『ほかの誰でもなく、あの女自身の邪さが彼女を殺した……その悪こそが、彼女の命を奪い取ったのだ』邪さ……邪さ。そんな言葉を使う人間には会ったことがない。そこにはどこか、旧訳聖書のような響きがあった」

 〜ハリー・カーマイケル『ラスキン・テラスの亡霊』より

「気がついたの、その……よこしまなことが……起きていることに」

 昨夜、ベッドの中で、クリスに会った時のリハーサルをしていた折に“よこしま”という言葉を思いついた自分の機知が誇らしかった。まさに自分が発見したことの衝撃を正確に伝える言葉だ」

 〜D.M.ディヴァイン『紙片は告発する』より

 今月取り上げる二つのミステリに「邪な」という言葉(英語で同一かは不明) が登場するのは偶然にすぎないが、人の心の「邪さ」を織り上げつつ、サプライズ・エンディングを用意する二人の英国の本格派作家が並んだのは好一対の組み合わせだ。

 『ラスキン・テラスの亡霊』(1953) は、一昨年紹介された『リモート・コントロール』(1970) が「本格ミステリ・ベスト」本などで好評を博したハリー・カーマイケルの本邦紹介第二弾。

『リモート・コントロール』の帯には、「D.M.ディヴァインを凌駕する英国の本格派作家」の文字が躍っていたのが印象的だった。当欄としても、その年のクラシック・ミステリ、ベスト1に選んだだけに、これに続く本書は注目の一作だ。 『リモート・コントロール』 が比較的後期の作品だったのに対し、本書は、ぐっと時代を遡って第三作、ごく初期の作品に当たる。

著名なスリラー作家クリストファー・ペインの妻エスターが睡眠薬に入った毒物を摂取して死亡する。状況は、事故か自殺か他殺なのか判然としない。

 調査には当たるのは、『リモート・コントロール』でも探偵役クインの友人として顔を見せた保険会社の調査員バイパー。

 関係者の調査で、夫人エスターが多くの人から憎まれる存在であったこと、毒物を投与する機会をもつ関係者が複数いたこと、さらにエスターの死の状況がペインの新作スリラーの内容と酷似していることも判明してくる。続いて、エスターの愛人とみられる主治医の夫人が不可解な状況で死亡するという第二の事件が発生する。

 主要登場人物は多くはないが、彼らの人間関係は錯綜し、容疑者は絞り込めない。

 バイパーは、関係者の若い女性に恋愛感情をもってしまうこともあり、エスターが遺した憎しみの渦に巻き込まれていることを自覚する。

「自分には関係もない人々の人生から、どうして距離を置くことができないのか?」と自問し、「他人の問題を、あたかも自分の問題のように背負い込んでしま」う、というのがこの探偵役のユニークなところで、シリーズの基底音にもなっているようだ。ちょっと、チャンドラーや初期ロス・マクドナルド流の感傷を思わせる。

 本書では脇に廻っている相棒の新聞記者クインにも「感傷的」と評されるバイパーの性分ゆえ、バイパーの尋問は、どれも真剣勝負の迫力を備えている。関係者の多くは、「邪な」嘘と秘密を抱えており、バイパーは、直感と推理で肉迫していく場面は緊張感が持続する。

 事件は、主要人物の死をもって解決したようにみえるが、最後の最後に大きなサプライズが待ち構えている。謎解きはさりげなく多くを語らないのが作者の美学のようだが、あちこち伏線が輝き出し、不可解すぎるある人物の言動の意味が氷解するのもポイントが高い。

『リモート・コントロール』については、「最小限のひねりで最大限の効果という理想的なプロット」と書いた。本書のサプライズの演出は確かなものだが、初期の作品ということもあってか、事件と作中小説の酷似など興味を惹く要素を盛り込みすぎ、プロット全体の統一感に欠ける感は否めない。暗く物悲しいトーンや鋭利な人物描写、内省的な探偵、サプライズといった魅力的な諸要素は『リモート・コントロール』と共通するもので、邦訳が控えているという第三弾も楽しみにしたい。

 日本の読者の高評価を得、全作紹介が進むD・M・ディヴァインは、この度の『紙片は告発する』(1970) の邦訳をもって、未訳長編はあと二作になった。未訳作が減っていく中にあって作品の密度が衰えないのは、さすがである。本書は、全十三長編のうちの第九作。

 町議会議員の娘で町庁舎(タウンホール) のタイピストのルースが何者かに殺害される。彼女は、死の直前、秘密のメモを入手し、「よこしまなこと」が起きていることを警察に話すと広言していた。キルクラノンの町では、町長選出にまつわるいざこざが起きており、庁内には様々な思惑がひしめいていた。ルースが入手した秘密とは、彼女を殺害した犯人とは。

 ディヴァインの作の舞台は多くは地味で現実的なものだが、本書も、同様、スコットランドの町庁舎と町議会が舞台になっている。ただ、興味深いのは、町政の日常が丁寧に描かれていることで、議会運営や行政の現場がつぶさに描かれているミステリというのは珍しい。首長が行政執行を担い、議会が議決機関である日本の地方行政と違って、少なくともこの時代は、町議会の委員会に執行権があるようだ。町長 (タウンマネージャー) も議会の任命制。事件の背景には、こうした町政の現場の入札に関する疑惑や町政運営の舵取り役をめぐるさや当てがある。

 シリーズキャラクターをつくらなかったディヴァインだが、本書で主人公の役割を務めているのが、31歳のジェニファー・エインズレー。有能で美人の副書記官で、できるキャリアウーマンのはしりのような存在だが、上司の書記官ジョフリーと不倫関係にある。

 ディヴァインの小説の主人公役は、おおむね好感がもてる人物で、ロマンスの彩りがあるが、本書もその例に漏れない。ジェニファーは、上司との不倫が発覚するのではという恐れを抱えながら、人間関係が綾なす事件に巻き込まれていく一方で、事件の捜査に当たる警部補に好意をもち始める。

 およそ地味な舞台設定にもかかわらず、ディヴァイン印ともいえる丁寧な人間描写で、多数の議員や職員などを描き分け、謎解きとジェニファーの行く末に、読者の興味を引き寄せていく腕前は、変わらない。

 筆者には、ディヴァインの人間描写が巷間いわれるほどのものとは思えないものの(本書においても登場人物の数人はかなり類型的で、話の展開に併せ都合が良すぎる部分がある)、やはり、秘密を抱えた人間たちの関係をベースに、錯綜したプロットをつくりあげ、サプライズをきれいに決める術こそ、彼の真骨頂であると思われる。

 その点、本書においても、複雑な人間関係の上にあぶり出される真相はかなり意外なものだが、謎解きの決め手は小粒にすぎ、説得力に関しては十分とはいえないうらみがある。

 ジョン・ル・カレ『地下道の鳩』(2016) は、1961年にデビューして以降、今なお新作を発表し続け、映画化・TVドラマ化も相次ぐ巨匠の回想録。昨年の原書刊行時には、既に著者は八十半ばであるが、過去を語ってウイットに富み、瑞々しくさえある筆致に驚かされる。

 回想録といっても時系列に沿って自分史を綴っていくような書ではない。思い出すままに、とでもいうように、38の断章が連なる。作家が体験・見聞してきた様々なエピソードが入り混じり、緩やかなテーマのもとで結ばれている。

 登場するのは、グレアム・グリーン、アレック・ギネス、ソ連水爆の父サハロフ、サッチャー首相、アラファト議長、数々の映画監督、ロシアのマフィアなどなど綺羅星のごとき有名な、あるいは無名な人々。

 『寒い国から帰ってきたスパイ』以降、世界的な名声を獲得した作家にしても、一人の人間がこれだけドラマティックな場面に立ち会えるのかと思うほど、豊富で刺激的なエピソードが満載である。読者が著者の作品になんの知識もないことを前提にしているとあるように、ル・カレ作品に触れたことのない人にとっても、驚きと発見に満ちた本だろう。

 扱われるのは、英国のMI5やMI6で国家機密活動に従事してきた青年期、小説執筆以降、世界を駆け巡って出逢った有名無名の人々の横顔……。

 作家は旅をする。カンボジア、ベトナム、イスラエル、パレスチナ、中米、ロシア、東コンゴ……。峻烈な紛争地域を含め、現地に出かけるようになったきっかけが面白い。

 1974年、香港に到着した作家は、香港と中国本土の九龍地区がいつの間に海底トンネルでつながっていたことを知る。『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』の校正を済ませたばかりで、スターフェリーを使った九龍と香港島の間の追跡劇がこの本の魅力と考えていた作家は、古いガイドブックを参考に現地の最新事情を知らず書いてしまったのだ。校正刷りを取り出し、書き直した文章をロンドンに送るが、アメリカ向けの初版を修正するのはもはや手遅れだった。作家は「行ったことのない場所は二度と小説の舞台にするまい」と心に誓い、「過去の経験という財産を食いつぶしている」「そろそろ未知の世界にくり出すきときではないのか」と考える。(「現地に出かける」)

 ほどなく、カンボジアに出かけ、塹壕で横たわり、心底怯えて、メコン川対岸に陣取る狙撃手たちと対峙するような経験にも飛び込んでいく。

 旅の途上、人生の途上で出逢った人々の肖像が有名無名を問わず魅力的だ。プノンペンで安全な住まいと希望を失った子供にその両方を与え続ける、怖れ知らずの女性イヴェット。ビルマの王女と恋に落ちたイギリスのベテラン諜報員。国内の共産主義者の集団に潜入したまま、名もなく死んだ二重スパイ。孤児の学校で作家と踊りまくるPLO議長アラファト…。

 彼らの一部は、『スクールボーイ閣下』『ナイロビの蜂』等の登場人物のモデルになっていることも明かされている。

 映画ファンにとっても見逃せない部分も多い。映画『寒い国から帰って来たスパイ』の知られざるエピソード。ル・カレの作品を映画化しようとした(そして果たせなかった)監督リストには、フリッツ・ラング!、シドニー・ポラック、フランシス・フォード・コッポラ、スタンリー・キューブリックらが連なり、彼らとの交流も明かされている。

 本書をとりわけ、奥行きのあるものにしているのは、作家の父との関係性である。著者によれば、父ロニーは、「詐欺師で空想家、ときどき刑務所にも入った」男。詐欺師の例にもれず、「説得の達人」で、「多くの人の人生を破滅させた」。作家の母は、5歳のときに家を出ていっている。父親の破天荒な行状は喜劇的にすら描かれているが、こうした両親の子として、作家がどれだけの内面に苦しみと葛藤を抱えたかは想像に難くない。

 作家は振り返る。「私はスパイ活動で初めて秘密を持ったのではなかった。子供のころから、言い逃れやごまかしは必須の武器だった。青年期には誰もがある種のスパイになるものだが、私は腕利きのスパイだった」

 作家は自問する。「机のまえで悪事を思い描いて白紙のページに綴る男(私) と、毎朝きれいなシャツを着て、想像力以外には何も持たず、犠牲者をだまそうと出陣していく男(ロニー)のあいだに、はたして大きなちがいはあるのだろうか」と。

 本書は全体としてみると、詐欺師の父に育てられ、母に捨てられた少年、子供時代には兄への愛情を除いて「いかなる愛情を抱いた記憶がない」少年が、自らを探し続けた彷徨の記録とも読める。

 本書が、スパイであること、作家であることを同質のものとみなし、自らのアイデンティティとして引き受けた稀有の作家の回想録とすれば、その深い味わいは尽きることがない。

  • 当サイト掲載「訳者自身による新刊紹介」もご覧ください。

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ストラングル・成田(すとらんぐる・なりた)

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 ミステリ読者。北海道在住。

 ツイッターアカウントは @stranglenarita

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