「今の翻訳ミステリー大賞シンジケートは、過去の名作についての言及が少ない!」ーーそんなことをお思いの方はいらっしゃいませんか?

そういう方向けの連載が今回から月イチで始まります。犯罪小説が大好きでしかたがないという小野家由佳氏が、偏愛する作家・作品について思いの丈をぶつけるコラムです。どうぞご期待ください。(事務局・杉江) 

 

 

 つい先ほど、ジョン・D・マクドナルドの『呪われた者たち』(1952)を読み終えました。
 これは大変素晴らしかった、と興奮しています。
 呪われた、といっても、ジョン・D・マクドナルドのクライム・ノヴェルですから、怪奇小説的な意味ではありません。自分の中にあるどうしようもない欲望や、人の手ではどうにもならない不運のせいで生きていく上で問題が発生してしまう、という人々のことを指して『呪われた者たち』と邦題がつけられているのです。
 その〈呪われた者たち〉が、メキシコのコンチョス川のフェリー乗り場で足止めされて、幾つかのトラブルと犯罪が起こる様子をそれぞれの視点で描くという群像劇で、全体を貫くストーリーらしいストーリーといえば、彼らがフェリーに乗れるかどうかというものしかないのですが、それでもどんどん読ませる。
 徹底して自分自身の世界の中でしか生きていない〈呪われた者たち〉一人一人の視点が、人生のどうしようもなさみたいなものを感じさせてくれ、それが読んでいて面白いのです。
 出てくる人物全員が、自分のことを被害者と思っている。何故自分だけがこんな目に遭わなければならないんだ、と考え、それで自分が他の人を傷つけていることに気づかない。そのせいでどんどん不幸になっていく……まさしくタイトルの通りの連中で、感情移入とまでいかないものの読んでいて「ああ、分かるよ」と僕自身のどうしようもなさまでそこに描かれているような気がしてくるのです。
 読み終えてみて、『呪われた者たち』というタイトルはピッタリだなあ、と唸りました(原題は『The Damned』)。
 何がピッタリって、その作品だけではなく、ジョン・D・マクドナルドが書いた他の作品の登場人物らにも通じる言葉なのが良いじゃありませんか。
 今回紹介する『夜の終り』(1960)なんてまさに、〈呪われた者たち〉を描いた小説です。

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 物語は、〈群狼殺人事件〉と呼ばれる事件の犯人四人が死刑に処されるところから始まります。
 〈群狼殺人事件〉とは、どんな事件なのかは冒頭では詳しく説明されません。ただ、この男三人女一人が内訳の四人組がとんでもない事件をやらかしたらしい。死刑になって当然の事件らしい、ということだけが死刑執行人の手紙という形式で語られます。
 その後、弁護士の覚書、〈群狼〉が犯した最後の事件を描く三人称、そして〈群狼〉の一人の手記という三つの形で、〈群狼殺人事件〉そのものについての話が始まる、というのが本書の構成です。
 誰かの主観が入る部分については覚書もしくは手記で、それ以外の部分は徹底的な客観描写でといった具合に整理されて描かれる物語はまるで実際にあった事件についてのルポルタージュを読んでいるかのような読み心地で、このあたりがノンフィクション・スタイルといわれる所以でしょう。
 読み始めてすぐ、読者の興味を惹くのは「果たしてこの〈群狼殺人事件〉とはいかなる事件なのか?」という謎です。そして、それはなかなか語られない。
 弁護士の覚書は事件が終わったあとの〈群狼〉たちの様子を描くのみ、逆に〈群狼〉の一人、カービー・スタッセンの手記は事件が始まる遥か前から始まっています。事件そのものを描いているのは最後の事件を綴った三人称の部分のみで、結局〈群狼〉たちが犯した他の罪についてはいまいち分からない。
 更に分からないのは、手記を書いているスタッセンと、覚書や三人称部分で描かれる〈群狼〉の姿がいまいち結びついてこないということ。手記から見えるスタッセンは自分自身の人生を持て余したようなどこにでもいるとまでは言わないものの、ある種のステレオタイプ的な大学生の青年で、とてもじゃないが他の章で語られる〈群狼〉の一人だとは思えないのです。恵まれた家庭に生まれて、大学も最終年度まで順調に進んでいて、人付き合いにもそう問題はない。そんな人間なのです。
 対して、〈群狼〉の他のメンバーはパっと見て、すぐにアウトローだと感じるような連中ばかりです。頭が足りず、すぐに手が出る獣のような男ロバート・エルナンデス、男を魅了しながら住処も職業も転々とした破滅的な妖婦ナネット・コズロフ、その二人を従える頭のキレる麻薬常習者のサディスト、サンダー・ゴールデン……この三人と、スタッセンでは一見して釣り合わない。
 そうしたわけで、読んでいくうちに興味は「スタッセンは何故、〈群狼〉の一人になってそんな罪を犯したのか?」という点にうつっていきます。
 そうなると、もう、読むのが止められない。
 弁護士の覚書で描かれる犯人たち一人一人の描写、最後の事件の関係者たちの呻き、そしてスタッセンが道を外していく過程、そのどれもが異様な迫力をもってせまってきます。それぞれのパートで、サスペンスをもたらす要素が用意されていて、それがページをめくらせるのです。
 特にのめりこむように読んでしまったのは、やはり、スタッセンのパートです。
 彼が〈群狼〉の他の三人に合流するのは、中盤過ぎです。つまり、そこに至るまでにかなりの分量を使っているわけですが、恐ろしいのは、その過程は、彼が〈群狼〉へ入る契機にはなっていても、彼自身の人間性を変えるものではないということ。スタッセンはあくまで最初の印象通りの人生を持て余した青年で、突然狂気に駆られたわけではないのです。
 そして、実はそれは〈群狼〉の他の三人も、同様です。
 スタッセンは〈群狼〉に入った後、各メンバーについて分析をします。彼らはそれぞれブッ飛んだところがあっても、一人では残虐な行為をする者ではなく、あくまで、このメンバーが集まったからこそ、〈群狼〉と化し、衝動に従い犯罪を重ねるようになったのだと。そういう歪んだ関係で、スタッセン自身も、その中の一人になるのです。
 そこまでくると、分かります。
 〈群狼〉は、理解できない狂気の存在ではない。他の章で描かれる関係者たち、被害者たちとさして変わらない人間で、ただ、それぞれが抱えていた問題が犯罪へと結びついてしまった〈呪われた者たち〉なのだと。
 そして、三つの章はそのラインで溶けあって、ここにしかないという結末へと物語は辿りつくのです。
 読み終えて、完璧に好みな犯罪小説を読んでしまったと震えました。

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 『夜の終り』も、『呪われた者たち』も、粗筋にはサディズムだったりエロティシズムだったり、煽情的な言葉が躍っています。
 確かにそこへ通じる描写はありますが、現代の読者からすると、その線では期待したほどのものは得られないように思います。
 むしろ、普遍的なこれらの作品のウリは〈呪われた者たち〉のどうしようもなさの徹底的な描きこみ、そして、それがそのまま読者を楽しませる要素になっているという点ではないでしょうか。
 夢中で読んでしまうような、強烈な作品たちでした。読み終わった後の今もなお、クラクラしています。

 

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小野家由佳(おのいえ ゆか)
ミステリーを読む社会人二年生。本格ミステリとハードボイルドとクライムコメディが特に好きです。Twitterアカウントは@timebombbaby