「今の翻訳ミステリー大賞シンジケートは、過去の名作についての言及が少ない!」ーーそんなことをお思いの方はいらっしゃいませんか?

そういう方向けの連載が今回から月イチで始まります。犯罪小説が大好きでしかたがないという小野家由佳氏が、偏愛する作家・作品について思いの丈をぶつけるコラムです。どうぞご期待ください。(事務局・杉江) 

 

 

 

 フィッシュ・ストーリーという慣用句を知ったのは、ご多分に漏れず伊坂幸太郎の作品を読んで、です。
 俺の釣りあげた魚はこんなにでかかったぞ、といった釣り師の自慢話が語源で意味はホラ話。「面白いな。忘れないでおこう。この先、出くわすことがあったら自慢気に『知ってるよ』と言ってやろう」と思ったことをよく覚えています。
 しかし、実際にこの言葉が使われているところにはなかなか巡り合わず、伊坂作品以外の文脈で出会えたのは大学生になってようやくでした。
 『密輸人ケックの華麗な手口』(1976)の訳者あとがきで書かれていたのです。「フィッシュのお話。すなわち、フィッシュ・ストーリィ」と。
 成る程、と唸りました。
 確かにそうだ。ロバート・L・フィッシュの書いた作品なら、ホラ話で間違いない。
 かの有名なシュロック・ホームズシリーズからしてそうじゃありませんか。ただシャーロック・ホームズのパロディとしてユーモラス、というだけにとどまらず、とんでもないところにまで飛び出してしまう。
 『シュロック・ホームズの冒険』(1966)収録の「アダム爆弾の怪」なんて、読み終えた瞬間に「馬鹿野郎!」と叫んでしまったくらいです。もう、まさか、あんなオチが待っているとは……思い出し笑いが読後、しばらく止まりませんでした。
 シュロック・ホームズと並ぶもう一つの代表シリーズ〈殺人同盟とパーシヴァル卿〉ものも、設定からして凄い。売れなくなった老推理作家の三人が、自分たちが考えたトリックを使った殺し屋業を始めるという話です。これだけで笑っちゃう。
 ロバート・L・パイク名義の警察小説は比較的真面目ですが、それでも筆名はパイク(カワカマス)です。
 いかなる時も遊び心を決して忘れない。フィッシュはそんな作家で、彼が書く作品はあらゆる意味で正真正銘のフィッシュ・ストーリーです。
 大学生のその時点で、既に何作かフィッシュの小説を読んでいた僕はそんな風に思い、ニヤニヤしながら『密輸人ケックの華麗な手口』のページをめくり始めたのですが……やはり、期待は裏切られませんでした。
 この本、とびっきりのホラ話しか入っていない!

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 『密輸人ケックの華麗な手口』はタイトルの通り、密輸を請け負うプロの悪党ケック・ハウゲンスを主人公にした短編集です。
 まず目を惹かれるのは、密輸人という設定でしょう。
 怪盗や泥棒が出てくる作品は星の数ほどあるけれど、密輸を扱ったミステリはそうそうない。ましてや、シリーズものとなると僕が他に思い浮かぶのはトマス・フラナガンの『アデスタを吹く冷たい風』(1961)のテナント少佐ものくらいです。そちらも、密輸をする側ではなく密輸を取り締まる側です。
 といっても、見慣れぬ題材ゆえの取っつきにくさというのは本書には皆無です。
 理由は二つあります。
 一つは、このケック・ハウゲンス君がとても魅力的な男であるということです。
 生まれはポーランド、持っているパスポートはアメリカ、名前はオランダ風というプロフィールからして国際派なこの男は、天才的な密輸人でありながら、麻薬や武器などのキナ臭いものには一切手を出しません。彼がこの仕事をやっているのは、持ち前の遊び心ゆえだからです。扱うのは、基本的には絵画や彫刻といった芸術品で、彼は金になるからではなく、それらが美しいからという理由で関わりたがります。
 と、書くとちょっとキザな感じですね。実際にそういうところもあるのですが、でも、基本的には嫌味のない、ユーモアにあふれた男です。ニック・ヴェルヴェットやバーニイ・ローデンバーと同じような、心から愛せる悪党なのです。
 もう一つの理由は、この短篇集に収録されている話が、どれも驚きに満ちたホラ話であるということ。名手フィッシュのことですから、ただビックリするだけではなく、小洒落てもいる。
 つまりは、魅力的な男が軽快に動き回る楽しさの上に「えっ、まさか!」となる仕掛けの驚きが重ねられた話が詰まっているわけで、そこに取っつきにくさなんてありません。
 一編目の「ふりだしに戻る」を読んだ瞬間、全ての読者はケックの虜になってしまうでしょう。
 五百万ドルの現金の密輸という、余りに無茶な依頼をされたケック、果たしてどうやって密輸をするのか? というハウダニットの面白さだけでも素晴らしいのですが、なんといっても、それを語っているのが依頼を成功させた筈なのに落ちぶれた様子のケックという構成が面白い。本当に密輸を成功させたのか? だとしたらどうして彼はこんなことになっているのか? こうした興味に惹かれるまま楽しくページをめくっていると……思いもよらないところから引っかけられる!
 まさしく短編の名手、と唸る構成からアイディアまで隙のない一編なのです。
 こうした話が、あと、七編もある。
 それだけでもなんとまあ、贅沢なという感じがしてしまうのですが、読み進めてみると、想像よりももっと凄いことが分かってきます。こうした話、だけではないのです。まだレベルは上がるし、バラエティもある。
 たとえば「名誉の問題」などは「ふりだしに戻る」で既に完成されていた密輸を依頼される悪党ケック、という骨格をとことん突き詰めたような話です。
 ケックに絵画の密輸の依頼をしてきたのは、ケックと同じ裏業界の悪党。ただの依頼ではないなとすぐに察したケックは、彼から裏事情を聞き出し……というのが粗筋なのですが、舌を巻くのは、話の後半に待つツイストの連続です。プロの悪党同士の丁々発止のやり取りがそのまま二転三転になっていて、思いもよらないところへ転がっていく。
 最後にここしかない、というところに収まった時、タイトルを見直して「まさしく名誉の問題、か」とニヤリとする。そんな一編です。
 一方で「カウンターの知恵」なんていう話もある。こちらは打って変わった〈日常の謎〉ミステリです。
 どうにもこうにもレジの計算が合わないスーパー、万引きをされているに違いないが、証拠がちっとも掴めない。果たして真相は、という話で、謎を解き明かすのは悪党である筈のケックなのです!
 本書の中では異色作なのですが、これがまた、上手いのです。真相部分のアイディアが完全にこちらの意表をついてきて、それでいて納得せざるを得ない。思わず唸らされました。

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 そうしたわけで、本書、スマートな犯罪小噺から謎解きものまで書きこなすフィッシュの腕が思う存分に発揮されているわけですが……僕がベストを選ぶなら、やっぱり、とんでもないホラ話の「一万対一の賭け」になります。
 カジノで胡散臭い男に持ち掛けられたのは、もしある彫刻の密輸に成功すれば二万ドルもらえ、失敗しても二ドルを渡すだけで良いというケックにとって都合の良すぎる〈一万対一の賭け〉。
 そんな賭けをするのもその彫刻の密輸が絶対に無理だからと煽る男にプライドをくすぐられたケックはその賭けに乗るが……というシリーズのフォーマットに沿った短編なのですが、これが、とんでもないところに着地するのです。もう、本当、全ての人の予想を超えるような「そこに落とすのかよ!」というオチが待っているのです。
 まさにホラ話! アホみたい!

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 こうした話を読んだ時、僕はゲラゲラ笑いながら、良いなあ、素晴らしいなあって思います。
 どんなに辛くて悲しい現実も、一瞬で吹き飛ばしてしまう、馬鹿馬鹿しい話。これほど素敵なものって、他にあるでしょうか。
 正真正銘のフィッシュ・ストーリーを読む時、そんな風に考えて、いつも泣いてしまいます。それは勿論、笑い過ぎで。

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小野家由佳(おのいえ ゆか)
ミステリーを読む社会人二年生。本格ミステリとハードボイルドとクライムコメディが特に好きです。Twitterアカウントは@timebombbaby