そういう方向けの連載が今回から月イチで始まります。犯罪小説が大好きでしかたがないという小野家由佳氏が、偏愛する作家・作品について思いの丈をぶつけるコラムです。どうぞご期待ください。(事務局・杉江)
「違うんです」とよく言ってしまいます。
たとえば、仕事で誰かに何かの作業を頼まれて、それを終えて、報告しようとした時に相手が見つからない。ならその間に別の作業を、と始めたら、それが思いのほか時間がかかってしまい、相手が席に帰ってきたのになかなか手が離せない。どうにかひと段落つけて、ようやく報告をしたら「あれ、遅かったね」と言われる。
そうした時、たとえ相手が責める口調でも何でもなくても「違うんです」と勝手に言い訳を始めてしまうのです。「ちゃんと想定通りの時間に作業は終えたのですが、その時間にあなたがいなかった為、別の業務をしていました。決してサボっていたり、ほっぽりだしていたわけではありません」と話してしまう。話さなくても、頭の中でグダグダそういったことを考えてしまう。
どうしても、相手に〈誤解〉をされたくない。ちゃんと〈こちらの事情〉を全て分かってほしい。そういう気持ちが湧いてしまうのです。
そうしたことがある度に「幼いなあ」と反省します。 実際のところは、何も違くはないからです。 先の例で言えば、自分の報告が遅かったという事実だけがあり、それは何も異ならない。説明するにしても「ちょっとタイミングを逃してしまって」と事情を話せば良いだけで、その先の「サボっていたわけではないですよ」なんていう言い訳は全くもって要らない。むしろそんな言い訳をしたせいで「サボっていたのをごまかしてるな」とそれこそ〈誤解〉されてしまうかもしれない。「お前、サボっていただろ!」と事実とは異なる叱責をされて、それでようやく「違う」と言うべきなのです。
それなのに〈こちらの事情〉を完璧に分かってほしい、と思ってしまって、それを口にしてしまうのは、自分をそのまま受け入れてほしい、という幼い願望が強すぎるからでしょう。そこよりも、事実の方が大切なのに。
そうしたわけですから、ジョン・ビンガム『第三の皮膚』(1954)を読んだ時は、猛烈に胸に刺さってしまいました。
この話の主人公、レス・マーシャルもまた、「違う」と〈誤解〉を解こうとする気持ちが強すぎる、幼い青年だからです。
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レス・マーシャルは新聞社で働く19歳の青年です。
そんな彼が今、惚れているのは、遊び仲間の一人のヘスター・ブラウンという女の子。ある日、彼は奇跡的に彼女といい感じになり、その流れで彼女が抱える秘密と、それ故に大金が必要なのだという事情を打ち明けられる。しかし、当然のことながらレスにはそんなお金はない。どうすれば良いか、と悩んだ時、頭の中に悪友ロン・ターナーから誘われたある計画のことが蘇る。
その計画とは、あるマンションへの押し入り強盗だった……というのが本書の導入部。 この粗筋の時点で、なんとなく察せられるかと思いますが、このレスという男はかなりの凡骨です。 遊び仲間の前では自分は敏腕記者であると威張っている。けれど、実際はただの雑用で、周りからの評価も低い。上司に給金を上げてほしいと頼みにいったら「お前の家庭の事情を知っているから上げてやるが、お前はまだ一人前の仕事もろくにできてないんだぞ。もっとちゃんとやれよ」と説教されてしまったくらいです。その上、その説教も響いていない。結果的に給金を上げてもらうという目的は達成できたからそれでいいやとしれっとしている。……そんな奴です。
つまるところ、〈自分が周囲に見せたい自分〉と〈実際に周囲に思われている自分〉に圧倒的な落差がある人間で、そのことには薄々気づきつつも見ないフリをしてダラダラと日々を送っている。寝る前にポルノまがいの小説を読んで、主人公には自分を、それに惚れる美女にはヘスターを置き換えた妄想をしているというエピソードが冒頭で語られますが、これが彼の全てを表しているといっても良いでしょう。
そんな彼が、とうとうその妄想を現実のものにできるチャンスを掴んだ。そのチャンスをものにするために犯罪に手を染めることを決意した。 『第三の皮膚』の物語は、そこからグッと動き始めます。
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一口にクライム・ノヴェルといっても、描かれる犯罪そのもののアイディアや展開の意外性で読ませるものと、その犯罪の中から浮かび上がってくる登場人物の人間性で読ませるものとがありますが、『第三の皮膚』は完全に後者です。
この話で描かれるのは、とことん、〈レス・マーシャルという男の犯罪〉です。
それは彼の性格をそのまま表していて、どこまでも未熟で、無責任で、危なっかしく、情けない。レスがロンの話に乗った瞬間から、物語は妙なサスペンスに包まれます。それは一般的なクライム・ノヴェルのものとはまた違っていて、なんというか、『はじめてのおつかい』的とでもいいましょうか。「大丈夫か?」というハラハラ感です。『はじめてのおつかい』とちょっと違うのは、その「大丈夫か?」が完全な親目線ではなく、レスへの感情移入、共感の要素が強いこと。ジョン・ビンガムの徹底的な造形と描写で浮かび上がってくるレスという青年の姿に、自分がつい、重なってしまうのです。
中盤、とうとう計画が決行されたところで、決定的な場面があります。 アクシデントによって犯行が失敗し、予想外の事件が起こってしまったところで、ある誤解が発生し、レスがそこで言うのです。「違う」と。
それは冒頭で述べた、僕の「違うんです」とすっかり同じで、何も違くはないんです。
事実として、どうあがいても弁明できない非がレスにはある。レスが怒っているのはその事実の傍流とでもいうべき些細な事柄で、確かにそこに関しては違うのかもしれないけれど、総合的に見たら何の免罪符にもならない〈誤解〉で、怒るなんてまったくもって筋が違います。だけどレスはその〈誤解〉に対して、そんな筈ではなかった、それは〈誤解〉だ、許せない、と憤るのです。不当だ、と言い逃れのできない事実から目を背けて。
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その憤りを描いたところで、物語の視点位置が切り替わります。 ここまでずっと、レスという人間の内側について語ってきましたが、物語の後半ではレスという人間について外側から語られるのです。それは警察の事情聴取であったり、関係者の奮闘だったりという形で書かれ、そこにサスペンスが生まれて読者を惹きつけるという構成になっています。
「〈こちらの事情〉を分かってくれ! 〈違う〉んだ!」と叫ぶレスの心情を描いたあと、それを他人がどう受け取ったか、が話されるわけです。そして、それはどこまでも自分にとって都合の良いレスの内面世界とは全く別の方向へ進んでいきます。 彼の〈違う〉は当然、〈違わない〉と解釈される。問題となるのは事実で、レスにとっての〈誤解〉は些細なこと故に、事実の補強材料として処理されてしまう。
この犯罪を、レスという人間を、レスの気持ちとは違うところから解剖していくのです。 その中心にいるのはレスの母親です。
この部分が恐ろしい。
誰よりもレスのことを愛していて、彼のことをある意味本人よりも理解している彼女によって、外側から彼の幼さが分析されていくのです。愛があるからこそ、その分析というのは残酷で、タイトルになっている〈第三の皮膚〉の意味が話されるところなど、読んでいて悲鳴を上げてしまいそうになるほどでした。 彼女はあくまでレスの味方であり続けるのですが、それ故に、読んでいてこちらの心が辛くなってしまうのです。
そのまま、物語はレスという人間を丸裸にして、ここしかないというところに着地をして、終わります。その切れ味といったら!
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つまり、『第三の皮膚』というのは、一人の男を内側外側、両方から描き出した小説なのです。
そして「違う、本当の俺を理解してくれ」という内側の願望と、「何も違くない。君はこういう奴だ」という外側の理解、ともに読んでいて頷いてしまう。僕などはレスに感情移入をしてしまっていたから、心に傷さえついてしまう。自分自身の中にある、〈誤解〉に対して「違う」と説明したくなってしまう気持ちと、それを幼いと糾弾する気持ちにそれぞれが完全に重なってしまうのです。
そうした意味で、この作品は完璧なクライム・ノヴェルといって良いのではないでしょうか。発表されて数十年後の異国の人間がそう感じてしまうような鋭い人間観察を、一つの犯罪を通して語りきっているわけですから。
自分の心の中の大切な場所に置いておきたい。そんな一冊です。
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小野家由佳(おのいえ ゆか) |
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ミステリーを読む社会人二年生。本格ミステリとハードボイルドとクライムコメディが特に好きです。Twitterアカウントは@timebombbaby。 |