「ミステリジャンルにおける至高なる狂える天才」(ネヴィンズJr)といわれたハリー・スティーヴン・キーラーの長編で初お目見えだ。

 長編70冊以上を物したこの作家は、その奔放で独創的、マッドで孤高の作風から、後年、史上最低の探偵小説家とか、ミステリ界のエド・ウッド、といった評価もされ、海外では一部のコアなファンもついているようだ。

 一方で、キーラーは、同時代の評価を得ていなかったわけではない。サザランド・スコット『現代推理小説の歩み』では、「彼は(控え目にいっても)多くの天才的なプロットを案出している」とし、The Amazing Web(1930)については、「真に偉大な推理小説といってよい」と絶賛、30年間の優れた現代推理小説25冊の一冊に同作を選んでいるほどである。

 30年代はそれなりに人気作家で、40年代以降、発表の場が狭められていったというのが、実相のようだ。

 サイテーなのか、唯一無二なのか、初紹介となるキーラーの長編は、果たして。

 キーラーの長編第15作『ワシントン・スクエアの謎』(1933)は、次のように始まる。

 シカゴのワシントン・スクエアのベンチに、フォード・ハーリング青年は、腰かけている。仕事での大きな失敗を挽回するために、その手がかりを追ってサンフランシスコからシカゴにやってきたのだが、もはや持ち金は尽き果てている。そんな彼の前に、一条の光明が差した。

 たまたま目にした新聞に、自由の女神の頭像が12個しかないエラーの白銅貨(市販価格(2015/06/23 08:33時点)30セント)を売ってくれれば1枚につき5ドル支払うという奇妙な広告が載っていたのだ。幸運なことにフォードはその白銅貨を持ち合わせていたが、広告主のところへ向かうタクシー代もない。金目の物でも見つけようと、近くの廃屋に忍び込んだフォードは、右目に帽子留めピンが突き刺さった男の遺体を発見してしまう。その場で警察官に踏み込まれた、フォードは、なんとか脱出するが…。

 スティーヴンソン『新アラビア夜話』のように、奇譚風の冒険が始まるような出だしである。実際のところ、ハーリングは、殺人事件をめぐる謎と冒険に巻き込まれるのだが、彼が渦中に身を投じるのは、奇譚が奇譚を呼ぶというような世界なのだ。

 キーラーのユニークな作風の特徴として挙げられるのは、webwork という、自ら命名した手法。いくつものエピソードを積み重ねて、組み合わせていく手法のようで、説明を読んでもピンとこないのだが、本書も、この webwork の手法が用いられているらしく、キーラーの目論見がおぼろげながら了解できる。

 殺人現場から脱出を図ったハーリングは、ある女が運転するロードスターの後部にへばりついて難を逃れるのだが、運転している女は、帽子留めのピンの一部を手にしている。何たる偶然。さらに、新聞記事で殺された男がハーリングの探していた男だと判明する。これまた、唖然とするような偶然が連鎖するストーリー。

 ストーリーの進行とともに、白銅貨にまつわる不思議な広告、ハーリングがカリフォルニアからやってきた奇妙な顛末、眼を刺された死体、ルビーの盗難事件、偽札騒ぎといったエピソードが次々と手繰られ、引きずり出される。

 予期せざる進行、奇譚の数珠つなぎのような構造が特徴的なのだが、それを可能にしているのは、「偶然」の多用である。ストーリー上の偶然の連鎖に加えて、何章か後で登場人物やエピソードが実に意外な回路で結びついているというプロット上の秘められた偶然も多数。

 普通の作家であれば避けるであろう「偶然」を、何のためらいもなく、むしろ自らの武器である、とばかりに多用する作風は特異というほかはない。結果として、一つの奇譚が複数の奇譚を生み出し、実は奇譚同士が意外な糸で連結されている、という蜘蛛の巣のようなプロットが生成されている。 

 本書には、クイーンばりに、「読者への挑戦」が挟み込まれているが、それが作者のいうように、「公明正大なる」ものかは読んでのお楽しみ、というところだが、意外すぎる犯人に、意外すぎる犯行方法、意外すぎる犯行動機に、お手軽すぎるハッピーエンドは、読者の苦笑を呼ぶこと必至にしても、作者の特異な小説作法によく見合っているといえなくもない。

 この作品がキーラーの作品群の中で、どのような位置を占めるのかは、よくわからないが、筆者には、単に下手くそなミステリとは到底思えない。作者がプロットの氾濫と偶然の多用に、あまりにも確信犯的にすぎるからだ。探偵小説に必須とされる「必然性」という神経細胞を意図的に断ち切ったときに、どのような探偵小説が生まれるのか、後続がなかったオルタナティヴをキーラーは示していると、捉えたい。

『真紅の輪』(1922)は、今年紹介された『淑女怪盗ジェーンの冒険』に続く、エドガー・ウォーレスの作。事前の予想では、時代がかった通俗スリラーだろうと思い、それはそうには違いないのだが、予想を上回る面白さだった。

 ロンドン市民は犯罪組織〈クリムゾン・サークル〉に恐れおののいていた。この謎の組織は、命と引き換えに多額の金銭を要求し、拒否した数人が既に抹殺されていた。探偵を雇い万全の体制を組んだはずの富豪も、また殺害される。ロンドン警視庁のパー警部と私立探偵イェールは、組織の秘密を暴き、首領の正体を暴けるのか。

〈クリムゾン・サークル〉は、百人近くの様々な階層の人間からなっているが、誰がサークルの一員かを知っているのは、首領と本人だけ、という設定がいい。主要登場人物のいずれも、組織の人間かもしれず、互いに疑心暗鬼のサスペンスが生まれる。探偵役イェールの設定もこの時代にしては風変り。物から人の心象風景を読み取る超能力者、サイコメトリー探偵なのだ。

 いくらでも大風呂敷を広げられるような設定だが、物語は、女泥棒タリア、彼女に恋する富豪の息子ジャック、パー警部とイェールの関わりを軸に進行するのも好ましい。なかでも、美貌の娘タリアは謎めいた存在としてよく描けており、彼女の動向からは目が離せない。突飛なトリックを使った密室殺人や、不可能犯罪めいた事件を差し挟みながら、物語はクライマックスに。〈クリムゾン・サークル〉のメンバーたちが教会に集結するシーンはなかなか圧巻であり、真相も工夫されている。全体としては、乱歩の通俗物長編によく似ている。 

 現代でも、すべてを操るラスボス追及の物語が陸続と生まれているが、この作品は、その源流の一つともいえ、古びない物語の力を保っている。

 どういうわけか、最近、イギリスの小説家サキの新訳が3冊続いたので、簡単にご紹介。いうまでもなく、O・ヘンリーとも並び称される短編の名手。たとえば、「スレドニ・ヴァシュタール」が、ポストゲイト『十二人の評決』で重要なモチーフに使われているように、その奇妙な味やユーモラスな残酷さは、ミステリとも親和性が高く、ファンにもおなじみだろう。

『レジナルド』は、サキの第一短編集プラス1作のレジナルド物の集成。一編を除き、本邦初訳という。英国上流生活の諸相をレジナルドが論評していくというスケッチ的な作品集で物語的妙味には乏しいが、観察眼と批評の鋭利さは、後年を思わせる。本書が「サキ・コレクション」の第一弾になるようだ。

『クローヴィス物語』は、サキの第三短編集。オリジナルの短編集が紹介されるのは実は初めてだという。(その後、上記が刊行された)皮肉屋で悪戯好きの青年クローヴィスを狂言回しにした作など28編収録。オリジナルで味わうと珠玉作とばかりはいえないが、サキのもつ多様性、嗜好や構えといったものが伝わってくる。クローヴィスの造形は、明らかにレジナルドを発展させたものだろう。エドワード・ゴーリーの挿絵つき。

『世界名作ショートストーリー サキ 森の少年』は、子どもや動物がメインキャストを務める作品を中心に選ばれた、若い世代向き選集。定評作中心に並んでおり、入門編としてうってつけだ。

ストラングル・成田(すとらんぐる・なりた)

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 ミステリ読者。北海道在住。

 ツイッターアカウントは @stranglenarita

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