La danseuse du Gai-Moulin, Fayard, 1931[原題:ゲー・ムーランの踊り子]

『ゲー・ムーランの踊子 三文酒場』安堂信也訳、創元推理文庫155、1974(合本)*

『リエージュの踊子』伊東?太郎訳、京北書房、1946

『ゲー・ムーランの踊子』安堂信也訳、創元推理文庫155、1959

Tout Simenon T17, 2003 Tout Maigret T2, 2007

映画『Maigret und sein größter fall(Maigret fait mouche)』アルフレッド・ワイデンマン監督、ハインツ・リューマン、フランソワーズ・プレヴォー出演、1966[メグレ最大の事件(メグレの快心打)]

TVドラマ 同名 ジャン・リシャール主演、1981(第51話)

コミック『Maigret et la danseuse du Gai-Moulin(Maigret #4)』Odile Reynaud脚色, Philippe Wurm作画, Luce Daniels彩色, Éditions Claude Lefrancq, 1994

 彼女はもともと美しくはなかった。ことに、すり減ったスリッパをつっかけ、着古した部屋着をひっかけたところはとても美人とは言えない。しかし、このうちわ(斜体部は傍点)のなげやりな様子が、かえって、ジャンには魅力的だった。

 彼女は二十五、六か、もう三十になるだろうか。いずれにしろ、これまでにいろいろな生活をして来たらしい。(中略)

 彼女の性格を支配している特徴は倦怠で、その碧(みどり)の目にも、唇にたばこをはさむ、むぞうさなしぐさにも、ちょっとした身ぶりや微笑にもそれは、はっきりと読み取れた。

 ほほえみかける倦怠、それがアデールだったのだ。

 これはなんとも、ずいぶんな変化球を放ってきたものだ。

 連載第4回で紹介したように、作者シムノンは1930年ころからメグレシリーズを立て続けに書いてきたわけだが、『オランダの犯罪』をピークに、作者のメグレシリーズに対する情熱が冷めつつあるように思えるのは気のせいだろうか。2ヵ月ぶりに執筆再開された本作は、なんと中盤までメグレが表立って活躍しない。物語はリエージュのキャバレー《ゲー・ムーラン》(楽しい風車小屋といった意味か)に入り浸っているふたりの思春期の少年が、不可解な事件に巻き込まれるところから始まる。

 ごく慎ましやかな暮らしを営むシャボー家の息子ジャンは、リエージュの公証人の事務所で働いている16歳の少年である。彼は裕福なデルフォス家に生まれた18歳のルネとつるんで夜更けまで遊ぶ仲だ。ジャンとルネはその夜もキャバレー《ゲー・ムーラン》に来ていた。ふたりは踊り子のアデールにほのかな思いを寄せている。

 深夜2時に店は閉まったが、ジャンとルネのふたりは店の地下室に隠れていた。売上金を頂戴しようと思ったのだ。しかし暗い店内に忍び込むと、そこに客のひとりが倒れているのを見つけ、ふたりは動転して店を飛び出す。あれは死体だったのではないか? 怯えながらジャンはルネと別れ、自宅に戻る。

 翌朝、リエージュ新聞を確かめたが何も載っていない。あれは幻だったのだろうか? ジャンは気が気ではなく、再びルネと会う。ルネは叔父からくすねてきたといって二千フランの金を見せる。昨夜の死体は誰だったのだろう? リエージュの人間ではなかったようだ。

 リエージュでは夕刊に前日の大きな事件が掲載される。ジャンが夕刊を買うと、驚くべき記事が載っていた。昨夜《ゲー・ムーラン》で見たはずの外国人の死体が、植物園で柳行李に入って見つかったというのだ。どういうことだろう? ジャンは混乱し、仕事も手につかない。つい踊り子アデールのアパートへと彷徨い込んでいた。アデールの部屋に招き入れられ、ジャンはそこで昨夜の外国人客が持っていたはずのシガレットケースを見つけて真っ青になる。しかしアデールは気にする様子もなくジャンの前で素肌をちらつかせながら着替えをしたりするだけだ。

 アデールの部屋を後にしたジャンは、肩幅の広い大柄の男が自分をつけていることに気づく。ひょっとするとあの男が殺人犯なのだろうか? 

 このように、ストーリーはジャンという16歳の若者を中心として進んでゆく。すぐに察しがつく通り、彼らを追っている大柄の男とはフランス司法警察のメグレなのだが、リエージュの警察もメグレの素性に気づいていないというのがちょっとひねりの利いているところか。ジャンは途中でリエージュの警察に捕まり、大柄の男が怪しいと証言することで、メグレは現地の新聞でも謎の犯人に仕立て上げられる。だがメグレは逆にその立場を利用して真犯人をおびき寄せようとするのだ。

 メグレが初めて私たち読者の前に姿を現した1930年のペンネーム作品「マルセイユ特急」連載第2回参照)も、犯罪に走る若者を中心に描いた作品だったので、本作はそのスタイルを振り返ったものといえるかもしれない。ジャンの若さを強調するためか、これまでの作品より全体的に台詞が多く、ジュヴナイルのような印象さえ受ける。だが一方で個々の登場人物の掘り下げは甘い。ジャン以外の人物は生彩を欠き、その行動にも説得力がない感じがする。本作の背景にはわりと大きな陰謀が用意されており、作者はジャンの小さな世界と対比させようとしたのかもしれないが、それもあまり成功していないように思える。

 冒頭で踊り子アデールの描写を引用した。混乱したジャンが彼女のアパートに行ったときの文章だ。「ほほえみかける倦怠」とはなかなかうまい表現だが、読者が惹きつけられるのはここだけで、作者がこれ以上アデールの内面へと分け入ってゆくことはない。致命的なのは本作においてメグレでさえその例外ではないことで、なるほどこれまでの長編を読めばメグレが意外と奇抜な捜査法を採ることはわかっているのだが、さすがにこれは奇抜すぎるのではないかと感じてしまうのがつらいところだ。せめてアデールとメグレが後半で存在感を発揮してくれたら、かなり読後の印象も変わったと思うのだが……。ラストの描写もどこかルーティンワークに入ってしまったかのようでパンチに欠ける。

 ただ、いくつか興味深い部分もあった。まず本作では作者シムノン自身が新聞記者として思春期のころ働いていたリエージュが舞台となっていることだ。リエージュは『サン・フォリアン寺院の首吊人』でも少し出てきたが、今回は地元のリエージュ新聞(原文も Gazette de Liège で、シムノンが働いていた新聞社と同じ)の記事が挿入されたり、街角で新聞売りが声を上げている場面が出てきたりする。ジャン自身は新聞社に勤めているわけではないが、新聞社へのご用聞きもやっているし、若き日のシムノン自身の面影が自然と重なってくる。リエージュにはいくつか新聞社があったらしいが、第6章の冒頭で、

 午後一時に、地方新聞がいっせいに出揃い、そのどれもが、第一面にセンセーショナルな見出しをつけていた。まじめなことをモットーとする《リエージュ新聞》には、(以下略)

 と書かれるあたりはシムノンの率直な声がつい出たかのようだ。そしてもうひとつ、ラスト近くで、メグレ夫人に妹がいることが判明する。

 本作はドイツの俳優ハインツ・リューマン主演で映画化されている。シムノンがメグレものの第1作『怪盗レトン』を書き始めたデルフザイルには1966年にメグレの記念像が置かれ、その除幕式には作者シムノンだけでなくイギリス・ドイツ・イタリア・オランダのメグレ俳優が参加した。パイプを銜えコートを着込んだメグレが並ぶ写真はファンにとって嬉しいものだが、そのなかのひとりにハインツ・リューマンもいる(こちらにその紹介がある http://www.trussel.com/maig/statue.htm )。リューマンは1902年生まれだそうなので、この映画のとき64歳。【註1】

 この映画版は最初からメグレの視点で物語が進んでゆく。まずパリの美術館でヴァン・ゴッホの絵画が盗まれ、警備員が殺される。その捜査にあたったメグレのもとへホロウェイ氏なる男が現れ、旅行中の自分を警護してほしいと願い出てくる。ホロウェイ氏についてローザンヌにやって来たメグレと部下たちが、当地の捜査に関わってゆく……という展開だ。ジャンとルネのふたりはメグレたちが地元のキャバレー《ムーラン・ブルー》に行ってようやく登場する。このうちジャンはメグレらの宿泊するホテルで昼間働いているという設定だ。

 時間も85分と短いし、基本的には低予算映画であると思う。だがこの映画だとメグレの奇抜な捜査があまり気にならないのはふしぎだった。メグレ視点で描けばこれまでの作品とさほど変わらないということか。ハインツ・リューマンのメグレは笑顔が優しく、嫌みのない演技なので、観る者の共感を得やすいのかもしれない。映画はロケーションをうまく利用しており、とくに《ムーラン・ブルー》のある石畳の坂道や、近代的なプールなどは記憶に残る。観ている途中はとりたてて何かいうほどの作品ではないと思っていたのだが、なかなかどうして、無造作につくっているようでいて、意外にきちんとできている気がした。【註2】

 というのも、原作と同様の展開を見せるジャン・リシャールのTVドラマ版が、あまりよい出来だと思えなかったからだ。今回初めてメグレ役のリシャールが鼻についた。この展開だとどうやってもパリからやって来た凄腕の警部が地元警察をばかにしているようにしか見えないのだ。もともとジャン・リシャールは眇めるような目つきで相手を見つめる演技を多用するのだが、それが今回ばかりはあざとく感じられる。ただ、このドラマ版はいちおうアデールが踊り子だという設定を活かして、彼女が自宅でエアロビクスのようなダンスをするシーンが入っているのは微笑ましい。シムノンの原作もハインツ・リューマン版の映画も踊り子という設定がほとんど役立っていないからである。それにジャンやルネが年上の女性に想いを寄せる、甘酸っぱく気恥ずかしい描写もちゃんとある。

 物語というのはほんのちょっとしたことで人を惹きつけもするし白けさせてもしまうのだということが改めてわかる。シムノンにしても本作でやっていることはいままでの作品と大差ない。だがそれらの技術がトータルな作品のよさに昇華しきれていない印象を受ける。やはり小説を書くというのは本当に難しいものだ。

 もうひとつ、本作にはコミック版(バンドデシネ版)もあるので紹介しておこう。

 メグレの物語はいくつかコミック化されているが、いま海外古書店経由で入手しやすいのは1992年から1997年まで5冊刊行された Claude Lefrancq[発音はクロード・ルフランクか]版だ。判型はレターサイズ程度のハードカバーで、オールカラー48ページ。この叢書からはアルセーヌ・ルパンやルールタビーユもののコミックも出ている(こちら http://www.trussel.com/maig/maigal.htm とこちら http://www.trussel.com/maig/bandes.htm に情報があるので参考にされたい)。『ゲー・ムーランの踊子』は第4巻にあたる。

 表紙に書かれている後ろ姿の人物はメグレではなく、実は殺される男である。読み始めるとこの男が《ゲー・ムーラン》に入ってゆくのでそれがわかる(大きな影の方がメグレだ)。

 原作に忠実なコミック化で、リエージュの街並み──風車小屋のかたちをした看板が掲げられている《ゲー・ムーラン》の外観を始め、大きな橋やカフェ《ペリカン》の様子もよくわかる。途中までメグレの顔はほとんど描かれず、表舞台に出てきた後もしばらく帽子の鍔の影に隠れているのだが、メグレが地元の警部と激しくやり合うところから顔のアップが連続して描かれるのは印象的だ。そして室内の煙がまるで紙の舞い散るようないくつもの白いかたまりで表現されているのが興味深い。屋外でも枯れ葉が舞っており、タイトルの「踊り子」を象徴しているかのようである。

【註1】

 ハインツ・リューマンは1983年にもう一作、シムノン原作の作品に主演している。メグレものではなくノンシリーズの長編『Il y a encore des noisetiers[そこにハシバミは残った](1969)が原作の単発TVドラマ『Es gibt noch Haselnußsträucher[同名]である。小説は残念ながら英訳されていないようだ。ドイツ語訳は出たが、次の【註2】に示す Diogenes社[ディオゲネスか]の選集には収録されなかった。

【註2】

 映画のタイトルにも書かれていたが、小説『ゲー・ムーランの踊子』は、ドイツ語版だと『Maigret und der spion[メグレとスパイ]という。題名からして物語のネタを積極的にばらしており、おそらくドイツの読者は本作に対して、原題で読んでいる私たちとかなり異なった印象を持っていることだろう。

 現在、シムノン作品のドイツ語版は Diogenes社から小型上製本(ペーパーバックサイズだが厚い表紙。カバージャケットはついていない)がまとまって発売されている。メグレシリーズは75冊、ノンシリーズ作品も50冊出ており、原著発表順に通し番号が振ってあるのが特徴だ(メグレの中短編は別途、上製函入と判型の異なる同社の『Sämtliche Maigret-Geschichten[メグレ全短編]に一巻本としてまとめられている)。

 このシリーズからは番外編で Tilman Spreckelsen『Der Maigret-Marathon[メグレ・マラソン]というガイドブックや、ロベール・J・クールティーヌ『メグレ警視は何を食べるか? フランスの家庭の味100の作り方』(文化出版局、1979)の翻訳『Simenon und Maigret bitten zu Tisch[テーブルにシムノンとメグレ]も出ている。カタログPDFは次のURLからダウンロードできる。日本でもいつかこんなふうにシムノン作品が読めるようになると嬉しい。

瀬名 秀明(せな ひであき)

 1968年静岡県生まれ。1995年に『パラサイト・イヴ』で日本ホラー小説大賞受賞。著書に『小説版ドラえもん のび太と鉄人兵団(原作=藤子・F・不二雄)』『科学の栞 世界とつながる本棚』『新生』等多数。最新長篇『生まれかけの贈りもの』が、2015年8月よりNHK出版WEBマガジン( https://www.nhk-book.co.jp/magazine/ )にて月2回掲載。



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