書評七福神とは翻訳ミステリが好きでたまらない書評家七人のことなんである。

 書評七福神の二人、翻訳ミステリーばかり読んでいる翻訳マン1号こと川出正樹と翻訳マン2号・杉江松恋がその月に読んだ中から三冊ずつをお薦めする動画配信「翻訳メ~ン」、四月・五月はこういうご時世なので更新をお休みしています。三月の動画はこちらです。

 というわけで今月も書評七福神始まります。

(ルール)

  1. この一ヶ月で読んだ中でいちばんおもしろかった/胸に迫った/爆笑した/虚をつかれた/この作者の作品をもっと読みたいと思った作品を事前相談なしに各自が挙げる。
  2. 挙げた作品の重複は気にしない。
  3. 挙げる作品は必ずしもその月のものとは限らず、同年度の刊行であれば、何月に出た作品を挙げても構わない。
  4. 要するに、本の選択に関しては各人のプライドだけで決定すること。
  5. 掲載は原稿の到着順。

 

北上次郎

『レッド・メタル作戦発動』マーク・グリーニー&H・リプリー・ローリング/伏見威蕃訳

ハヤカワ文庫NV

 トム・クランシー「レッド・ストーム作戦発動」と、構成が驚くほど似ている小説なので、同じジャンルの作品として受け取られかねないが、そういう誤解から本書を開放したい。33年前に翻訳されたクランシーの小説は、シベリアの石油精製施設がイスラムの過激派組織の襲撃により、壊滅的な打撃を受けたソ連が、ペルシャ湾沿岸の油田を強奪する作戦を描いたものであった。その石油をレアメタルに変え、ソ連をロシアに変えたのが、今回のグリーニーだ。

 じゃあ、やっぱり同じじゃん、と言われるかもしれないが、待ってくれ。いちばん違うのが、陽動作戦なのである。クランシーのアイスランドと、グリーニーのポーランドだ。この違いが、クランシーとグリーニーを決定的に分ける。では、どう違うのか。

 その詳細は5月末発売のミステリマガジン7月号に書いたので、そちらをご覧ください。いや、ものすごく長くなるので、ここに書けないのだ。ここでは、グリーニーはこの作品で大きく進化したと、書くにとどめておく。

 

川出正樹

『あの本は読まれているか』ラーラ・プレスコット/吉澤康子訳

東京創元社

 今月は迷わずラーラ・プレスコット『あの本は読まれているか』を推す。東西冷戦期真っ只中の一九五〇年代末に、CIAにより実行された〈ドクトル・ジバゴ作戦〉に材を取り、かの書に運命を左右された男女の半生と諜報戦の内幕を、多種多様な視点から描いたエスピオナージュであり青春小説であり恋愛小説でもある大型エンターテインメントだ。

 何より特筆すべきは、ソ連側もアメリカ側も女性が主人公である点。これまでほとんど語られることのなかった冷戦期の諜報戦での彼女らの活動と人生を、現在の視座からしっかりと見据え、愛と憎しみ、野心と挫折、希望と絶望、欲求と献身、そして彼女らに対する偏見と抑圧を瑞々しい筆致で紡いでゆく。

 要所要所で“タイピストたち”の一人称複数視点による俯瞰的な描写が挿入される構成も面白い。圧倒的な男性優位社会であった当時の諜報機関で働く女性職員を取り巻く空気を、冷徹に皮肉を効かせつつもユーモアを漂わせて活写し甦らせる手腕は見事。前月の『ザリガニが鳴くところ』ともども、ミステリの枠を広げてくれる今年の大きな収穫だ。

 

 

千街晶之

『カメレオンの影』ミネット・ウォルターズ/成川裕子訳

創元推理文庫

 ミネット・ウォルターズは作家としての実力と知名度のわりに日本への紹介はスローペースで、この『カメレオンの影』も原書の刊行は2007年だ。そのため、作中で扱われる時事トピックにタイムラグが生じているのはやむを得ないところだが、それでも「古い」と感じさせないのがこの作家の実力だろう。本書には著者の旧作のいくつかを想起させる要素が見られるけれども、読み方によってはそうした自身の作風をミスディレクションに用いたとも取れる試みが秘められていて、ある境地にとどまることを潔しとしないこの作家のタフさを改めて思い知らされた。

 

霜月蒼

『レッド・メタル作戦発動』マーク・グリーニー&H・リプリー・ローリング/伏見威蕃訳

ハヤカワ文庫NV

 いまどきのトレンドでいえば『あの本は読まれているか?』が正解だとわかってるんですがね、でも僕はこういうの好きなので、こっちにしました。何かの拍子で『あの本は~』を誰も推してなかったら読みましょうね皆さん。

さて本書は〈グレイマン〉シリーズのグリーニーと、海兵隊のエキスパートとの共著だが、書いたのは主にグリーニーで間違いないだろう。グリーニーの巧さは近年の海外の作家には珍しくなった「ケレン味」である。それが本作には横溢し、クランシー風の巨視的なスリラーになりそうなところを引き留めている。つまり軍事スリラーと冒険小説の境界線上の作品で、近いのはスティーヴン・ハンター初期の名作『真夜中のデッドリミット』だろう。映画評論家でもあるハンターは映画的なケレンを得意としたが、グリーニーはFPSゲーム的なケレンの持ち主で、戦闘やアクションのかなめになる舞台の設定(上巻には見取り図も出てくる!)の巧みさには、シューティングゲームの「マップ」の感覚がある。

 一方で優れた軍事スリラーの特に前半には陰謀小説の面白さが宿るものであり、また「問題の解決」を物語の軸とするという意味で、すぐれた謀略スリラーにはミステリと同質の快楽も宿るものだ。本書も例外ではなく、個人的にはフランスの老スパイの活躍と、ギーク系の軍人の出世なんざクソくらえ系の暴れぶりが気に入った。

 

酒井貞道

『カメレオンの影』ミネット・ウォルターズ/成川裕子訳

創元推理文庫

 頭部に大けがを負い、容貌も性格も変わってしまった傷痍軍人の主人公の
心理描写が、とてつもなく精緻におこなわれている。彼の心の動き、わかる、わかるぞ……!と読み進めていくわけですが、しかし肝心なところはぼかして、さりげなく誤魔化してくる。だから真相は皆目見当が付かないまま、内的緊張が高まっていくのである。よって、倒叙ミステリとはかけ離れた作品に仕上がっており、序盤は曖昧模糊で方向性は見えず、中盤は予想外の方向性に話が転んで、終盤は驚愕の真実のつるべ打ち。でも(繰り返すが)心理描写は精密極まる。脇役もしっかり描き込まれていて、魅力的な人物が目白押しなのも素晴らしい。今年の新刊ミステリの中では、最も「完璧」「理想」に近いんじゃないかなこれは。

 

吉野仁

『コックファイター』チャールズ・ウィルフォード/齋藤浩太訳

扶桑社ミステリー

 これは事件や謎をめぐるミステリーでも犯罪者が主役のクライムノヴェルでもなく、プロの闘鶏家を主人公にすえて描いた渾身の闘鶏小説である。むろんギャンブル小説の要素も含んでいるが、個人的には何かもっと大きなジャンルでくくりたくなる作品だ。断っておくが、暗く歪んだ情念だの陰惨な社会の闇だのといった面はないので、そのあたり(ある種の?)ノワール嫌いの方にも十分薦められる物語だと強調したい。いやどこまでも闘鶏に傾倒する男のまっすぐな姿は世間から見れば歪んでいるのかもしれないが、そのあとを追わずにおれない魅力が感じられるのだ。加えて、ある驚きの趣向が作品内に潜んでいるものの詳しくは語れない。そういえば、むしろ表紙のイメージから気楽に愉しく読めると思って手に取ったヴィクター・メソス『弁護士ダニエル・ローリンズ』は、知的障害のある少年の事件を扱っているため、読んでいるといろいろと辛いものがあった。同じくミネット・ウォルターズ『カメレオンの影』でもイラクの戦地で重傷を負って帰国した青年のふるまいにやりきれないものを感じたものだ。楽しみのための読書なのに登場人物の不遇や不幸に過敏になり息苦しいのは、コロナ禍のせいか。

 

杉江松恋

『弁護士ダニエル・ローリンズ』ヴィクター・メソス/関麻衣子訳

ハヤカワ・ミステリ文庫

 他に大作感のある小説がいくつか訳されているのだが、たぶんこれを推す人は他にいないだろうと思うので『弁護士ダニエル・ローリンズ』を。1980年代にひょっこりサンケイ文庫あたりで出ていたような、小味な弁護士小説である。

 ダニエルという名前はどちらの性にも使われるが、主人公は女性だ。離婚経験ありで、原因は自分が浮気をしたせい。しかも元夫に未練たらたらで、新しい女と付き合っているのが許せなくて、その恋人のことを悪口言いまくり。酔っ払うと新居に押しかけていってしまいそうになるくらいで、自分で自分を持て余している。そんな駄目駄目な彼女が絶体絶命の刑事裁判で戦うお話なのだ。その裁判というのがひどくて、間もなく十八歳という知的障害のある少年が麻薬売買という重罪で告訴されたのである。会って話してみればわかるが、被告は子供同然で、どう見ても自分の判断でそんな罪を犯せたはずがない。検察官と判事がぐるになって、彼を生け贄にしようとしているのだ。最初は腰が引け気味だったダニエルも少年を見捨てておけなくて裁判にのめりこんでいく。状況は不利になる一方だわ、事情があって少年を自分の家に住ませてやらなくちゃいけなくなるわ、別れた夫は気になるわでぐちゃぐちゃのままどんどん彼女は追いこまれていく。あまりに理不尽なことが続くので読むのが辛くなってくるが、ちゃんとエンターテインメントとして着地するのでご安心を。法を悪用しようとする連中の顏が現実のあの人やあの人に重なってしまうのがちょっと玉に瑕ではある。できれば法の正義は信じたいんだけどね。年間ベストというような小説ではないが、読んだら絶対に主人公に好感を持つだろうと思う。そうそう、こういうのが毎月一本くらいは読めたら嬉しいの。

思った以上に票が分かれた四月でした。さて、明日はいよいよ第11回翻訳ミステリー大賞開票式です。残念ながらイベントは行えませんが、お知らせしたとおりYouTube上で開票の模様は中継いたします。それに先立ち、順位予想もtwitter上で受け付けております。1位から5位までの順位をつけてハッシュタグ「#hmaw11」(前後に半角空けを忘れずに)でツイートしてください。全順位的中者が出た場合はその中から何名かに、完全正解が出なかった場合は最も惜しかった方に、何か賞品を差し上げます。よろしくお願いします。(杉)

書評七福神の今月の一冊・バックナンバー一覧