今月は、黄金期の本格物三本立て、19世紀の古典、〈ドーキー・アーカイヴ〉、サキの長編2冊とバラエティに富んだ新刊が揃った。

■ルーパート・ペニー『密室殺人』


 ペニーの長編、邦訳4作目だが、本欄で扱うのは初めて。ルーパート・ペニーは、英国黄金期のミステリ作家で、別名義を含め9冊の長編を遺した。クイーンばりの「読者への挑戦状」を全作品に取り入れたことで有名。二次大戦中は政府の暗号学校で働きその後は政府機関に勤務したとあり、1941年に発表された本書は、ペニーの「白鳥の歌」となった。タイトルはそのものずばり『密室殺人』(原題 Sealed Room Murder) というところに作者の意気込みが現れているとみる。シリーズ探偵は、スコットランド・ヤードの主任警部エドワード・ビールだが、本書の語り手は、これまでと趣向を変えて、探偵事務所に勤務するダグラス・マートンを当てている。
 現われた依頼人は肥満体の派手な化粧をした未亡人。彼女は、所長の伯父がかつてプロポーズをして断られた美貌の曲芸ダンサーだったと聴いてダグラスはびっくり。夫の親族全員と同居している彼女は、ミンクのコートを切り取られるなどのトラブルに悩まされていた。ダグラスは犯人を見つけるために〈樅の木荘〉に向かう。
 本書を一人称にしたのは成功だろう。伯父の社長との愉快な会話から始まって、探偵稼業見習い中のダグラスのユーモラスな筆致で〈樅の木荘〉の住人が紹介されていく。横柄で暴言屋で誰もが嫌っている未亡人の周囲には、互いにいがみあう家族がいたが、その掃きだめに美しい娘がいた。亡き夫の姪に当たるリンダは当初は冷ややかな反応だったが、徐々にダグラスに心を開いていく。引き続き起こるトラブル、捜査と併せて、二人の恋の成行きは、半ばまでの読みどころでもある。
 密室殺人が発生するのは、物語も2/3も過ぎた辺り。被害者は、完璧な密室で刺殺されていた。ここでビール主任警部登場と相成る。幕間では、「完全な解決に必要なデータはすべて、ここまでの章に含まれている」と宣言される。果たして、ビールがたどり着いた真相は――。
 本格ミステリの神がいるとするならば、まず、明かされるトリックに微笑を浮かべるだろう。いや、笑いやすい神なら腹を抱えるか。同じような作例もあるが、ここまでの徹底ぶりには見とれてしまう。前半部を読み直してみて、その仕込みぶりにまたニッコリ。このトリックを成立させるために、作者は涙ぐましいほどの努力を積み重ねているのである。凡事徹底が生み出す凄味。さらに、フェアプレイも怠りなし。大胆すぎる手がかりがあるし、スラプスティック風のシチュエーションにも謎解きの鍵を忍ばせているのは、カーを思わせる。作者のフェアプレイ精神にも、神はまた莞爾と微笑むだろう。
 ウイットの効いた筆致、生彩ある登場人物にボーイ・ミーツ・ガール、遊び心満載のトリックと練り上げたプロットにフェアプレイ、良いものを読ませてもらいました。これが作者の最後の作品となったことが惜しまれる。

■クレイトン・ロースン『首のない女』


 密室派として四作の長編と魅力的な中短編を遺したクレイトン・ロースンの長編で、現在は最も入手困難になっている『首のない女』(1940) が原書房【海外ミステリ叢書 奇想天外の本棚】の第二弾として登場。全編これサーカス尽くしの作品で、サーカス・ミステリとしては、屈指の一冊だ。
 「首のない女」という奇術道具を買いに来た女の行動に不審を抱いたグレート・マリーニと友人ロスは、女を追って、巡業中のサーカス団へ。サーカスでは団長の不可解な自動車事故が起きており、二人は続く事件に巻き込まれる。
 舞台は、リングが三つある大規模なサーカス団。綱渡りに空中ブランコ、戦車レースに、ベリーダンサー、動物の一団、首狩り族にフリークスたち。なんでもござれの不思議の国を楽隊の音楽と前口上が彩る。サーカスを出自とする奇術師探偵マリーニは旧知の団員とも出逢い、テンション高く行動する。
 冒頭のヒット演目「首のない女」の描写がなかなか圧巻。短いショーツとブラジャーを身に着けた椅子に座っている若い女の肩から上はゴム管とガラス管が出ているばかりで、あとは虚空があるばかり。でも神経刺激によって手は激しく動くのだ。
 この首のない女の演目から、後半の「首のない死体」事件まで一本の太い筋を通しているのが本書の面目だろう。
 ロースンの長編は、大ネタ小ネタ取り揃えて盛り込みすぎ、ごちゃごちゃした感を受けるときもある。本書も、数多くの登場人物にあやしげな振舞いをさせ、事件の背景となるプロットも錯綜しているせいで、そうした憾みがなきにしもあらずだが、それだけに、読者にもどかしい思いをさせながら、意外な犯人が次々に浮上してくる終章にはカタルシスがある。加えて、象の脱走事件やミイラの存在などサーカスという特殊設定を謎解きに最大限に生かす手腕も冴えている。
 本書には、ロースンの別名義スチュアート・タウン(囚人上がりの作家という設定) が重要人物として登場したり、後半では殺人容疑で捕らえられたマリーニが独房からの脱出を披露するといったお楽しみもある。長編数本分のアイデアとサーカスの楽しみが詰まったサービス精神あふれる快作。

■アンソニー・アボット『世紀の犯罪』


 アンソニー・アボットは、本格ミステリ好きにとっても、名のみ伝わるアメリカ黄金期の作家といっていい。長編の邦訳は、戦前に抄訳された『世紀の犯罪』(1936) しかない。本書『世紀の犯罪』(1936) は、その完訳版。
アボットの生んだ探偵、サッチャー・コルトはニューヨーク市の警察本部長。アボットが秘書役で記録係という設定。彼が活躍する長編は8作が遺されており、本書はその第2作。
 コルトはマンハッタン中心部の五階建ての屋敷に住む、独身、多趣味の美食家。その造型は、ヴァン・ダインの創造によるファイロ・ヴァンスを強く意識しているものと思われる。あちらが素人なら、こちらはプロ中のプロでというところか。警察本部長というトップの立場で個別の事件に関わることはまずないと思われるが、本書での活躍は現場の警部さながらだ。
 NYのイースト川を一組の男女の死体がボートで漂っているところを発見される。男は牧師、女は美貌の聖歌隊員。ともに既婚者で不倫が疑われていた。男は射殺、女も射殺だったが遺体の頭部と胴体はほぼ切り離されていた。心中ではありえない。
 事件は、ヴァン・ダインの初期作が実話をヒントにしていたように、ホール/ミルズ事件という実話に材を得たものという。
 「本格」という思い込みがあったから、読んでみて意外だったのが、ドキュメンタリータッチの警察捜査小説的展開だ。どこから流されたとも分からないボートだったが、コルトがボートの中の落ち葉に着目することで、犯行現場が特定され、やがて被害者の身元が判明。被害者たちの家族との関係、男女の葛藤が徐々に浮かび上がってくる。組織を駆使した大がかりな捜査によって、犯罪の背景がダイナミックにせりあがってくること自体の面白さ。事件の発覚から真相の解明までがおよそ二日間というのも、息をつかせない要素になっている。
 些細な手がかりからコルトは真相を悟るのだが、それ自体が結末まで隠されているため、読者がコルトと同様の結論に行きつくことは難しいだろう。しかし、真相は納得度の高いものだし、「真犯人」の黒々とした悪意が胆を冷やす。
 リアリズムを重んじながら、謎解き要素も強い警察捜査小説のはしりとして成功していると思う。
 ただし、警察の飛行機による列車追跡といった大がかりな捕物もあり、マスコミの好餌となるようなスキャンダラスな犯罪とはいえ、「世紀の犯罪」(The Crime of the Century) とはやや盛りすぎかもしれない。

■ファーガス・ヒューム『二輪馬車の秘密』


明治時代から横溝正史の訳も含め何種かの邦訳があるが、完訳版は今回が初めてという。ファーガス・ヒューム『二輪馬車の秘密』(1886) は、19世紀で最も売れたミステリ。訳者解説によると、メルボルンで自費出版された本書は、翌年英国で発売され、作者の生存中に75万部が売れたという。このようなマイルストーン的作品がプリント・オン・デマンド(POD) の形で誰でも手に取れるようになったのはありがたい。
 しかし、『二輪馬車の秘密』の評判は、あまりかんばしいものではない。ファーガス・ヒューム/波多野健編・訳『ピカデリーパズル』の項でも書いたが、ハワード・ヘイクラフトなどは、「劣悪な三文小説」「今日ではほとんど読むにたえず」と断じている。
 ミステリ的趣向も素朴なら、主要登場人物のキャラクターは俗流、人々を支配するモラルも19世紀的にすぎ、随所で引用される聖書や文学の知識がひけらかしのようで煩わしい、といったところが低評価の理由だろうか。
 でも、ミステリの様式が複雑高度化した時期からさらに時間を経た今日の眼でみてみると、本書は、ミステリの原型的な力を見せつけるような小説と思えるし、当時の大ベストセラーになったことも頷ける。
 メルボルンを走る二輪馬車から泥酔した男の死体が発見される。容疑は、男と恋敵だった青年にかかるが、彼は事件当時のアリバイについて一切口にしようとしない。なぜ、彼は口を閉ざしたままなのか。
 冤罪の青年。彼を救おうとするその美貌の婚約者と青年の親友である弁護士。とくれば、現在でも十分通用する骨太のプロットで、小説半ばの裁判のシーンを頂点として展開する物語の進行は、十分興味深い。ゴービーという刑事の捜査が青年を追い詰めるのだが、彼の活躍を快く思わない同僚の刑事がいて、その警察内部の反目を利用して青年を救けだそうとする、というのも何やら今日的だ。のべつまくなしに親戚の話をしている下宿のおかみのように印象的な人物がいるし、メルボルンの闇、スラム街がヴィヴィッドに描かれ、その奥深くに鎮座する老婆のキャラクターの存在感は強烈だ。
 裁判の後に、真犯人は誰かという興味がつながれ、大方の読者はその見当をつけると思うが、予想と少し違う結末が用意されている。事件の核心にあるのは、家族のスキャンダルだが、これも当時の読者の好奇心を刺激するには十分だったはずだ。
 ショッキングな発端、捜査、冤罪、裁判、上流社会と下層社会の対比、家族の醜聞…現代ミステリにも脈々と受け継がれる諸要素を「真相の探究」という骨太のストーリーラインで織り上げ、人々を熱狂させた最初期の長編ミステリとして、本書が今日でも示唆するものは少なくないはずだ。

■E&H・ヘロン『フラックスマン・ロウの心霊探究』


 これはまた珍しい物が出た。E&H・ヘロン『フラックスマン・ロウの心霊探究』(1899)は、心霊探偵/オカルト探偵物の先駆けの短編集。さらに先祖はいるらしいが、A・ブラックウッド『心霊博士ジョン・サイレンスの事件簿』(1908)、W・H・ホジスン『幽霊狩人カーナッキの事件簿』(1913) といったゴースト・ハントの巨頭に先んじている。
 作者E&H・ヘロンは、英国の作家ヘスキス・プリチャードと母親ケイトの合作ペンネームという珍しいもので、ミステリの邦訳としては、カナダの森のシャーロック・ホームズという異名をとる主人公の連作『ノヴェンバー・ジョーの事件簿』がある。
 フラックスマン・ロウは膨大な数の超常現象を体験した心理学・心霊学の大家。いわゆる超常現象の謎を自然の法則にのっとって解き明かそうとする独創的アプローチを試みる。といっても、超常現象を詐術として暴くのではなく、幽霊が存在するとしてもどんな幽霊がなぜ取り憑いたのかを解き明かすという形なので、謎解きを期待するむきには、やや刺激に欠けるかもしれない。
 その分、怪事の描写には筆が割かれている。冒頭の「ハマースミス「スペイン人館」事件」は、幽霊の出現するという屋敷にロウが泊まり込む。ベッドで寝ているロウのところに、「どっしりと重く、どろどろとした体を」したものが膨張して広がるようにして移動をしてきて二つのガラスのような目に見下ろされる。なぜこのような現象が出現するのかについてロウが謎解きをするが、怪異のインパクトのほうがまさっている。
 おおむね、ロウの説明はあっさりしたもので拍子抜けするものもあるが、怪異の組み合わせのアイデアが光る「バエルブロウ荘奇談」、連続死の謎が心霊現象を排して解かれる「グレイ・ハウスの事件」などは謎解き的にも面白い。ラスト二編には、カルマーケーン博士という悪の心霊学者が登場し、ロウと決闘を繰り広げるが、これは、ホームズとモリアーティ教授を意識したものだろうか。
 それにしても、屋敷に幽霊が存在することを疑わない登場人物が多く(先祖伝来の家に幽霊がいることを誇りにしている者までいる)、怪事と闘おうとする勇者も多い。ロウの冒険物語も心霊主義が全盛期を迎えた19世紀末の時代の写し絵にもなっているのかもしれない。

■ジョン・メトカーフ『死者の饗宴』


 純然たるホラーはこれまでほとんど取り上げていないが、〈ドーキー・アーカイヴ〉叢書の第6弾ということで触れておく。
 本書は、ジョン・メトカーフの「怪異談・幽霊物語・超自然小説を集成する本邦初の短編集」。メトカーフは数冊の長編と短編集を遺し、精神病院への入退院を繰り返し、晩年は不遇のうちに死んだ英国の小説家で、我が国での(本国でも)知名度は高くないようだ。(その経歴は横山茂雄氏の「解説」に詳しい) ドロシー・L・セイヤーズはそのアンソロジーにおいてメカトーフの「ふたりの提督」を収録し、「常套的な『亡霊悪鬼』の道具立て」を排除した「現代的」怪談の好例」と称揚したという。
 本書にも収録されている「ふたりの提督」はこんな話。引退した海軍提督を海辺の家に訪れた主教は提督の家で心霊家と出逢う。提督は茶色の忌まわしい染みが見え、「あれ」のせいで死にかけているという。翌日、小型帆船で海に出た三人は、向こうに瓜二つの船があり、船上には三人組がいて、それが彼ら自身だと知る…。読者にめまいのするようなビジョンを見せる一種のドッペルゲンガー譚だが、それがなぜ生じたかの説明はなく、一義的な解釈もできない。ロウの心霊探究のような世界からは遥かに隔たったところにある小説だ。
 こうした、「説明がない」のは、他の短編も同様で、読者の居心地を悪くさせ、「なぜ」がわだかまり、不可解な夢のような記憶として残ることになる。もちろん、説明がないことが常にこうした効果をもたらすわけではなく、やはり、幻惑のビジョンを生み出す語りの妙とかかっているということになろう。
 「悪夢のジャック」は、ビルマの邪神から盗んだルビーを発端とする話だか、罪が罪を、悪夢が悪夢を引き寄せるような事件を語る熱に浮かされたような語り口が忘れ難い。「悪い土地」は、ひっそりとした静かな湯治地に悪の国の中心を見出してしまう。主人公らに取り憑く狂熱の理由が判らないだけに、まとわりつくような不気味さが残る。「ブレナーの息子」は、主人公の経験する怪異に別種の悪夢が加わるのが意外だし、怖い。唯一の中編である「死者の饗宴」は、息子の生命力を吸い取る存在と闘う父親の話。ゆったりとした語りで、父親の不安を高めていく展開が効果的。
 時に熱く、時に静かにジェントルに語られるメトカーフの怪奇譚は、説明のできない幻視を読者に共有させ、忘れられない刻印を残すだろう。

■サキ『鼻持ちならぬバシントン』『ウィリアムが来た時』

 ここ数年、短編集が競って訳されるなどサキブームともいえる状況が続いていたが、今度は、これまで訳されることがなかった長編が二冊(しかも同時期に!) 刊行された。ミステリとはいえないが、これまでサキの短編集等を取り上げてきた経緯から、この二冊についても触れておこう。


 サキ『鼻持ちならぬバシントン』(1912)は、怠惰な鼻つまみ者コーモス・バシントンとその母親フランチェスカを主人公に据えた長編。母子の運命を描いてはいるものの、全17章は、彼らが属している階級、社交界のスケッチの積み重ねに近い。コーモスは学校を出ても定職につかず、周囲に迷惑ばかりかけている青年。フランチェスカは、変わり者の息子をもった運命を嘆いているが、現在の暮らしを維持するために、彼が金持ちの娘と結婚することを期待している。そんなコーモスに好意を抱いている金持ちの娘がいるが、コーモスが心酔している新進政治家も彼女に求愛していて……。
 サキのペン先は短編同様に鋭く、ほぼすべての人物がシニカルに描き出され、政治家も含め社交界の人間たちの俗物性が嗤われている。第15章の終りで娘のおばたちが放つ皮肉の痛烈なこと。
 コーモスのモデルはサキ自身であったかもしれない。自らの運命にすらサディスティックだったコーモスの描き方には痛みすら覚える。母子の絆は回復するが、その代償は大きすぎるものだった。それでも、母子の愛を肯定するラストには深い余韻が訪れる。

 サキ『ウィリアムが来た時』(1913) は、ドイツ帝国に支配された英国を描く一種のSF。ナチス占領下の英国が舞台のレン・デイトン『SS-GB』や、大日本帝国とナチスに分割占領された米国が舞台のP・K・ディック『高い城の男』のような歴史改変小説の先駆をなすものといっていい。もっとも、解説によれば、当時は「侵攻小説」というジャンルが最も流行しているときで、『ウィリアムが来た時』もこの流れに飛び込んだ小説である由。
 サキ版「侵攻小説」には、この特異な舞台から予想される要素はほとんどない。戦闘シーンは皆無だし、権力を握ったドイツがロンドン中に軍靴を響かせているわけでもなし、イギリスの社会や文化を蹂躙することも意図していないようだ。それどころか出てくるドイツ人は感じがいい。
 では何が描かれているかというと、おおむねは裕福な主人公夫婦が属する社交界の話。『鼻持ちならぬバシントン』の世界なのである。ドイツ占領下の社交界をシミュレートしそこで様々な反応をみせる群像がつくり出す社会は、それでも優雅な魅力を放つ別世界の趣がある。
 主人公夫婦の反応は正反対だが、英国人の二つの反応を象徴しているようだ。妻シシリーはドイツに占領された現実を受け入れ、多くの人が離れてしまったロンドンを活気づけて、社交界での地位を確固たるものにしようと行動する。社会の営みのただ中でいきることが彼女には愛国的なのだ。一方、帰国したばかりの夫ヨービルは、敗戦の事実が受け入れられない。しかし、戦う気力は残っておらず、妻に勧められるままに自然に親しむ暮らしを続けるうちに、「既成事実」になじんでいく。
 物語半ばで提示されるドイツ側の英国人の徴兵に関する「啓蒙」には、慄然とするしかない。それだけに、小説のラストを読んだ当時の英国読者には溜飲が下がる思いだろう。
 本書を書いた後、規定の年齢を過ぎていても自ら志願して一次大戦に参戦し、ドイツ兵に狙撃され死亡した愛国者サキにしてみれば、この小説で英国の体制に警鐘を鳴らしたかったことは明らかだ。
 しかし、当時の英国の体制への警鐘という側面をさし置いておいても、本書で架空のドイツがとった侵攻と馴致という戦略は、今日の世界でも至るところで繰り広げられているのではないかと思わせる。本書のもつ寓意は深い。

ストラングル・成田(すとらんぐる・なりた)
 ミステリ読者。北海道在住。
 ツイッターアカウントは @stranglenarita


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