「パニック」(Panic)という言葉は、森に棲む半人半獣の牧神(Pan)に由来するということをマクロイの新刊で初めて知った。古代ギリシャ人は、動物や家畜の突然の暴走は、牧神がそそのかしたものと考え、ここから理由のない混乱や恐怖を「パニック」と称するようになったのだという。
 

■ヘレン・マクロイ『牧神の影』■


 マクロイ再評価が進んだことにより、新訳の刊行も相次ぎ、ウィリング博士物もあと一編に迫っているが、『牧神の影』(1944/原題Panic) は、これまであまり訳されなかったノンシリーズ物。海外諸家がノンシリーズ物の最高作として評価しており、翻訳の待たれていた一作だ。
 本書では、若い娘をヒロインとした謎解きベースのサスペンスと暗号の謎というやや奇妙ともいえる組み合わせが行われている。
 
 主人公アリスンの伯父であるギリシャ文学の元教授が急死する。死因は心臓発作とされたが、翌朝訪れた陸軍情報部の大佐は、伯父が軍のために戦地用暗号を開発していたという。その後、アリスンはニューヨークを離れ、人里離れた山中のコテージで老犬アルゴスを友として一人暮らしを始めるが、アリスンの周囲で次々に怪しい出来事が発生する……。
 
 山中に暮らすアリスンに忍び寄る不審な影と彼女の恐怖の描き方が圧巻である。
 森の奥から何者かが見つめているような感覚。続いて、森林地での不合理の恐怖に関する文献の引用。コテージ周辺のカサコソという音。周辺をうろつく影が存在することは明らかだが、その存在は見ることができない。翌日、以前の居住者が発狂したことを知らされ、近隣に住む気色の悪い男のような女と遭遇。伯父の衒学的な著書から、半身半獣の牧神パンが恐怖を司る神であり、相対することは死をもたらすことを知ったアリスンは、最初の夜と同様、不審な音を聞きつけ……。
 知的で感受性の強いアリスンを狙い撃ちするように、知識と空想と現実で織り上げられた恐怖が彼女を包み込み、ついに雷鳴の中で、最初のカタストロフに遭遇する。マクロイのもたらすサスペンスが知的に構築されたものであることをよく示している進行である。
 知人らからは、アリスンの精神的不安定を警察に告発しようとする動きも表面化する。アリスンは困難な状況の中で、自らの手で平穏をかちとらなければならない。
 全編にみなぎる恐怖の影は、牧神という存在に由来する。牧神は、半人半獣、人と獣の境界に位置し、ある意味では、人間が退化した存在ともいえる。牧神のもたらすパニックは人を獣と同列にしてしまう。アリスンは半人半獣の少年像の二つに割れた蹄にぞっとする。
 犯人は、人間と獣の境界を超えた存在のように描かれる。すべてが合理的に解明された後も、犯人像を含めて物語の不穏さが消えないのも、本書が、人が獣になるという根源的恐怖を背景にしているからではないだろうか。そうした点で、人里離れた山中での不可能犯罪を扱った『割れたひづめ』(1968)と共通のモチーフも感じさせもする。
 戦時下のマクロイの作品は皆そうだが、真珠湾攻撃以降を舞台にした本書においては、ことのほか二次大戦が大きな影を落としている。暗号は戦地用として開発され、若者は従軍し、片田舎にも「超アメリカ連盟」といった物騒な組織が存在する。戦争の影は、牧神のもたらす恐怖と無縁でないだろう。
 
 そうそう、本書は暗号小説でもあった。海外本格ミステリでここまで全編暗号に拘泥したものは、ほかにあまり見当たらないのではないだろうか。本書で用いられる暗号は、戦地用暗号というもので、ポオ「黄金虫」などより遥かに技術的に進んだ暗号だ(この辺の理解には、訳者解説が大変に役立つ)。作中の暗号専門家が解くことができないとした暗号にアリスンは挑むことになる。所詮、英語であり、手法も難解で、暗号解読は我々には無縁と思っている読者も、暗号解読の鍵となるアイデアには感心するだろう。その鍵にたどり着くために盛られた手がかりの創意はマクロイの作品の中でも最上級のものだ。
 ただ、サスペンスと暗号小説の部分がしっくり噛み合っているかというと、暗号部分がサスペンスの進行を妨げている感もないではないし、「牧神」のモチーフへの貢献も少ない。
 ともあれ、謎解きを核とした不穏なサスペンスとして一級品、暗号小説としては最高峰という異形の秀作が、またしても我々のマクロイ棚に加わったというべきだろう。
 なお、訳文において、「○○とでも」という疑問形が男女問わず多発されるのは、やや違和感があったので一言付け加えておく。
 

■フレデリック・ノット『ダイヤルMを廻せ!』■


 ヒッチコック監督作品としてあまりも有名な映画の原作戯曲の初の刊行である。
 作者フレデリック・ノットは、英国の劇作家・シナリオライターで、ほかに、これもテレンス・ヤング監督の映画で有名な『暗くなるまで待って』などの戯曲などがある。
『ダイヤルMを廻せ!』は1953年に刊行されたノットの最初の戯曲であり、演劇作品は英米で大当たりをとって、ヒッチコックによる映画化につながっている。頁数でいうと150頁程度。三幕で構成されている舞台は、主人公夫妻の住居を出ることはない。
 
 ロンドンのフラットに暮らすウェンディス夫妻。妻マーゴがアメリカの脚本家マックスと不倫に走っていることを知った夫トニーは、ケンブリッジ大学の先輩で今は落魄の身の上にあるレズゲイト大尉を部屋に呼び出し、妻殺しをもちかける。自身の弱みを握られたレズゲイトは、申し出を受諾。外で完璧なアリバイをつくっているトニーが家にいる妻に電話をかけたこと合図に、レズゲイトが強盗の仕業を装い、妻を襲撃するというもの。ところが、思わぬ方向に事態は展開していって……。
 交際のない相手に殺人話をもちかけるという普通はあり得ない筋だが、車の商談で呼び出されたはずのレズゲイト大尉が、淡々と話を進めるトニーにより自らの秘密を次第に暴かれ、完全犯罪といえる妻殺しの計画に次第に惹かれていく。不可能とも思われるたくらみが説得力をもって展開する二人の会話の妙。 
 本作は、ミステリの型でいえば、倒叙物。しかし、犯人と犯行を先に見せて、捜査側が犯行のミスを見破るというという定式は、この作品では変型され、まったく予期せぬ窮地にトニーは立たされる。
 ミステリドラマ専業のマックスは、完全犯罪は紙の上でしか成立しないといい、「物語は作者の意のまま展開しますが、これが実生活となると――そんなにうまくは転がりませんので」というが、この言葉が事態を予見している。     
 だが、トニーは、状況を巧みに掌握し直して、最小限の偽装を施し、事件の構図を大きく変えて、結果として、妻殺しと同等の果実の獲得につなげる…。この犯人の極めて頭のいい、臨機応変の立ち振る舞いがプロットの見どころの一つ。
 物語としてはこれでは終われないから、第三部では、真実を追求する側の反撃が用意されている。事件の捜査に当たるハバート警部が仕掛ける罠は、現実的であれば法を無視したものとも映るが、劇的効果としては完璧。 
「居室の玄関のドアを開ければ、犯人が自らの犯行を告白したことになる」という状況が設定され、関係者がそれを見守るという場面が、いやがうえにも劇的緊張を高める。こういう状況を考案するのは容易ではないと思われるが、部屋の鍵という最小限の小道具でこれを成し遂げたプロットは実に考え抜かれている。
 プロットの妙に優れたミステリ劇の古典であることは疑いないが、主要人物の一人が推理ドラマの専門家であることによる一種のメタミステリ的視点(第三幕のトニーとマックスの攻防にそれがよく表われている)、アモラルにして冷静な行動家トニーや、レズゲイトなどユニークな人物造型など古典としての懐の広さも併せもっている。中でも低姿勢ながら鋭さを秘めたハバート警部には、コロンボ警部の原型的要素も見受けられる。
 M・ナイト・シャラマン監督は、映画『ダイヤルMを廻せ!』に関して、観客は善人悪人に関係なくプロを応援する、それまでの(犯罪の)プロであるトニーに代わって、抜け目ないハバート警部を応援しはじめるという注目すべき発言をしていた。
 ヒッチコックの映画(トニーをレイ・ミランド、妻マーゴをグレース・ケリーが演じた)は、原作が舞台劇ということを考えれば、映画的な場面の転換やアクションがあっても良さそうだが、ほぼ夫婦の住居から離れない原作に忠実な演出は、隙のない戯曲はそのまま映画化すべしというヒッチヒック監督の揺るぎない信念があってのことだろう。
 本書の序文は当代の人気脚本家・三谷幸喜氏、また、原作とヒッチコック映画版の相違、英国版と米国版の相違等を詳細に論じた町田暁雄氏の実に40頁近くに及ぶ渾身の解説が付されている。
 
 アダム・シズマンの大部の伝記『ジョン・ル・カレ伝(上・下)』が刊行されているが、次回廻しということでお許し願いたい。
 

ストラングル・成田(すとらんぐる・なりた)
 ミステリ読者。北海道在住。
 ツイッターアカウントは @stranglenarita



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