センセーション・ノベルといえば、ウィルキー・コリンズ『白衣の女』(1860) あたりから英国で流行したメロドラマ的犯罪小説で、ミステリの母胎ともいわれる。ジャンルとしては、いっときの流行に終ったようにみえるが、その影響は形を変え、現代にも及んでいる。サラ・ウォーターズは、コリンズの語りの手法に学んでいるし、我が国でも評判のアーナルデュル・インドリダソンの作風は現代のセンセーション・ノベルであるかのようだ。

 19世紀アイルランドの作家レ・ファニュといえば、「緑茶」「吸血鬼カーミラ」などの怪奇小説で名高いが、センセーション・ノベルの書き手として、クラシックミステリの観点からも見逃せない作家だ。セイヤーズは、前ドイル期の〈謎と恐怖の巨匠〉として高く評価しているし、密室ミステリ研究家のロバート・エイディーは、ポー「モルグ街の殺人」(1941) より3年前に書かれた密室ミステリの嚆矢として、レ・ファニュの短編を挙げ、長編『アンクル・サイラス』(1864)も密室物に数えている。ゴーストハンター物のはしりを書いた作家でもある。

 『ドラゴン・ヴォランの部屋』は、『吸血鬼カーミラ』以来、およそ50年ぶりに、本邦で編まれたレ・ファニュの短編集。五編収録された中短編はどれも魅力的だが、クラシックミステリという観点からは、特に、1872年に発表された表題作は見逃せない。

 ときは、ナポレオンが最終的に失脚した1815年、ところは、フランス。解放されたパリに向かって英国の旅行者は押し寄せたが、主人公の「私」ベケットもその一人。資産家で美丈夫の青年は、花の都での冒険に胸を躍らせていたが、途上、出逢った若い貴婦人に強く魅せられる。彼女は、年不相応に高齢なサン=タリル伯爵の夫人らしい。私は、ふとした争いごとから伯爵夫妻を救うが、二人を乗せた馬車はパリに去っていく。

 絶世の美女との出逢いと冒険の予感。パリに着いた私は、旅の途中で知り合いになった貴族の勧める宿《ドラゴン・ヴォラン》の一室に滞在するが、部屋の窓から見える古びた城は、サン=タリル伯爵夫妻の居城だった……。

 「私」の伯爵夫人に対する燃え上がる愛を燃料にして、起伏に富んだ物語が駆動していく。犯罪、策略や恐怖などセンセーション・ノベルの要素は濃厚であるものの、全体としては、今の言葉でいえば、巻き込まれ型サスペンスというところだろうか。邦訳で700頁もある『アンクル・サイラス』のもったりとした展開と比べると驚くほどスピーディな筋運びだ。

 ミステリ的要素として強力なのは、私の滞在する部屋にかつて宿泊していた三人の男が次々と行方不明になっていることだろうか。その状況は極めて不可解。一人の男性などは、鍵のかかった宿から謎の消失を遂げている。消失の謎自体は解かれてみればありがちなものだが、こうした過去の一連の消失事件が主筋に密接に絡んでいるのが好ましい。

 ブルボン王朝再興時のパリが活写されており、特に、大仮面舞踏会の場面は、その壮麗さで特筆すべき場面だ。四千本ものゆらめく大蝋燭の下、奇妙に着飾った大勢の男女が集い、仮面をつけた男女が誰とも知らずに会話を交わす。中国人の不思議な占い師が、相手の心を読む驚異のパフォーマンスを披露し、謎の死体まで出現する。この仮面舞踏会のシーンで、私の運命は急変し、死を賭した「冒険」に向けて加速がかかっていく。

 不可解な消失事件、謎の予言者など一見超自然的な要素も、結末に至ってすべて合理的に解き明かされ、私の冒険が大きな全体の構図に収まるように書かれているところに、黎明期のミステリとしての先駆性を感じさせる。主人公の運命と結びつく大きな謎は、前時代的な家庭の秘密などではないことが、かえってカラっとしており、いささか自意識過剰気味の若者の冒険を喜劇的タッチで描いている点も、現代的だ。謎−解明のプロットを持ち込んでいることを抜きにしても、風変りな冒険談として愉しめる。

 それ以外の四編は、怪奇や神秘を主題した小説だが、本格的怪奇譚から民話風(「ローラ・シルヴァー・ベル」)までタッチはそれぞれ異なり、多彩な表情を見せている。中でも、花嫁の居室に謎の狂女が出現する(そして結末に至って何も解明されない)「ティーロン州のある名家の物語」は、強烈な不気味さを残し、圧倒される。

 解説の横井司氏が「センセーション・ノヴェルを近代化したもの」と指摘するように、J.S.フレッチャー『ミドル・テンプルの殺人』(1919) (55年ぶりの新訳)も、スピード感あるセンセーション・ノベルの範疇に入るのかもしれない。最近では、冒険小説風の『亡者の金』が紹介されているフレッチャーだが、同書にみられたストーリーテリングの冴えは、本書でも発揮されている。

 ロンドンのミドル・テンプル(法曹院のある一区画) で、深夜、初老の男が撲殺された。男の素性を示す手がかりは、ある弁護士の名前を書いた紙片のみ。たまたま殺人現場近くを通りかかった新聞社副編集長フランク・スパルゴは、殺人事件の真相解明に並々ならぬ情熱を燃やす。

 かつて、本書はフレッチャーの代表作とされ、コツコツと足で稼ぐ凡人型探偵の文脈でクロフツと並び称されたように記憶するが、現物に当たってみると、必ずしもクロフツと同巧ではない。フレンチ警部らクロフツの探偵は、確かにコツコツと足で稼ぐが、捜査にはトライアル&エラーの要素があり、それは一面では謎解きの余詰みをなくしていく機能を担っている。

 スパルゴも行動派の足で稼ぐ探偵なのだが、トライアル&エラーの要素は薄く、謎に迫っていくスパルゴの調査は、だいたいにおいて「当たり」なのだ。被害者の宿泊したホテルに行けば、警察に渡していない手がかりが手に入るし、新聞記事を書けば読みどおり証言者が現れ、謎のプレートが見つかるとそれを知悉する人間の証言が得られる。探索者にとって都合が良すぎるゲームのようだ。その分、被害者を取り巻く事情がテンポ良く明らかになっていき、意表を突く展開を可能にしている。本書の面白さは、被害者の正体という根茎を掘っていくうちに、隠れた秘密が芋づる式に出てくるところにある。

 実際、検死裁判を通じて、社会的地位のある容疑者が浮上し、彼の無罪を確信して捜査を続けるうちに、過去の重大犯罪や身近な人物の秘められた過去が浮かび上がってくるくだりなどは、この糸を手繰り寄せていく快感に近い。被害者の出自そして過去の事件の謎を解くことが、現在の事件の解明につながる。ここにおいて、スパルゴの行動は、家庭の秘密を探っていくハードボイルドの探偵のようでもあり、『砂の器』の刑事たちのようでもある。

 文章は平明で文学趣味もみられないが、何も起きない村で退屈を噛みしめているウェイトレスや、証言と引き換えに年金支給を迫る因業な老婆など調査の過程で行き会う人物は印象的に描かれている。

 謎解きとしては、ほとんどフェアプレイに配慮していないから、読者と犯人当てを競うような小説ではない。そうはいっても、後半、最大の容疑者が明らかになってからも、曲折が待ち受けており、偶然に頼りすぎという欠点があるにしても、後景に退いていた読者の記憶が、これまた芋づる式に引き出されていく展開は、なかなか手が込んでいる。本書には、家庭の秘密、過去の犯罪、重要人物の容疑、裁判の進行などセンセーション・ノベル的要素が詰まっているが、それをテンポのいい、一貫した探索の物語として仕上げているのは、作者の手柄だろう。

 本格ミステリが、犯人と探偵の、あるいは作者と読者の「対人ゲーム」的だとすると、本書は、探偵が行動範囲を広げながら解明という結末に向かう「ロールプレイング・ゲーム」的な作ともいえる。海外において、本格ミステリの影が薄い現状をみるにつけ、センセーション・ノベルに胚胎した「謎と探索」の物語としては、本書のような行き方の方が、むしろ普遍性があるのかもしれない。そういう意味でも、センセーション・ノベルとハードボイルド以降を架橋するような本書は、当たってみて損のない古典である。

ストラングル・成田(すとらんぐる・なりた)

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 ミステリ読者。北海道在住。

 ツイッターアカウントは @stranglenarita

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