書評七福神とは翻訳ミステリが好きでたまらない書評家七人のことなんである。

 書評七福神の二人、翻訳ミステリーばかり読んでいる翻訳マン1号こと川出正樹と翻訳マン2号・杉江松恋が2018年度のベスト10を決めるイベントが昨年末に駒込・BOOKS青いカバさんで開かれました。こちらのリンクから、その模様をご覧いただけます。よろしければおひまなときにご覧ください。

 というわけで今月も書評七福神始まります。

(ルール)

  1. この一ヶ月で読んだ中でいちばんおもしろかった/胸に迫った/爆笑した/虚をつかれた/この作者の作品をもっと読みたいと思った作品を事前相談なしに各自が挙げる。
  2. 挙げた作品の重複は気にしない。
  3. 挙げる作品は必ずしもその月のものとは限らず、同年度の刊行であれば、何月に出た作品を挙げても構わない。
  4. 要するに、本の選択に関しては各人のプライドだけで決定すること。
  5. 掲載は原稿の到着順。

 

酒井貞道

『大統領失踪』ビル・クリントン&ジェームズ・パタースン/越前敏弥訳

早川書房

 12月は激戦だった。人種差別を描ききったアッティカ・ロック『ブルーバード、ブルーバード』では、そのような地域で生きることを被差別側すらもが能動的に選択していることが、問題の根の深さを決定的に印象付ける。黒人主人公に対して、悪人の白人がわかりやすく暴力や暴言をふるう場面が少ないのもいい。本当の問題は、そっと傍らに忍び寄り、よりナチュラルな形で発現する、ということなのであろう。
 アレン・エスケンス『償いの雪が降る』も素晴らしい。授業で年長者の伝記を書くことが課題となり、センセーショナルになるだろうと踏み、殺人の罪で有罪になった老人カール・アイヴァソンに会いに行くことにした浅薄な大学生の主人公が、「僕は十二月の寒気を吸い込んでじっと立ち、自分を取り巻く世界の感触、音、においを味わった。カール・アイヴァソンに出会わなかったら、見過ごしていたであろうすべてを。」の素敵な二文で物語を占めるに至る物語は、正直言って胸に沁みた。訳もお見事です。
 しかし、それ以上にエポックメイキングだったのが、『大統領失踪』である。作者が本物の元大統領であるとか、作中の大統領と今の現職アメリカ大統領との差が激し過ぎてぞっとするとか、その現職大統領が作者の妻を選挙で打ち負かしたんだからこれは意趣返しではと下種の勘繰りができるとか、そういった要素を完全に無視して考えたとしても、本作は歴史的インパクトが強い。既に散々指摘されているとおり、本書は全ての大統領小説を過去にした。大統領の感傷、感情が生々しく、また彼を取り巻く状況も現実感たっぷりだからである。SPに常に囲まれることが日常になって本人もそれに慣れてはいるのだが、ほんのちょっとした単独行動で喜びを感じる辺りは、今までありそうでなかった。また、大統領が決断しなければならない事項(大小さまざま、ではない。出来する事態は全て、見るからに大事そうなことばかりである)が、雲霞の如く主人公に押し寄せる。しかもそれが日常。加えて「ノブレス・オブリージュ」の小説でよくある、国家や大業のために切り捨てなければならない事項の描き方もまた、お涙頂戴を徹底排除している――というよりも、泣く時間と余裕がない――ので、これまた現実感たっぷりなのだ。しかも主役は基本的に自然体であり、元首になると望むと望まざるとにかかわらずこうなってしまうという実感がこもっているように読める。つまり、国のトップであることがどういうことかを、感傷的(≒常套的)な感情論や、わざとらしい使命感、普通に生きたいと泣き叫ぶなどの今更感満載の利己心などに頼らずに、理解し納得させてくれるのだ。それをこんなに高水準に実現されてしまうと、今後、大統領や首相、独裁者、王侯貴族を主役に据えた小説家は大変だろう。特にSF方面とファンタジー方面がやばそう。早速ジョン・スコルジーの新作における《エンペロー》のパートが色褪せて見えてしまったことを告白しておきたい。申し訳ない。なお、読む前は、大統領が失踪した後に、孤独に一人で個人として頑張る展開が来ると予想していたのだが、実際には全然違った。主役は最初から最後まで現代国家のリーダーであり、その権力(権限)を存分に振るう。どんな肩書があっても個人では何ほどのこともできない、元首の力は国家があってこそだ、ということなのだろう。クリントンの立場ではそう書くしかなかったのかもしれないが、個人の力が国家を救う英雄譚を事実上否定している本書は、逆説的に、だからこそ素晴らしい「ノブレス・オブリージュ」ものとなった。

 

川出正樹

『ピクニック・アット・ハンギングロック』ジョーン・リンジー/井上里訳

創元推理文庫

 一九〇〇年のバレンタインデーの日に、オーストラリアの寄宿制女学院で催されたハンギングロックへのピクニックの最中に、四人の生徒と引率の教師一人が忽然と姿を消してしまう。ただ一人戻ってきた最年少の少女は半狂乱状態で、何が起きたのかまるで要領を得ない。彼女たちは一体どこに行ってしまったのか。

 白昼大自然の中で起きた集団失踪事件という強烈な謎で幕を開ける。ただし真相解明に向けて収斂していく狭義のミステリではない。作中に「綴織のような失踪事件の余波は、黒く静かに広がりつづけていた」とあるように、直接の関係者か否かにかかわらず、事件を契機に変容せざるを得ない人々の姿を俯瞰し、時に未来の視点も交えて彼らの人生を描いていくことにある。若さと老い、美と醜、貴と賤を対置させ、日常の儚さと時の無慈悲を淡々と、されど美しい筆致で綴っていく。

 ミステリと思うかどうかは意見が分かれるだろうけれど、例えばガイ・バートの『ソフィー』やクレイ・レイノルズ『消えた娘』、ジェフリー・ユージェニデス『ヘビトンボの季節に自殺した五人姉妹』に惹かれた方には、特に強くお薦めします。ほぼ原作に忠実に作られたピーター・ウィアー監督の映画版と併せて、ぜひ味わってみて欲しい。

 

千街晶之

『ピクニック・アット・ハンギングロック』ジョーン・リンジー/井上里訳

創元推理文庫

 何を選ぶか迷ったという意味で、今回は「書評七福神」始まって以来屈指の回だった。ホームズ譚の敵役たちを主人公とするマニアック極まるパスティーシュあり(キム・ニューマン『モリアーティ秘録』)、アメリカの人種問題を背景とした衝撃のミステリあり(アッティカ・ロック『ブルーバード、ブルーバード』)、元アメリカ大統領が自分の経験を活かして書いたノンストップ・サスペンスまであって(ビル・クリントン&ジェイムズ・パタースン『大統領失踪』)、どれも傑作な上、方向性が異なるので比較のしようがない。迷った挙げ句、ピーター・ウィアー監督のカルト映画の原作として知られる幻想ミステリを選んだ。神秘的な岩山で忽然と消えた少女たちと数学教師の身に何が起きたのか。現実と幻想が混線したような雰囲気の中で語られるエピソードのひとつひとつは、背後に途轍もない不穏な暗示を秘めているようでもあり、辻褄を追い求めても意味がない白昼夢のようでもある。そして訳者あとがきに記された本書の成立の由来からして、著者がどこまで事実を語っているのかわからない。確固たる現実が揺らぎ、ひび割れてゆく感覚の怖さと甘美さに満ちた奇書だ。

 

霜月蒼

『モリアーティ秘録』キム・ニューマン/北原尚彦訳

創元推理文庫

 

『ブルーバード、ブルーバード』で決まりかなと思っていた12月が例年以上の豊作でビックリ。カリン・スローターのノンシリーズ『彼女のかけら』は攻めのエッジが凄絶に立った一気読み作品だったし、豪華翻訳陣の『芥川龍之介編 英米怪異・幻想譚』は異色作家短編を先取りしたみたいで面白かった。『ピクニック・アット・ハンギングロック』も読みたかったんですが時間切れとなりました。ごめんなさい。

 で、推すのはこれ。他人のキャラを活用させれば世界一、絶妙なアイデアと博覧強記で「こいつにこういうことをやらせるのか!」と読者から快哉をカツアゲしてみせる史上最強の二次創作エンタテイナー、ニューマンの連作短編集である。題名どおり焦点はモリアーティ教授だが、物語をパワフルな「俺」一人称で語るのは、戦場からロンドンに帰ってきた殺しのプロ〈虎狩りモラン〉だ! 名スナイパー虎狩りモランが、砂塵のアメリカからやってきた名ガンマンと夜のロンドンで銃撃戦を繰り広げる第一話からして超痛快だし、第二話は「モリアーティ教授は、常に彼女のことを “あのあばずれ” と呼ぶ。」というゴキゲンな一文ではじまる。

モランの活劇の背後に隠されたモリアーティ教授の犯罪仕掛けも毎度利いていて(火星人襲来をモチーフにした第三話とか好き)、悪党小説やコンゲーム小説としても素敵な出来栄え。当然ラストは「最後の事件」である。シャーロック・ホームズを読んでいないとアレかもですが、なんならこれを読んだあとにホームズものを読んだっていいでしょう。教授やモランが誰か知らずに読んでも、アイデアと稚気が満載のクライム・スリラーとして素直に楽しい逸品。是非。

 

北上次郎

『償いの雪が降る』アレン・エスケンス/務台夏子訳

創元推理文庫

 小説は細部だなと改めて思ったのがこれ。14歳の少女をレイプして殺した罪で30年間服役している男がいる。末期の膵臓ガンで余命いくばくもなく、いまは介護施設で死を待っている。そこに現れたのが大学生のジョー・タルバート。インタビューしているうちに、30年以上前の事件に興味を覚え、ジョーが事件を調べていくと、次々に意外なことが明らかになっていく――というストーリーは、これまでに何度も読んできたような既視感がある。つまり、全然新鮮ではない。

 それでも、どんどんこの物語に引き込まれていくのは、細部がいいからだ。どういうふうにいいかはここに書かない。それを読むことが小説を読む楽しみだと思うから。ここに書くことができるのは次の1点だけだ。この世界の辛く、哀しい面を描きながらも、心が少しずつ温かくなってくるのはこの作家のとても得難い美点である、ということだ。早く次作が読みたい。

 

吉野仁

『償いの雪が降る』アレン・エスケンス/務台夏子訳

創元推理文庫

 大学生の主人公が訪れた介護施設である末期癌患者を紹介され、その男が犯したという少女暴行殺人事件の真相を探る物語。なによりこちらの心まで痛くなるほど、主人公はじめ登場人物それぞれの境遇や過去があまりに辛く、それゆえ放っておけずに先を読みたくなる小説なのだ。そのほか解説を書かせていただいたので読んだのは一ヶ月まえだけれど、12月刊のアッティカ・ロック『ブルーバード、ブルーバード』は、南部の小さな田舎町で続けて起きた殺人事件をめぐる物語で、舞台となった土地と歴史の影が重く迫る一作。なるほどアメリカ探偵作家クラブ賞最優秀長篇賞の受賞も納得する重厚なドラマとともに衝撃の真相が最後に待ち受けているのだ。

 

杉江松恋

『ブルーバード、ブルーバード』アッティカ・ロック/高山真由美訳

ハヤカワ・ミステリ文庫

 他のみなさんも書いているのではないかと思うが、意外なほどの激戦だった2018年12月。何を選ぶか真剣に悩んだのだけど「現役作家」であり「ミステリーとしての美点」がはっきりしていて「文章自体が素晴らしい」ものにしようと決めた。そうなるとこれしかないのである。『ブルーバード、ブルーバード』だ。

 先に文章のことを書いてしまうが、これ、かちかちの岩のように密度の高い文章で、読み始めたときは先行きに不安を覚えるほどだった。一口で言えば情報量が多く、読んでも読んでもなかなか先に進めないのである。物語はそんなに複雑な構造ではない。主人公のダレン・マシューズはテキサス・レンジャーで、組織の中でも珍しいアフリカ系アメリカ人だ。ご存じのとおりテキサス州は南部州の中心地で、圧倒的な白人優位である。ダレンが今の職に就いたのも白人によるヘイト・クライムを憎んでいるためだ。ある小さな町で黒人の男性と白人女性が相次いで変死する事件があり、ダレンは人種差別主義者によるヘイト・クライムの可能性があると考えて現場に急行する。案の定、捜査に当たっている保安官は無能そうで、かつ事件をもみ消す気満々に見える。そこでダレンは真実を闇に葬らせないようにしようと使命感に燃えるのである。

 この事件捜査が縦筋になるのだが、背景にさまざまなことが見えてきて、それが頭に浸透するまでに時間がかかるのだ。ダレンが現職に就くまでの経緯、理想に燃えるばかりに巻き込まれている面倒事、破綻しかけている結婚生活、アルコール依存症の危機といった事柄が一挙に押し寄せてきて、田舎町の気怠い情景とうだるような熱気の中、それらが濃密な壁をこしらえる。しかし、そこに読者を連れ込んでくれるロックの筆致がいいんですね。さくさくと話を進めるのもいいが、腕を掴んで、さあ、こっちにこい、とじりじり引きずられていく感覚も悪くない。これは一気に読むのは無理な小説だと覚悟を決めて、ゆっくりゆっくりページをめくるしかないのである。

 そうすると中盤から物語は急速に展開し始める。案の定、主人公の拙速なやり方は現地からの反感を買って不穏な空気が生じるし、都会人で田舎町の風土になじめない被害者の妻が口を出してくることによりダレンの心中に矛盾した感情を呼び覚ます。彼自身がテキサスの田舎町の生まれであり、大地に根を下ろしていることに誇りを感じている。しかし、凝り固まった因習に怒りを覚えていることも事実なのだ。この二つの要素がぶつかり合うことでダレンの内燃機関は盛んに活動し始める。事態を見極め、物事を正しく進めようという意識が強くなるのだ。現場を見る目が鋭くなり、そこからは彼の推理がどう進んでいくのかという関心が俄然強まるのである。ミステリーとしての興趣は、だから結末に近づくほどどんどん高まっていく。序盤でへこたれずに最後まで読み通して本当によかったと思える作品。力作だからぜひこれは読んでいただきたい。

 それ以外にもお薦めしたい作品は多々あるのだが、省略。一つだけ言わせてもらえれば諸君、ジョン・チーヴァーが出ましたよ、チーヴァーが。「ハヤカワ・ミステリ・マガジン」にも訳載された「泳ぐ人」が、なんと村上春樹訳で読めるのだ。『巨大なラジオ/泳ぐ人』は読まなきゃ絶対損です。

 

 毎年12月は無風地帯のように作品数が減るのですが、2018年は違いました。なんという充実ぶり。これはきっと予兆でしょう。2019年もきっと、読むべき作品がどばどば翻訳されるんだぞ、きっと。今年も七福神をぜひよろしくお願いします。(杉)

書評七福神の今月の一冊・バックナンバー一覧