件簿》シリーズ第一弾『ママ、探偵はじめます』

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