前回担当月に、英国推理作家協会(CWA)賞の第1回はジョン・クリーシー賞(新人賞)もゴールド・ダガー(最優秀長編賞、当時の名称はクロスド・レッド・ヘリング賞)も未訳という話をしましたので、今回は最優秀長編賞、いってみましょう。『マーニイ』(映画化タイトル《マーニー》)、『盗まれた夜』(映画化タイトル《マロニエの別れ道》)のウィンストン・グレアムによる “The Little Walls”(1955年)です。第1回新人賞はCWAを見る目が変わった怪作だったけれど、さてこちらは?

 故郷イギリスを離れてアメリカで働くフィリップのもとに訃報が届きます。兄グレヴィルがオランダで運河に身投げしたと。幼い頃に両親を亡くしたフィリップにとってグレヴィルは親代わりでよく知る人、物理学者時代も、専門を変えて考古学者となってからも世界に知られる存在という尊敬してやまない相手で、エネルギッシュに活動していた兄がみずから命を絶つとはとても信じられません。帰国して身内やイギリス側の捜査担当者に話を聞くと、「レオニー」と署名された、謎の女からの別れ話を切りだす手紙を身につけており、この浮気が原因だろうと。けれども、兄が発掘調査を進めていたジャワ島からオランダへ同行させた助手のバッキンガムという男が失踪し、国外へ出た記録もない謎も残されている。バッキンガムはアジアでよからぬ活動にかかわっている噂のある男。警察の結論に納得できず、事故あるいは殺人を疑ったフィリップは、バッキンガムと面識のあるという元兵士コクソンを本人確認のために連れてアムステルダムへ。

 しかし、身投げには目撃者がいました。現場の歓楽街——De Wallen、壁と呼ばれる地区で飾り窓から女が見ていたのです。兄がその直前に橋の上で何者かと話をしていたことは聞きだしますが、フィリップは強面の者たちからこれ以上騒ぎたてないよう荒っぽく警告されます。やはりなにか裏があるのではないか? それとも、兄のことならば自分が誰よりも知っていると思っていたのはまちがいだったのかと、くじけそうな気持ちに。一度は諦めましたが、そこに匿名の情報が。「レオニー」の本名と彼女の行き先。兄の死の真相が知りたい一心で、フィリップは彼女を追ってイタリア・カプリ島へ。

 うん、第1回だから! ここまではアクションありのサスペンスなんですが、ここからちょっとしたクリスティーばりの舞台での愛憎劇に変身。グレヴィルの死の真相は大事なアイテムではあるけれど、本作の中心は謎解きではありません。自分を律する心、あるいは道徳心の小さな壁が崩れる瞬間は誰にでも訪れること、さらには義務と自己犠牲といった心理面の葛藤がメインです。体面や因習がどれだけ足枷になっているかも。それに旅の要素や、当時のオランダとインドネシアの関係など時代背景もいま読むと新鮮でいい。でも、お話の組み立てが、ちょっとぐだぐだしているのです。そして、テーマを押しだしたクライマックスとはいえ、最後の見せかたは気になる。なんだかですね、正統派フレンチのシメに茶そばが出てきて違和感、みたいな。このストーリーをそう締めくくった?! という驚きはある。今回映画で《マーニー》だけ観なおしたんですが、ああいう神経症的な恐怖というのともちがっているし——いや、人は問題のある人に惹かれるものなのです、という点では本作にも共通点があるか。ただ、ミステリのツボがいくつもあるだけに、あとほんの少し比重がちがっていたらなおよかったと思わずにいられません。ボンクラ? もしやきみはボンクラですか? の主人公がまわりくどいと感じてしまう場面もあるけれど、ラスト近くで彼が見せる鋭さは注目していい。

 ポケミスなどから数冊の邦訳があるグレアム(2003年没)、”Poldark”という歴史小説シリーズをかつてBBCが何シーズンもドラマ化して人気だったそうですが、来年の予定でふたたびBBCでドラマ化決定とのこと。非シリーズの本作品にもその影響があったのか、この9月にkindle版が登場しています。いま日本でどうかと訊かれたら難しいでしょうと答えますが、ペーパーバックで250ページと長くない分量ですし、記念すべきCWA第1回受賞作ですから、押さえておく、というのはアリでしょう。というか、誰か読んで! ねたばれで語りたい、まだ5倍ぐらい言いたことがあるの。

三角和代(みすみ かずよ)

ミステリと音楽を中心に手がける翻訳者。10時と3時のおやつを中心に生きている。訳書にカーリイ『イン・ザ・ブラッド』、サントーラ『フィフティーン・ディジッツ』、テオリン『赤く微笑む春』、カー『曲がった蝶番』他。ツイッターアカウント @kzyfizzy

 

●AmazonJPで三角和代さんの訳書をさがす●

【原書レビュー】え、こんな作品が未訳なの!? バックナンバー一覧