【おもな登場人物】 |
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ウィリアム・モンク:私立探偵。元警察官。捜査中の事故で記憶を失っている。 ヘスター・ラターリィ:上流出身だが看護婦として身を立てている。ナイチンゲールの下、クリミア戦争で従軍看護婦として働いた。 オリヴァー・ラスボーン:ロンドンの敏腕弁護士。 レディー・キャランドラ・ディヴィオット:上流階級の未亡人。夫は陸軍病院で高い地位にあった。ヘスターのよき友人であり、モンクのパトロン。 |
20数年前に一度だけ、スコットランドに行ったことがあります。ヨークから列車でエディンバラ入りしたのですが、線路の脇に突然「ようこそスコットランドへ」という水色(=スコットランド王国旗の色)を基調とした看板が現れると、退屈なまでに真ったいらだった地形に起伏が見られるようになり、どんどん山がちな風景へと変わっていきます。「ブリット・レイル(Brit Rail)」だった列車はそこから「スコット・レイル(Scot Rail)」と呼ばれ(本来は別の鉄道会社ですが、地続きですので乗り入れていました)、街の看板類も「紺と赤」の組み合わせから「水色と白」の組み合わせに変わり、紙幣のデザインもまったくの別物に。ベッド・アンド・ブレックファストでは、シャワーユニットの説明をしてくれたランドロードから「ま、こいつはイングランド製だけど、ちゃんと動くから安心しなさい」と言われ、買い物に行けば「お支払いは? スターリング・ポンド紙幣? まあいいですけど」と言われ・・・・・・これがスコットランドなのねと感じ入りました。
古都エディンバラは、玄関口であるウェイバリー駅を挟んでニュー・シティとオールド・シティに分かれます。オールド・シティはその名のとおり、古い石造りの街並みで、エディンバラ城からホリールード宮殿までをつなぐ長い坂道を中心とした重厚な雰囲気がとても魅力的です。一方ニュー・シティは、道や建物が整然と配置され、緑が多く、明るい印象を受けました。それまでイングランドならではの、どこまでも続く草原と転がるヘイロールばかり眺めてきたので、エディンバラという街の立体感は、二次元から三次元へといきなり放りこまれたような不思議な気分を味わわせてくれました。またエディンバラのなかだけでも、灰色のグラデーションに彩られたオールド・シティと光に満ちたニュー・シティ、大砲をいただく要塞であるエディンバラ城と王族滞在用の優雅な居城であるホリールード宮と、対照的なものが間近で共存しているのがおもしろく、実に心惹かれる街でした。
そんなスコットランドへと本作で初めて旅をするのがヘスター・ラターリィ。彼の地の富豪ファラライン家の女主人メアリーが、ロンドンにいる娘のもとを訪れることになり、心臓に持病を抱える女主人のために、ヘスターはコンパニオン兼看護婦として雇われます。夜行列車でロンドンを発ち、朝早くエディンバラに着き、その日の夜にはまた列車に乗って女主人とともにロンドンを目指すという強行軍でしたが、ロンドン行きの車内ではメアリーの人間的な魅力にも触れて、ヘスターはかいがいしく彼女の世話をし、エディンバラの家族から受けた指示どおりに薬を飲ませて眠らせます。ところがロンドンに着いてみると、メアリーは亡くなっていました。薬が指示より余計に減っていること、ヘスターの荷物からメアリーの黒真珠のピンが出てきたことから、ヘスターは逮捕されてニューゲイト監獄に送られます。
エディンバラにほんの数時間滞在しただけの彼女が、イングランドとの違いを身をもって知ったのは、皮肉にも裁判の場でした。スコットランドの事件はスコットランドの裁判所で裁かなければならず、被告がイングランド人であっても弁護人はスコットランド人でなければならないというのです。オリヴァー・ラスボーンには頼れないとあって、ヘスターはもちろん、キャランドラもモンクも、そしてオリヴァー自身も絶望しますが、キャランドラが雇った現地の弁護人アーガイルとオリヴァーが協力して証人尋問の戦略を立て、モンクはファラライン家に乗りこんで真犯人探しに取り組みます。
ファラライン家のメンバーは長男夫婦、長女夫婦、独身の二男、二女夫婦、メアリーの義弟ヘクターの8名。メアリーの夫ハーミッシュが始めた印刷業は、たった一代で並はずれた財を成し、長女夫妻、二男、二女の夫がその仕事を継いでいます。また長男は彼の地では知らぬもののない高名な検察官(Procurator Fiscal)であり、メアリー自身も人々の尊敬を集める存在でした。とはいえ、もめごとと無縁というわけではなく、長女の夫と二女はどうやら気持ちの上では愛し合っており、二女の夫はそれが気に食わない。二男には家族に認められない恋人がおり、さらに長男の妻は夜になると屋敷を抜け出して、階級の違う男と会っている・・・・・・。殺したのがヘスターでないとすれば、真犯人は家族のうちの一人ということになるのですが、だれもが怪しいながらも決定打に欠け、捜査は難航します。原題の The Sins of the Wolf はダンテの『神曲』で言及される「狼の罪」、つまりは強欲の罪を表しているのですが、メアリーを死においやったその罪とは・・・・・・?
過去のモンク・シリーズと大幅に異なるのは、「ヴィクトリア朝の女性が耐えてきた悲劇的側面」に光を当てるというよりも、むしろ「モンクとラスボーンの恋のさや当て前哨戦」といった様相を呈している点です。二人ともことあるごとに「ヘスターは結婚相手には向かない」「頑固でキツくて気が短いところが苦手だ」「でも正直だし、保身のための嘘なんぞ絶対につかない勇気がある」「この裁判で負けたらヘスターは絞首台送りだ。そんなことになったら!」と悶々とするのですが、二人の若いモンが考えすぎてとっちらかっているところを「まぁまぁ、論理的に」と落ち着かせるのが、オリヴァーの実父ヘンリー・ラスボーン。登場場面は少ないものの、本作でもいい味を出してくれています。それから、物語の終わり近くになって、モンクが過去の記憶をまた少し取り戻します。前作はこの点にまったく触れておらず、少々不満だったので、次作あたりでもう少し大きく展開してくれるといいなぁ・・・・・・。
本作は、モンクたちと一緒になって犯人を探すというよりは、思いがけない展開に一喜一憂して楽しむタイプのストーリー。モンクが捜査でオールド・シティを駆けまわるのですが、ネットで地図(現在のものでOK、画像地図だとなお臨場感あり)を眺めながら読むと、これが実にリアルで楽しいのでオススメです。景観維持に力を入れるお国柄、当時の道や建造物が、かなりそのまま残っているようですよ。なお、裁判シーンには、ヘスターの情状証人としてナイチンゲール本人がふたたび登場します。前作に続いてまたもや自分の元部下が事件に巻き込まれ、ナイチンゲールもたいへんですね。
◇遠藤裕子(えんどうゆうこ)出版翻訳者。建築、美術、インテリア、料理、ハワイ音楽まわりの翻訳を手がける。ヨーロッパ19世紀末の文学と芸術、とくに英国ヴィクトリア朝の作品が大好物。趣味はウクレレとスラック・キー・ギター。縁あってただいま文芸翻訳修行中。 |
●↑【原書レビュー】え、こんな作品が未訳なの!?・アン・ペリーの巻(その1)参照
●↑【原書レビュー】え、こんな作品が未訳なの!?・アン・ペリーの巻(その2)参照