シャーロック・ホームズ最大のライヴァルともいえるソーンダイク博士の短篇全集がめでたく完結。ことクラシックミステリに関しては、時代はいい方向に向かっているといえるだろう。

■R・オースティン・フリーマン『ソーンダイク博士短篇全集Ⅲ パズル・ロック』

 
 最終巻となる本書には、第四短編集と第五短編集の二冊から全18編と付録のエッセイを収録。1922年から27年まで書かれた作品だ
 これまでの典型的なソーンダイク譚-現場に残された手がかりを科学的手法によって分析し、犯人を明らかにする-から、一歩も二歩も踏み出した作品が目立つ。時代は探偵小説の黄金期に入り、これと並走する、最も脂がのった時期の作品集といえるだろう。
 それは、ヴァリエーションの多さにも表れている。「パズル・ロック」は暗号、「疫病をまき散らす者」はバイオテロ、「バーナビー事件」は毒殺の不可能犯罪物、「バーリング・コートの幽霊」は逆さの首が浮遊する超自然現象とも見える事件、「ポンティング氏のアリバイ」はアリバイ物という具合に読者を飽きさせないことに手を尽くしている。所謂トリックを用いた短編が増えているのも特徴的だ。
 事件の性格という点では、「失踪」を入り口にしている事件が顕著に増えている。「パズル・ロック」「緑のチェックのジャケット」「フィルス・アネズリーの危難」「謎の訪問者」などがそうだ。失踪は、フリーマンが長編でも扱ったテーマだが、やはり作品の謎解き物としての高度化と無縁ではないだろう。失踪事件では、誰が犯人かよりも、「何が起こったか」が問題になる。「犯人は誰か」という直線的な謎よりも「何が起こったか」を解き明かすほうが、謎解き物としてはより緻密な構築が必要になる。「パズル・ロック」では、失踪事件から始まり、金庫で倒れていた二人に何が起こったかが問題にされる。「緑のチェックのジャケット」でも、ディーン・ホール(古代の掘削坑)で倒れていた二人に起きた事件が問題にされる。「失踪」以外のテーマでも、「砂丘の謎」は、犯人が最後まで登場すらせず、遺留品などから事件を立体的に再現してみせる話で、現代的感覚にマッチする作品だ。
 自ら開発した倒叙形式の短篇を書かなくなったのも、謎解きの高度化が難しいからかもしれない。
 おや、と思ったのは、本短篇集に入ってから、随分、「仮説」ということばが口にされることだ。例えば、「緑のチェックのジャケット」では、博士は調査の始まらない時期に仮説を立てているし、「ネブカドネツァル王の印章」では「砂上楼閣の仮説を立てている可能性もある」と述べている。仮説に比重がおかれるようになるのも、扱う事件の複雑化と関係があるかもしれない。初期の短篇では、「歌う白骨」というタイトルに象徴的なように、手がかり(「白骨」)が真相に直結する(「歌う」)という短篇が多かった。事件の複雑化によって、次第にソーンダイク博士は、仮説を立てることを余儀なくされていく。仮説を検証するために、手がかりが奉仕していくのだ。仮説を立てるためには、「構築的な想像力が求められる」(「緑のチェックのジャケット」)。分析力から想像力へ。これは、謎解きの高度化に対応するためのソーンダイク博士の手法のシフトチェンジといえないだろうか。
 惜しむらくは、シリーズの背骨ともいえる科学的手法に拘泥するあまり、ソーンダイク博士は多くの読者が知らない知識により、謎を解いてしまう短篇も目につく。フリーマンはフェアプレイを重視した作家だが、その姿勢は手がかりの真正性に置かれており、読者が知恵比べの競争相手に加わることはできない憾みがある。けれども最後の短篇「瓦礫で集めた情報」などは、読者へのフェアな手がかり提示にも努めており、短編が書き続けられれば、さらにこの点でも進化を遂げたかもしれない。
 短編としての出来栄えでは、暗号物の名作で探偵の陥った危機的状況という点でも面白い「パズル・ロック」、絶対の目撃証言を博士が法廷で打ち破る迫力に富んだ「フィルス・アネズリーの危難」、ジャーディン医師の語りで不可能的興味が持続する「バーナビー事件」、トリックが印象的だが奇妙な味のニュアンスもある「箱の中身」、箱から出てきた腕が発端で、読者の思い込みを三つながらに打ち砕く「パンドラの箱」などが印象に残った。
 ワトソン役のジャーヴィス博士、助手のボルトンはもちろん、ミラー警視や老弁護士ブロドリブといったソーンダイク博士を取り巻くレギュラー陣の個性にもなじんできたところで、短篇はこれで終了というのが残念。
 科学的捜査手法をベースに黄金時代まで書き続けられてきた作品群を総攬するなら、そこに謎解きミステリが進化発展してきた軌跡を見出すことができるし、丹念に読み込めば、そこにはミステリを魅力的なものにするいくつもの秘密が発見を待っているかもしれない。
●R・オースティン・フリーマン『ソーンダイク博士短篇全集:第1巻 歌う骨』
●R・オースティン・フリーマン『ソーンダイク博士短篇全集Ⅱ 青いスカラベ』

■R.L.スティーヴンソン&ファニー・スティーヴンソン『爆弾魔』(国書刊行会)

 
 『爆弾魔』(1885) は、R.L.スティーヴンソンの作品にしては、これまで邦訳に恵まれなかったのが不思議なくらいの密度をもった愉快な長編だ。しかも、本書には、「続・新アラビア夜話」の副題が付され、『新アラビア夜話』の主人公・フロリゼル王子の後の姿も描かれるという作品なのだ。
 『箱ちがい』『難破船』『引き潮』は、継子オズボーンとの合作だったが、本書は、スティーヴンソン夫人との合作。
 
 アラビア人の著者の作品を作者が翻訳したという体裁で語られる物語は、一筋縄ではいかない。西洋のバクダッド (ロンドン) で、仕事に行き詰まって金もない二十代半ばの若者三人が、「次に冒険が向こうからやって来たら、両腕に抱きしめる」ことを約束しあう。この三人の冒険談が本書の基層をなすのだが、彼らの冒険談には必ず他人の長い過去の物語が差し挟まれる。そのいずれの冒険にも、爆弾テロの話が関わり、オムニバス形式の話に横串がさされるという凝った構成。 読後には、ユニークな登場人物をもった長編小説の趣を備える。
 発刊と同年には、アイルランド自治運動の一派が議会とロンドン塔に爆弾をしかけるという事件が実際に起きており、ロンドンが直面する実在の脅威でもあった。
 『新アラビア夜話』では、フロリゼル王子は、ボヘミアの政権を追われ、ロンドンで煙草屋を開くという結末が付いていたが、本書の冒頭で三人が出会うのが、この王子の煙草屋(一種の喫茶店のようなものらしい)。本書では、いくつかの場面でも王子が登場し、狂言回し的な役割を果たしている。
 この小説には幾つかの階層があるが、物語としての強度をもって迫ってくるのは、三人の冒険談の中にさし挟まれるエピソード。
 最初の青年の冒険では、建物の爆発とともに逃げてきた若い娘と延々とロンドンの街を歩く付添い役となる。この娘が話す、過去の話「破壊の天使の話」が50頁弱ある。
 アメリカ西部を旅する男が餓死に直面しているモルモン教のキャラバンを助け、中にいた娘と結婚する。仕事がうまくいき裕福になった男は、やがて教団に財産を没収され、殺される。その娘は忌まわしい結婚を迫られ、命からがら脱出を試みる。この話の語り手がその娘という設定だが、真偽不明にもかかわらず、この一家に迫る魔の手の描写や常に一家を見張る「眼」のイメージをはじめ、細部が強烈な印象を残す(モルモン教は邪教めいたものに歪曲されているが、作者自身フィクションと断っているのでここは注意)。
第二の青年が遭遇するのは、「気骨のある老婦人の話」「ゼロの爆弾の話」。前者はフロリゼル王子登場の奇譚、後者は爆弾魔になりきれない爆弾魔の悲しくもおかしい語り。
 第三の青年が出会うのは、「美わしきキューバ娘の話」。こちらはフードゥー教が力を振るうキューバの島からの脱出譚。
 特に第一のエピソードが強い印象を残すが、スティーヴンソン夫人の力も与ったシェラザードたちの語りの話がそれぞれユニークで、それを支える表現もエレガント、繋がってできあがる物語にもメタフィクション的な面白さもある。重要なヒントを見逃したせいで、結末にはサプライズもあった。誠に贅沢な物語の饗宴である。女性が溌剌としていることや、曇るところのない批評精神に裏打ちされているところも本書の魅力だろう。

「僕は市民がいつの時代も自分のすぐ上にあるものを引きずり下ろし、下にあるものを餌食にするさまを見ました」

 本書は冒険を中核とした物語であるが、冒頭から探偵について多くの言及がある。

「(探偵は)紳士の唯一の職業だよ」

 猟奇耽異の冒険者は、限りなく探偵に接近するということを作者は示してもいるのだ。
 本書は、シャーロック・ホームズの第一作となった『緋色の研究』(1887、本書の2年後だ) にも影響を与えていると訳者の解説にある。それは、作者のコナン・ドイル自らが認めているところだという。なるほど、犯罪の由来が語られる『緋色の研究』第二部に、「破壊の天使の話」に舞台も筋もよく似ている。その類似は、ドイルのスティーヴンソンへのオマージュといえるほどだ。ミステリのマイルストーン的な長編に大きな影響を与えた作品としても、本書を忘れることはできないだろう。

■アンリ・コーヴァン『マクシミリアン・エレールの冒険』


 アンリ・コーヴァン『マクシミリアン・エレールの冒険』は、1871年刊行のフランスの長編ミステリだ。この長編が注目に値するのは、その主人公が、フランスのミステリ関係者の間で、シャーロック・ホームズのモデルとも目されていたからだ。『爆弾魔』と同じ時期の刊行となったことは奇遇だが、ホームズの初登場作『緋色の研究』に先行すること16年、これが本当なら事件だ。
 物語の書き手は、医師の「私」。友人に懇願されて「私」は、友人の弁護士仲間だった男の診察を引き受ける。患者は「不愉快な変わり者で、ひどく気難しい」との噂のある男だ。その男マクシミリアン・エレールは、屋根裏部屋に住み、骸骨のように痩せた体に長い外套
にくるまっている。まるで老人のように衰えているが、歳の頃は30歳くらいと見える。精神状態は安定せず、「僕にとっては、頭脳がすべてを支配し、すべてを操っているのです。ここは絶えず沸き立っている。僕を焼き焦がすこの炎は一瞬たりとも休ませてくれません」と述懐する。私は、「人間は〈無駄〉」であると考えて世間から隠遁した哲学者、夢に殺された夢想家、過剰な思索によって消耗して死にゆく思索家」の前に立ち尽くす。
 そこへ、警察が現れ、同じ建物に住む若者が富豪殺しの罪で逮捕される。若者は、富豪の邸宅の使用人で、唯一の容疑者だった。彼の冤罪を確信するエレールは、「私」とともに、事件の私的な捜査に乗り出す。
 富豪は、砒素による毒殺と考えられていた。使用人の男は、鼠採りと称して砒素を購入していたのだ。巨万の遺産は、40年近くも疎遠だったその兄ブレア=ケルガンに譲られる。
 富豪が殺害された現場は、何者も侵入できないはずの密室でもあった。
 エレールは、捜査に着手するや否や、富豪は砒素によって殺されたのではないことを見抜く。捜査を続けるうちに、エレールは変貌する。冒頭の姿とは、うって代わって活動的になり、得意の変装で私を驚かせ、舞踏会では華麗なダンスを貴婦人と踊り、謎めいた医師ウィクソン博士と賭けの大勝負に出る。冒頭で「私」が「この男はもう助かるまい」と感じたのが嘘のようだが、捜査が彼に活力を呼び戻したのだ。
 事件の謎は完全には解かれず、第二部では、エレールが富豪の兄ブレア=ケルガンの従者として、ブルターニュの地に赴き、ブレア=ケルガンの邸宅での探索がエレール自身の手紙の形で語られる。
 謎解きを主体としたミステリの観点でみると、第一部でかなりの程度、疑わしき人物が確定されており、この二部構成はいささか冗長の気味もある。作者としては、数世紀を経た古い館で、夢遊病や骸骨の発見などの尋常ならざるエレールの冒険を描きたかったのかもしれない。屋敷の周囲に出没する少年との関わりや屋敷を守護する熊・ジャッコなどの細部には印象深い点もある。謎は、犯人の告白で決着がつく。この犯人がなかなか魅力的だ。現代のひねくれた読者であれば、いささか鼻白むようなロマンティックなエピローグが付されている。
 本書は、作中では、その不可能性はあまり強調されてはいないけれども、密室ミステリでもある。(エイディの密室物集成『Locked Room Murders』では言及されておらず、英米での知名度を物語っている) その謎解きはいささか拍子抜けの気味はあるが、やはり著名な密室長編の原型といえるトリックが用いられている。
 さて、エレールは、ホームズの前身なのか。この点に関しては、訳者と北原尚彦氏の解説が詳しく分析している。どうやら、ドイルが本書を読んだという証拠はないようだ。
 筆者の感じたところを少し。エレールはホームズにもよく似ているが、別な有名な探偵にもよく似ている。ポオの生んだデュパン探偵だ。絶望の程度はより深いものの、変わり者で世間から隠遁した哲学者、憂愁の人という点では、デュパン直系だ。ホームズの造型にはデュパンの影響があることはドイルも認めているので、エレールとホームズが似てくるのはある意味当然といえる。
 一方、エレールは、捜査により憂愁が四散し活力が漲ると、変装でも活劇でも見事にこなすスーパーヒーロー的行動家である。こちらの性格は、脱獄王にして警察官に転じた実在のフランス人ヴィドック(本書にも言及がある) の影響があるようだ。エレールは、デュパン+ヴィドック的探偵として造型され、オン・オフが鮮やかに切り替わる。ホームズもその延長線上にあるとみることは十分可能だろう。ドイルがエレールをモデルにしたかは別として、後世に引き継がれる探偵の一つのタイプを生んだ点で、本書には歴史的意義があると思われる。

ストラングル・成田(すとらんぐる・なりた)
 ミステリ読者。北海道在住。
 ツイッターアカウントは @stranglenarita





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