書評七福神とは翻訳ミステリが好きでたまらない書評家七人のことなんである。

 書評七福神の二人、翻訳ミステリーばかり読んでいる翻訳マン1号こと川出正樹と翻訳マン2号・杉江松恋がトークでその月のお薦め作品を3つ紹介する「翻訳メ~ン」をyoutubeで毎月更新しております。八月号も更新しておりますので、よかったらお聴きくださいませ。またもや宣伝で失礼。

 というわけで今月も書評七福神始まります。

(ルール)

  1. この一ヶ月で読んだ中でいちばんおもしろかった/胸に迫った/爆笑した/虚をつかれた/この作者の作品をもっと読みたいと思った作品を事前相談なしに各自が挙げる。
  2. 挙げた作品の重複は気にしない。
  3. 挙げる作品は必ずしもその月のものとは限らず、同年度の刊行であれば、何月に出た作品を挙げても構わない。
  4. 要するに、本の選択に関しては各人のプライドだけで決定すること。
  5. 掲載は原稿の到着順。

 

 

川出正樹

 

エリザベス・ウェイン『ローズ・アンダーファイア』(創元推理文庫)

 万感の思いとともに巻を擱く。ナチスの女子強制収容所に収容されたアメリカ人パイロット・ローズが、知恵と詩作と希望を武器に、様々な出自と半生を背負った仲間とともに生き延びるべく抗う姿が胸を打つ。しかも生き残ることがゴールではない。人生は続いていくし、時代も世界もいやおうなく動く。その大きなうねりの中で、いかに自己を取り戻し、折りあいをつけ、先に進んでいくかという問題に取り組んだ柄の大きな物語だ。前作『コードネーム・ヴェリティ』で重要な役割を果たした人々との思わぬ再会も嬉しい。

 第二次世界大戦という空前の災禍の中、お互いを信じ闘う女性同士の紐帯を描いたこの二つの冒険物語は、「希望はけっして飛ばない。それでも、あきずに見つめる。空に吹く風を求めて」というローズの作った詩の一節とともに、私の心の深いところにしっかりととどまることだろう。

 今月は、『狼の帝国』(高岡真訳/創元推理文庫)以来13年ぶりの翻訳となるジャン=クリストフ・グランジェ『通過者』(吉田恒雄訳/TAC出版)もお薦め。相変わらずの外連味とビザール感、これでもかとばかりのてんこ盛り展開と濃いキャラクタ造型に、ああ、そうそうこれだよね、彼の持ち味は、と懐かしくも嬉しくなった次第。

千街晶之

『監禁面接』ピエール・ルメートル/橘明美訳

文藝春秋

  この作品、とにかく設定があまりにも荒唐無稽すぎて、「これって本当にきちんと着地するのだろうか」と、やや不安な気分で読みはじめたことを告白しておく。だが、読者を自在に手玉に取るような意外極まる展開がひたすら連続、中盤以降は弛緩した部分が少しもなく、しかも結末はこれしかないという鮮やかさで、流石ルメートルと唸った。早い時点で人の道から外れすぎの駄目主人公にいつしか感情移入させてしまう筆致もお見事で、他のルメートル作品の残酷描写が苦手という読者にもお薦めだ。なお、八月の新刊ではJ・D・バーカー『悪の猿』も印象的だった。ジェフリー・ディーヴァーのエピゴーネンだが、模倣もこの水準で達成できれば大したものである。

吉野仁

『通過者』ジャン=クリストフ・グランジェ/吉田恒雄訳

TAC出版

『クリムゾン・リバー』で有名なグランジェ久々の邦訳。上下二段組み七百ページを超え、四百字詰め原稿用紙換算だと二千枚ほどあるのでは、という分量もさることながら、内容もそれに負けてはいない。ボルドーで発見された記憶喪失者の担当精神科医が、やがて異常な殺人事件に巻き込まれる幕開けで、ここまではありきたりなサイコもの。だが、それから先がおよそ予想不可能な展開なのだ。ここはどこわたしはだれの連続、現れる迷宮がとてつもないほど重層的で込み入り、しかも奇抜な遷移をなしていく。読んでるこちらまでアイデンティティーが崩壊したような気分だ。めったにないです、そんな小説。ルメートル『監禁面接』もよく考えるとヘンな設定ととんでもない展開の再就職サスペンスで、仕組んだ虚構が現実になり、その無残な現実が嘘みたいな結末へと転じていく。さすがルメートル。もう一作、読み逃してはならないのが、J・D バーカー『悪の猿』。残虐でえぐ味満載のジェフリー・ディヴァーといったところだが、単なるコピーで終わらず、しっかりとした仕掛けと構成で読ませるサイコサスペンスに仕上がっている。そのほか読み切れてない八月刊の中には、まだまだ傑作がありそう。

北上次郎

『暗殺者の潜入』マーク・グリーニー/伏見威蕃訳

ハヤカワ文庫NV

 新シリーズの第2弾で、今回はシリアに潜入の巻。もうぐちゃぐちゃなんですね、シリアは。政府軍と反政府軍(これが一枚岩ではない)だけでなく、ロシアとイランだけでなく、犯罪組織までが武装して、誰が敵なのか判然としない混乱の只中に、コート・ジェントリーは飛び込んでいく。その緊迫感あふれるアクションの連鎖が半端ない。その比類ない迫力にただただひれ伏すのである。

 

霜月蒼

『暗殺者の潜入』マーク・グリーニー/伏見威蕃訳

ハヤカワ文庫NV

 今年の目玉作品刊行のはじまる月である。鉄板の『ローズ・アンダーファイア』『監禁面接』、ジャンル越境だと『ファイアマン』『七人のイヴ』、ジム・トンプスンの『犯罪者』も素晴らしかったし、ダークホース『悪の猿』もあった。フライングしようと思えば『北氷洋』に『元年春之祭』がもう出ているが、キリがないので今月は8月奥付を厳守したい。

 これらのどれも月間ベスト級なので、どうせ誰かが挙げるでしょう。僕が推すのは『暗殺者の潜入』。こんなにコンスタントに新作が供給される良質の冒険小説シリーズというのがすでに偉いですが、本作はここ数作でベストなので触れておきたい。最終的なミッションの目的は開巻早々から明確なのに、その実現手段が二転三転して先が読めない。グレイマンの物語と、別の物語が並行して描かれ、それぞれが冒険小説として優れていて、それぞれに色彩の異なるものになっているのも手が込んでいる。

 なお最後まで迷ったのが、ノンフィクション『死に山 世界一不気味な遭難事故《ディアトロフ峠事件》の真相』。ソ連時代の雪山で学生登山グループが全員怪死を遂げた事件の謎に挑む力作だが、この種の本には珍しく説得力のある(そして超怖い)「解決」が提示されているのがミステリ・ファン向きです。

酒井貞道

『監禁面接』ピエール・ルメートル/橘明美訳

文藝春秋

 主役の人物造形がすこぶる振るっている。焦って要らんこと――この場合は、貧しくも平穏な生活を五十七歳なのに振り捨てて自己実現を図る、ということ――をやる愚かさは隠しようもない。しかし学はあって頭も回るので策略ができるし、プライドが高くなるのが納得できる輝かしい経歴も持っている。「なんだこいつ」と「結構頭いいな」のバランスが絶妙で、面接の異様な状況と合わさることで、特に後半は先を読ませない。展開の意外性で読ませる一方、人物像もくっきり描き出した上で主役自身のモノローグ(しかもよく話が飛ぶ)を頻出させるので、じっくり読むにも適している。
 つまりは読んでいてとても楽しいということです。

杉江松恋

『悪の猿』J・D・バーカー/富永和子訳

ハーパーBOOKS

 この作品について触れている他の七福神が全員同じことを言っていると思うが、まあ、いい、私も書いておこう。

 え、これってジェフリー・ディーヴァーが書いたんじゃないの?

 と、言いたくなるような内容、手つきの小説なのである。天才的な犯罪者対刑事たちの戦い。現場に遺された手掛かりを分析する捜査官の推理。ホワイトボードにこれまでの手がかりを整理して書くところまで同じだ。あと、切れ場が妙に巧いところなんかも同じ。切れ場というのはつまり、犯行現場で警官が後ろから突然何者かに襲われたところで章が終わる、何章か後でそれが実は仲間の警官で、単独行動をしている同僚を追いかけて捕まえたところだったことがわかる、というようなあれだ。ちょっとジャック・カーリーみたいな要素も入っている。どこがどう、というのは読めばわかる。主人公の書き方が似ているのである。つまり現在最前線のスリラーを研究して分析し尽くしているのだろう。完璧にコピーできるというのももちろん才能である。あと、言わせてもらえば、謎解きとしてはディーヴァーよりフェアである。ちゃんと手がかりを出すもの。

 内容について触れていないが、まあいい。ディーヴァーみたいだと思っていただきたい。冒頭の状況設定が凝っていて、いきなり読者を宙ぶらりんのところに投げ出すのである。え、なんだなんだ、何が起きているんだ、と騒いでいると徐々に状況説明が始まる。情報を一つずつ聞いていって、なるほど、今はそういう状態なのか、と納得したときにはすでに電車が動き出していて、もう後戻りできないところまで運ばれてしまっている。そういう技巧が凄いのである。天性のページターナーだな、この人は。前世はきっと、皇帝の読書係か何かで、本のページをめくる仕事をしていたに違いない。

 さらに言うと、途中で物語が進む方向がばっと変わって、新しい謎が浮上してくる瞬間がある。そこが私はたいへんに好きだ。こういうのが好きなのである。それまでは見えなかった謎が出てきて読者が、えっ、そういう謎解きだったの、聞いてないよ、と慌てふためかされるやつが。その瞬間があるので非常に点を高くつけた。続篇も楽しみである。USAのAmazonで続篇のあらすじも見てしまった。なるほどそういうことになるのか。本篇の結末がある程度わかってしまうので、未読の方は見るの禁止である。

 本書以外にもいろいろ好きな作品があった。豊作である。たぶん他の七福神がそういう作品は挙げていると思うので、絶対かぶらないやつを出しておく。ミック・ジャクソン『こうしてイギリスから熊がいなくなりました』だ。『10の奇妙な話』のミック・ジャクソンが綴る、イギリスから消えたいろいろな熊たちのお話である。どの話も最後には熊が消えて終わる。まるで山田風太郎『妖異金瓶梅』である。熊はあるものの隠喩だが、これは言わないでおこう。熊が好きでイギリスの文化が好きな人は絶対に読んで損がない。あと変な話が好きな人。収録作のうち「下水熊」は下水道を強制的に清掃させられる熊たちの話だ。なんだそりゃ、と思うかもしれないがそういう話だ。地下好きな人にもお薦め。ミステリーじゃないので遠慮したが、本当はこの本がいちばん好きだった。

 さあ、いよいよ盛り上がってまいりました。年末に向けて力作がばんばん出てきます。七福神一同ねじり鉢巻で読んでいきますので、どうぞご期待ください。また来月お会いしましょう。(杉)

書評七福神の今月の一冊・バックナンバー一覧