イギリスの童謡マザーグースに、「東風は人やけものに良くない」という唄があるそうだ。

 北風、南風ときて「西風が最高」と結ばれる。日本と違ってイギリスでは、東風が荒々しい風、西風が穏やかな風ということらしい。

 デュ・モーリア短編集『人形』の冒頭に収められた「東風」はやはり人にとって禍々しい風だ。外界から閉ざされた無人島で暮らしている人々が、東から吹く大風に吹かれた翌日、島に流れ着いた帆船から降りてきた黒い男たちに遭遇する。人々は平穏な生活を放り出し、狂気じみた感覚が島民を襲う。

『人形』は、『レベッカ』で著名で短編にも定評のある英国女性作家ダフネ・デュ・モーリアの初期の短編14編を収録。最近の本では、異邦を舞台にした長めの短編を収録した『いま見てはいけない』で、人間心理の暗部にも踏み込みつつ豊かな物語世界を展開させていたのが記憶に新しい。

 本書の短編は、各編が短かく、また初期の作ということもあってか、『鳥』『いま見てはいけない』収録作の芳醇さこそないが、三人称あり、手記、独白、スケッチ風や書簡体ありといった多様なナラティブで語られ、作品のタイプも悲劇的であったり、喜劇的であったり、風刺的であったり、幻想的であったりする。作者は、この短編群では、できるだけ幅広いスタイルを試そうとしているようでもある。

 といっても、デュ・モーリアらしさは、至るところに刻印されている。

「東風」に続く「人形」は、作家デビューの前に書かれた短編で、ある男の手記の形で、レベッカ(!) という小妖精のようなバイオリニストへの狂おしい愛と彼女が部屋に隠している秘密が描かれる。人形愛小説の秀作。「東風」「人形」いずれも、禁忌への欲望とそれがもたらす破局についての小説だ。

「いざ、父なる神に」と続編「天使ら、大天使らとともに」では一転、上流階級の人々が通う教会の牧師の独善、俗物性を皮肉なタッチで徹底的にあぶり出す。

「性格の不一致」「満たされぬ欲求」「ピカデリー」「飼い猫」「痛みはいつか消える」「ウィークエンド」「そして手紙は冷たくなった」などには、ディスコミュニケーションと裏切りのモチーフが通奏低音のように流れている。これらの短編の多くは、上流・下層を問わず男女の愛情に材をとっているが、彼らの恋愛の多くの場合、行き違い、失望を生んでいく。その成行きを確かな技術と怜悧な観察に基づき張り詰めた緊張感、切迫感をもって綴っていくからどれもがサスペンスフル。 

「幸福の谷」は、放心気味の女性が夢で見る場所を新婚旅行先で訪れるという幻想譚で『レベッカ』につながる重要作。「笠貝」は、自己中心で被害者意識の強い女が、悪意なしに関わる人々すべてを攪乱し、破局をもたらしていく顛末が女の独白で語られる。笠貝は岩盤に密着して身を守っている貝。英語名limpetは、「しつこくまといつく人」等の意味がある。笠貝のヴィジュアルイメージと相まって、薄気味の悪い人物造型という点では、群を抜いた作品。

 性格の不一致、周囲との不一致が拡大すれば、世界への強烈な違和感になる。加えて、「東風」や「人形」にみられる不定形で名付けようのない欲望を宿しているという感覚は、この作家の強烈な個性だろう。

 相当のミステリ通でもアメリア・レイノルズ・ロングの名を聞いたことのある人は少ないだろう。かくいう筆者も、この女性作家が30冊あまりのミステリを残した「貸本系アメリカンB級ミステリの女王」ということを本書解説で初めて知った次第。英米では、1930年代から40年代にかけて貸本スタイルが流行り、当然ミステリも人気を博した。貸本のための専門出版社がいくつもでき、この作家はフェニックス出版という専門出版社の四番バッターだったという。

 貸本小説というといかにも大衆受けする通俗な作品のようだが、『誰もがポオを読んでいた』(1944) の印象は、必ずしもそうではない。

 舞台はフィラデルフィア大学。ポオの手稿が発見されたことに端を発し、ポオのゼミを受講している大学院生が「アモンティラードの酒樽」に似た状況で殺される。続いて、「マリー・ロジェの謎」「モルグ街の殺人」「メッツェンガーシュタイン」といった作品に見立てられた殺人が次々と起きる。小節のタイトルもこれらの作品の一部から引用されているなど、まさにポオ尽くし。我が国のポオ尽くしミステリである平石貴樹『だれもがポオを愛していた』が80年代半ばということを思えば、40年代にこれだけ文芸味たっぷりの趣向を凝らした作が貸本ミステリのジャンルに存在していたのには驚かされる。

 探偵役は、同じくポオゼミ受講者の女子大学院生で、ミステリ作家でもあるピーターと犯罪心理学者トリローニー。ポオ尽くしといってもハイブロウすぎることも、怪奇味たっぷりなわけでもなく、女子学生ピーターが好奇心旺盛に謎を追求していく、カジュアルでテンポのいい学園ミステリでもある。

 ただ、作中で繰り広げられる推理は意外に本格的なもの。原稿がすり替えられたのはいつかという謎が核にあり、その点を巡って容疑者が二転三転していく運びはなかなかのものだ。しかし、殺人が起きすぎて犯人候補が限定されてしまい、決め手の論理も甘く、見立ての理由も薄いといった欠点も目につく。人物や描写のコクを求める向きにも、物足りないかもしれない。

 貸本ミステリという一段低くみられ、制約もありそうな枠組みの中で、ポオ尽くしという外連味とコージー風の筋立てが同居している不思議な一品。

 昨年の『幽霊屋敷と消えたオウム』に続いて刊行されたエラリー・クイーンのジュブナイル『黒い犬と逃げた銀行強盗』(1941)。『幽霊屋敷〜』は見習い探偵ジュナシリーズ第三作だったが、本書は第一作。版元は、シリーズの再紹介に本腰を入れていくようだ。

 先ごろ紹介された『エラリー・クイーン 推理の芸術』によると、本書はクイーンのジュブナイルシリーズの過半を手掛けたジャーナリスト、サミュエル・ダフ・マッコイの筆になるもの。このシリーズは、クイーンの片割れダネイは一切関知せず、リーが編集・監修したということが同書で明らかにされている。

 主人公ジュナは、アニー・エラリーおばと片田舎のエデンボロ村に暮らす少年。近くの町にブラックバス用の釣り針を買いにいった際に、三人組の銀行強盗事件に出くわしてしまう。強盗たちの乗った車は近くの町へ続く道で消えてしまったかのようで、警察は足取りもつかめない。

 愛犬チャンプが強盗に撃ち殺されそうになって怒り心頭のジュナは単独で事件の謎に迫ろうと奮闘する。消えた自動車の謎は単純で、善人悪人も早い段階で見当がついてしまうが、悪漢に捕えられて地下室で水責めにあう見せ場もある。ジュナの賢さ、勇敢さ、優しさが随所に出ていて、大人が子どもに読んでもらいたい典型のような作品でもある。TVもゲーム機もない時代、さて今日は何をしよう、という少年の夏の日の気分がよく出ていて、年長の読者もノスタルジーも味わえる。

2016年のクラシック・ミステリ
(2015年末に刊行されたものも便宜上2016年にくくっています)

 多様な作品が紹介され充実していた2016年のクラシック・ミステリとその周辺を振り返ってみると、同じように要約されるストーリーを織り込んだ作品が幾つもあったことに気づかされる。

    1. 秘密をもつ主人から脱出を試みるが、何度試みても連れ戻される。
    2. 生まれ育った村から脱出を試みるが、連れ戻される。
    3. 谷間に住む一家から脱出を試みるが、連れ戻される。 
    4. 不穏な邸宅から脱出を試みるが、連れ戻される。

 1は、ウィリアム・ゴドウィン『ケイレブ・ウィリアムズ』(1794)、

 2はL.P.デイヴィス『虚構の男』(1965)、

 3はサーバン『人形つくり』の「リングストーンズ」(1951)、

 4はシャーリイ・ジャクスン『日時計』(1958)(『鳥の巣』も同様の要素あり)。

 18世紀と20世紀、時を大きく隔てた作品に、最初のミステリ長編ともいわれる『ケイレブ・ウィリアムズ』と同様の構造を見い出せるのが面白い。「連れ戻される」「逃げられない」を「囚われている」状態と捉えれば、そこに「塔の中の姫君」的なゴシック小説のモチーフが浮上する。時代を超えて、ゴシック小説の一要素が人の心を捉え、ミステリ的作品の養分になり、現代にリバイバルされるのは、人間の生の本質を衝いているからでもあろう。

 一方で、「連れ戻される」「ふりだしに戻る」という運動と捉えれば、それは、本格ミステリの形式内で行われる思考の運動そのものだ。本格ミステリは、事実に基づく推理、その失敗を繰り返し、常に「ふりだしに戻る」性質を内在している。何度も「ふりだしに戻」りながら、真相への血路を切り開き、「逃げ切る」のが本格ミステリという形式ともいえる。

 「逃げられない」を一方の極、「逃げ切る」をもう一方の極として、その間の多様なグラデーションの中に存在しているのがミステリというジャンルなのかもしれない。

 そういう意味では、昨年のクラシック・ミステリも、「逃げ切る」本格ミステリが多かったが、「逃げられない」小説も、また強い印象を残したとまとめられようか。

 2016年を振り返ってみると、論創海外ミステリがおおむね月二冊のペースで本格ミステリを中心にマニアックなところを届けてくれている功績は大。

 老舗、創元推理文庫からは、アリンガムの短編集、コリン・ワトソンなどの企画に加え、カーなどの新訳が続いているのがありがたい。

 国書刊行会からは、ミステリ・プロパーではないが、『虚構の男』『人形つくり』を皮切りに、知られざる傑作、埋もれた異色作をジャンルを問わず紹介する〈ドーキー・アーカイブ〉が発進。同社では、新シリーズ〈ホームズ万国博覧会〉や〈シャーロック・ホームズの姉妹たち〉といった目の離せないシリーズも始まった。

 原書房の〈ヴィンテージ・ミステリーシリーズ〉は、『ミステリ・ウィークエンド』をもってお休みになったが、マクロイやフリーマンなどを出した、ちくま文庫が堅調。

 生誕100年ということもあって、『日時計』『絞首人』(『処刑人』) 『鳥の巣』とシャーリイ・ジャクスンの初紹介作が次々と刊行されたことは特筆すべきできごとだった。

〈ヒラヤマ探偵文庫〉をはじめ、電子書籍で貴重な仕事が届けられていることも忘れてはならない。

 作品に即していえば、黄金期以前の古典では、ゴドウィン『ケイレブ・ウィリアムズ』、アーノルド・ベネット『グランド・バビロン・ホテル』、 J・S・フレッチャー『亡者の金』などがあった。ファーガス・ヒューム『質屋探偵ヘイガー・スタンリーの事件簿』、レジナルド・ライト・カウフマン『駆け出し探偵フランシス・べアードの冒険』では珍しい初期の女性探偵を紹介してくれた。

 R.オースティン・フリーマンは、完訳なった『オシリスの眼』『アンジェリーナ・フルードの謎』でオーソドックスな謎解き小説の確立者としての貫録を見せつけた。イーデン・フィルポッツは、『守銭奴の遺産』は本格ミステリ、『極悪人の肖像』は犯罪小説の形式で、新たな「悪人」像を披歴した。

 黄金期では、推理の愉しみに徹して精緻なJ.J.コニントン『九つの解決』、不可能興味を重視したノーマン・ベロウ『消えたボランド氏』、マックス・アフォード『闇と静謐』、C・デイリー・キング 『厚かましいアリバイ』といった「幻の本格」系やサスペンスフルな船上ミステリ、ルーファス・キング 『緯度殺人事件』、ケネス・デュアン・ウイップル『ルーン・レイクの惨劇』といったパルプ系のレアなところも紹介された。

 名手パーシヴァル・ワイルドのミステリ長編第1作『ミステリ・ウィークエンド』はアクロバティックな構成で最初から優れた書き手であったことを存分に示した。『ささやく真実』『二人のウィリング』と、評価とみに高まるヘレン・マクロイの掘り起こしも加速している。特に後者は悪夢のようなビジョンが中核になっていて忘れ難い。

フィリップ・マクドナルド『生ける死者に眠りを』は、サスペンスながら『そして誰もいなくなった』の原型的作品。ミニオン・G.エバハート『嵐の館』は、サスペンスと謎解きの巧妙なブレンドだった。

『カクテルパーティー』『灯火が消える前に』と、エリザベス・フェラーズのポスト黄金期の二冊が紹介されたのも印象的だった。特に、前者は、フェラーズの新たな代表作といえる。アントニー・ギルバート『灯火管制』は語り口とキャラクター造型が光り、レオ・ブルース『ハイキャッスル屋敷の死』は持ち前のユーモアは控えめながら、そのことにも意味がある謎解き絵巻。

 英国のニューヒーローは、コリン・ワトソン『愚者たちの棺』『浴室には誰もいない』。謎解きを中核としつつ意地悪なファースの味は格別で、巻を追うごとにファンを獲得しそうだ。スタンリー・ハインランド『緑の髪の娘』は、地方警察小説とみせて形を変えていく大変化球。

 エラリー・クイーン外典コレクションは、『熱く冷たいアリバイ』をもって完結。

 ピエール・ボワロー『震える石』、S.A.ステーマン『盗まれた指』と、久方ぶりにフランス30年代の本格ミステリも紹介された。この線でもまだ鉱脈があるようだ。

 ハードボイルド/ノワール系は、相変わらず点数が少ないが、チャールズ・ウィルフォード『拾った女』は、各種ベスト10でも上位に食い込んだ異形のノワール。二度読み必至のラストが待ち受ける。ほかに、折り目正しいハードボイルド、バート・スパイサー『ダークライト』、懐かしの軽ハードボイド、フランク・グルーバー『噂のレコード原盤の秘密』が目につく程度。

 短篇集は、質も高くバラエティに富んでいた。

 カミ『ルーフォック・オルメスの冒険』、マージェリー・アリンガム『幻の屋敷』『クリスマスの朝に』、アンドレ・ド・ロルド『ロルドの恐怖劇場』、エドガー・ウォーレス『J・G・リーダー氏の心』、ジャック・リッチー『ジャック・リッチーのびっくりパレード』などが強い印象を残した。

 純然たるSFミステリを含むジャック・ヴァンス『宇宙探偵マグナス・リドルフ』や、いまなお斬新なMWA受賞作を含むハーラン・エリスン『死の鳥』は、ミステリファンも見逃せない。


 古典では、ロドリゲス・オットレンギ 『決定的証拠』、アーサー・B・リーヴ『エレインの災難』、L・T・ミード&ロバート・ユースタス『ミス・キューザックの推理』『上海のシャーロック・ホームズ』といった珍品や、『けだものと超けだもの』『四角い卵』でサキの再紹介も相次いだ。ロード・ダンセイニ『ウィスキー&ジョーキンズ』『ウィルキー・コリンズ短編集』『モーリス・ルヴェル短篇集3 古井戸』も貴重な仕事。ほかにも、レックス・スタウト『ネロ・ウルフの事件簿 アーチー・グッドウィン少佐編』、G・D・H&M・コール 『ウィルソン警視の休日』、エドワード・D・ホック『怪盗ニック全仕事3』など愉しめる短編集が多かった。

 ジュニア物として、ヘレン・ウェルズ『エアポート危機一髪』、クイーン『幽霊屋敷と消えたオウム』がある。

 評論では、ルーシー・ワースリー『イギリス風殺人事件の愉しみ方』、リン・パイケット『ウィルキー・コリンズ』、キャサリン・ハーカップ『アガサ・クリスティーと14の毒薬』、フランシス・M・ネヴィンズ『エラリー・クイーン 推理の芸術』といった辺りがミステリを読む愉しみを深めてくれるだろう。日本のもので海外クラシック・ミステリ関連書として、戸川安宣、空犬太郎『ぼくのミステリ・クロニクル』、喜国雅彦、国樹由香『本格力』を特筆しておきたい。

 最後に私的ベストを。

順位 作者『作品』 Amazon
1 パーシヴァル・ワイルド『ミステリ・ウィークエンド』
2 エリザベス・フェラーズ『カクテルパーティー』
3 カミ『ルーフォック・オルメスの冒険』
4 チャールズ・ウイルフォード『拾った女』
5 コリン・ワトソン『浴室には誰もいない』
6 レオ・ブルース『ハイキャッスル屋敷の死』
7 ジャック・ヴァンス『宇宙探偵マグナス・リドルフ』
8 ヘレン・マクロイ『二人のウィリング』
9 マージェリー・アリンガム『幻の屋敷』
10 スタンリー・ハインランド『緑の髪の娘』
別格 サーバン『人形つくり』
同上 シャーリイ・ジャクスン『鳥の巣』(『日時計』と入替え可)
ストラングル・成田(すとらんぐる・なりた)

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 ミステリ読者。北海道在住。

 ツイッターアカウントは @stranglenarita

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