東京創元社創立60周年(祝!)記念新訳として、復刊されたのが、パトリック・クェンティン『女郎蜘蛛』(1952)。
よく、子供の誕生記念にワインを買い、成人の記念日にあけるというような話を聞くが、本書は、版元ががこの年のために、あえて眠らせ、熟成させていたのではないかと思うほど、今が飲みごろのヴィンテージ・ミステリの逸品である。
飲みごろというのは、ほかでもない。第一回目の本欄で「21世紀の奇観」と冗談めかして書いたように、演劇プロデューサーと女優のカップル、ピーターとアイリスのダルース夫妻のシリーズが近年続々と紹介され、ほぼその全容が明らかとなっているからだ。
『迷走パズル』で出会った二人が結婚し、ピーターが第二次大戦に出兵、アイリスの出奔もあるなど、時を重ねたカップルが、主役を張る最後の作とあれば感慨深いものがある。(『わが子は殺人者』には、脇役として登場する)もちろん、本作から読んでも何の問題もない。
このシリーズの特徴を「パズル」から「性格重視のサスペンス」へと一言でくくってしまえば簡単なのだが、ことはそう簡単ではないことは、本書が、サスペンスとともに謎解きにも力点を置いていることからも明らかだ。
ピーター・ダルースは、妻のアイリスが母親の静養に付き添うためジャマイカに発ったその日、あるパーティで、作家志望の娘ナニーに出会う。ナニーの境遇に同情したピーターは、自分の不在の日中、夫妻のアパートメントで執筆することを許す。数週間が経って、アイリスを空港に迎え帰宅すると、寝室のシャンデリアに、アニーの遺体がぶら下がっていて……。
いくら同情といっても、妻の不在時に、日中だけとはいえ、部屋を貸すかという疑問が起こるのだが、そこは、ナニーが大変魅力的に描かれている。かわいくもないし、化粧っけもない。けれど、賢く、いじらしい。グリニッジ・ヴィレッジの安部屋で明日を夢見る存在として描かれているのだ。
ピーターは周囲から浮気者の烙印を押される。妻のアイリスも当初はピーターを信じていたが、あることをきっかけに、俄かに雲行きが怪しくなってくる。さらに、当初、自殺と思われたナニーも、他殺の疑惑が出てくる。
過去のナニーとの関わりの一つ一つが次第にピーターを追い詰め、首にかけられた縄が次第に引き絞られているいくような展開。罪ともいえぬ過去の罪が、もがけばもがくほどピーターを追いつめていく。
事態に一筋の光明が見え、全容解明かと思えば、また遠のく真相。終盤は、局面が進むにつれ、事件の構図がカレイド・スコープを回転させるように変化し、終幕で絶妙の着地をみせる。真相が明らかになって、タイトルが意味するものを超える、恐ろしい構図が浮上するのには、膝を打つはずだ。
ピーターが殺人犯と疑われ、真犯人捜査に乗り出すというのは、筋立てだけとれば、『人形パズル』と同じだが、限られた登場人物と巧緻な罠の設定、舞台劇であるかのように登場人物の性格を際立たせる終盤。いずれも、洗練度を増している。後年の秀作『二人の妻を持つ男』に並びうる作品だ。
本作では、後年のクェンティン名義の作で活躍するタラント警部が登場し、いぶし銀の魅力をみせるが、主人公ピーターとアイリスに、作者がさよならを告げた理由は推測できる。迫真のサスペンスを志向するとき、シリーズ・キャラクター的なものは、お荷物になりかねない。ピーターやアイリスが殺人犯や被害者になるわけがないからだ。しかし、『女郎蜘蛛』はシリーズ・キャラクターが生み出す安定感と、そのことで受ける制約という天秤のギリギリのところで、見事に成立している。その微妙なバランスこそ、本書を価値あるものにしている。
バルバラ『赤い橋の殺人』(1858)は、フランス19世紀半ばの知られざる古典の本邦初訳。
本国フランスですら百年以上の間、忘れ去られていた作品だが、その復権には、本書訳者の亀谷乃理氏の博士論文が大いに力あったという。現在では、フランス人にとっての古典の一冊となりつつあり、英訳、スペイン語訳もされて、世界中で読まれている由。
作者は、20代半ばで、放浪芸術家(ボエーム)の仲間入りをし、ボードレールらと交流。それまでのロマン主義、理想主義に抗して新たな道を模索したグループの一員であり、ポーに傾倒した小説家。
本書は、題名のとおり、「殺人」にまつわる罪と罰を扱った小説であり(同様の主題を扱った『罪と罰』(1866)のドストエフスキーも本書を読んでいた可能性があるという)、探偵小説的興趣もある。
世界初の長編探偵小説といわれるエミール・ガボリオ『ルルージュ事件』(1866)に先駆けた中篇であり、ミステリ史的観点からも注目すべき一冊だ。
貧窮にあえぎながら文学者をめざす主人公マックスには愛する未亡人ティヤール夫人がいるが、あるとき、彼女の亡き夫が放蕩のあげく財産を使い尽くしセーヌ河に投身自殺したらしいと知る。
同じ頃、マックスは、かつての友人クレマンと出会う。傲慢さと利己心で周囲から忌み嫌われた人物だが、今は死人のような顔をし、堕落の気配が強く漂っている。
物語は、マックスとクレマンの関わりを軸に進む。職を得たクレマンは次第に金回りがよくなり、社交界の中心人物のようになっていくが、クレマン夫人のロザリは病身で、夫の成功とは逆に次第に憔悴していく。クレマン主催の夜会の席で、予審判事が担当した過去の殺人事件の逸話を披露したとき、周囲の者には異様な動揺が訪れる。
訳者による解説では、本書がもつ探偵小説、暗黒小説もしくは恐怖小説、哲学的な心理小説などの側面が懇切に説明されており、多様な読みを誘発する小説であることは間違いない。
「神を呪い挑戦した」とする急進的無神論をめぐる哲学的対話や当時の放浪芸術家の寸描も興味深いが、やはり、本書の白眉は、犯人の告白の章だろう。ゲームとしてのミステリからは、すっぽり抜け落ちてしまう、罪にまつわる苦悩と絶望が、告白者の身体的苦痛を浴びせるような迫力で描き出されている。それが単なる悔恨ということを超えて、リアルな幻覚、幻影を伴い告発者を追い詰める恐怖のヴィジョンとし提示されているところに、本書のもつ現代性が感じられる。まさに、「現実と夢が混じり合い、恐怖を増大させる」のだ。
特に、物語半ばに登場する知性なき冷ややかな子供への愛情と憎悪が入り混じったおののきは、恐怖の醸成に多大な効果を挙げており、ポーの「黒猫」の影響も感じられる。
探偵小説的観点からも、告白の章は興味深い。それは、「赤い橋の殺人」に至る経緯と犯行の謎の解明であるとともに、犯罪がもたらす苦悩、絶望、恐怖が犯人に押し寄せるメカニズムもまた解明されているからだ。実は、この小説における最大の謎は、神を信じていない人間が犯した罪がなぜその人間を魂の地獄に追いやるのか、という一種パラドキシカルな謎であるともいえるのだ。そのことは、小説の早い段階で暗示もされている。犯人はまるで自ら探偵であるかのように、思考を重ね、事実を再構成し、自らの陥った地獄への道筋を語るのだ。
本書の殺人者の姿に、20世紀の神なき地で実存の重みに痙攣する犯罪者たち、例えばジム・トンプスンの小説の主人公たちの遥かなる原型を見い出すことも可能だろう。
ストラングル・成田(すとらんぐる・なりた) |
---|
ミステリ読者。北海道在住。 ツイッターアカウントは @stranglenarita 。 |