■パメラ・ブランチ『ようこそウェストエンドの悲喜劇へ』 


 かのクリスアナ・ブランドは、この作家のことを「知り合ったなかで最も愉快な婦人」と評した由。愉快な人が愉快な小説を書くとは限らないのが世の常だが、ブランチが只者でないことは分かる。パメラ・ブランチは、47歳で早世した英国の女性作家で、遺した長編は4作と少ないが、一部には熱い支持者がいるという。『ようこそウェストエンドの悲喜劇へ』(1958) は、彼女の最後の作にして本邦初紹介作(同人誌では、小林晋訳『殺人狂躁曲』(1951) の紹介がある)。
 巻頭「フランシス・アイルズへ / 愛を込めて」という献辞に驚かされる。
 アイルズ(バークリー) は、既に実作を離れて書評に専念していた時期だが、前作がアイルズに褒められたものか、きついジョークなのか、作品への自信の表れともとれる。
 本作は、ファース (笑劇) ミステリとして一頭地を超える秀作であり、時代を考えればワン・アンド・オンリーの輝きを放つ作品である。
 舞台は、「ユー(YOU)」という雑誌の編集部。人気を誇る人生相談欄の担当者であるイーニッドが、浮気夫の改心を迫るべく狂言自殺を図る。それも、編集部のオフィスの窓を越え6階から飛び降りようとする姿を見せて。あくまでも見せかけのものだったはずが、助けようとした誰かの手が触れた後、彼女は転落してしまう。ところが、次章では、彼女は、一階のレストランの日よけに当たり、さらに人の上に落ちたので、ケガもせずに助かってしまう。ここからが大騒動だ。
 殺人を匂わすイーニッド、事故か自殺か決めかねる捜査陣、スキャンダルを利用して廃刊寸前の雑誌の売上げを回復しようとする編集長、それぞれの思惑が入りまじって、存在もしない殺人犯を推理するなど、事態はあらぬ方向へ向かっていく。
 コメディとして特徴的なのは、とにかく笑いを引き寄せようとする手数の多さ。冒頭イーニッドはオーブンの中に頭を突っ込んで狂言自殺を図ろうとしている。死ぬ気がない以上できるだけ安楽なようにクッションを敷いて。夫を愛していないが、この手しかない。これまで三人もの夫に捨てられるなんて屈辱だ。通いの家政婦には必ず発見されるはずだ。ところが、家政婦は6年間で初めて8分遅刻する。家政婦は「死んじゃいました?」家政婦の話からガス会社の労働組合がストライキをして、ガスの出の悪いことを知る。イーニッドは心の中で叫ぶ、「ガス会社の労働組合の組合員は一人残らず地獄に堕ちればいい!」ここまでわずか2頁少し。シックジョークのようなシチュエーションに、ブラックな叙述、会話が濃密に詰まっていて、「おかしみ」を連打し続ける。
 騒動になってからも、雑誌社の面々は編集長をはじめ、出てくる人物は奇人揃いで、緩むことなく、濃いギャグ空間は維持されていく。
 イーニッドの代わりに人生相談を担当するのが、編集部員の弟の男性バレエ・ダンサーだが、どんな間抜けでも人生相談欄を担当するなんて簡単とばかり、編集部員はイーニッドのつくりあげた「相互参照システム」が紹介するが、これがケッサク。「母・未婚・白人」「父・渋っている」といったキーワードを紐で結び、交差したところに、定式の人生相談の回答が現れるというシロモノ。
 騒動が「ユー」の読者層にも及び、「ユー」へのいちゃもん組の面々が全土からロンドンに集結する辺りは、大騒ぎも最高潮。キャラクターとしては、故障したエレベーターに閉じこまれながら、記事を書きまくり、事態を扇動する犯罪記者がとにかくおかしい。
 一見ハチャメチャに騒動は広がっていくようだが、「自殺」「偶発事故」「殺人未遂」のうち、どれか得か (これがコロコロ変わる) の観点に立って登場人物は論理的に行動するから話の筋道は立っているし、先のできごとが後の伏線になっている個所も多い。さながら、イベントがたくさんあっていくつもの脇筋が本流に回帰してくるドミノ倒し的装置を見ているようで、これはミステリ作家ならではの構成の勝利だろう。
 ウッドハウスより狂騒的で、イヴリン・ウォーより親しみやすく、ジョイス・ポーターより品がある。
 狂騒は続くもののどぎつさはない。映画にしても抜群に面白い物になりそうだが、このウイットに富んだ「おかしみ」の連鎖は、活字だからこそという気もする。活字によるスラプスティック。もっと、ブランチを。

■フレデリック・ダール『夜のエレベーター』


 最近クラシック発掘に力が入っている扶桑社文庫から、フレデリック・ダールの作品の刊行だ。ダールは、サン・アントニオ名義で書いたサン・アントニオ警視物でフランスのベストセラー作家でもあったのだが、わが国では、主に1980年代に『甦える旋律』『並木通りの男』『蝮のような女』等のトリッキーなサスペンスが紹介されており、懐かしの、という言葉が思い浮かぶ。本書は、シムノンのメグレ警視物をはじめフレンチミステリの紹介に尽力し、9年前に亡くなった長島良三氏が出版の予定もなく訳していたという。氏の本作品への入れ込みが判る。
 本書は他のダール作品同様、200頁強の短めの長編。主要登場人物は、わずか5人。ときはクリスマス・イブ。6年ぶりにパリ郊外のかつて住んでいたアパートの部屋に戻ってきた青年アルベールが語リ手。彼は、既に母を失い、孤独をかみしめていた。アルベールは、ビヤホールで、3、4歳の娘を連れた若い母親に出逢う。彼女はかつての恋人に似ていた。一瞬で彼女に惹かれたアルベールは、映画館まで二人をつけ、隣の席に座ると彼女の手を握る。と、彼女もそれに応えてきた。アルベールは母娘と彼女の家へ向かう。
 イブの夜、孤独な魂が身を寄せ合うような場面は、アイリッシュタッチというか、甘く抒情的。
 この後を詳しく書くと興味を削ぐことになるが、不可解な死と不条理なできごとが待ち構えている。アルベールは、さながら不思議な世界に迷い込んだようになる。
 本書の起承転結は、実に鮮やかだ。運命の出逢いを描いた「起」、そのあとに起きる殺人と不条理の「承」、さらに大きく事件が旋回する「転」、主人公が運命に身を任せる鮮やか「結」。
 作中には、大胆なトリックが用いられている。それは類例のあるものだが、こういう見せ方、書き方もあるのかというところに、本格ミステリファンも驚きを感じるだろう。仕掛けが明らかになるや、主人公が陥った不条理の霧が払われるごとく、一切に合理的説明がつく点も優れている。そのことが、登場人物のより深い孤独と愛を際立たせているのも特筆に値する。一つの仕掛けを操って、登場人物の心理的な綾まで含めた精妙な物語を組み立てた本書は、技巧に優れたこの作者にとっても会心の出来栄えだろう。クリスマス・イヴから翌日にかけての一日で語り終えられるクリスマス・ミステリとしても屈指の作。
 フレンチ流サスペンスミステリ、ミーツ、本格ミステリといった趣のある秀作だ。 

■ドナルド・E・ウェストレイク『ギャンブラーが多すぎる』


 新潮文庫も、ライオネル・ホワイト『気狂いピエロ』に続いてクラシックなミステリを「攻めて」きている。これも、ファンには嬉しいきざし。
 本書『ギャンブラーが多すぎる』は、1969年の作。『我輩はカモである』(1967) でMWA賞を受賞した後の作品だけに、作者の脂がのった時期の作品だ。ウェストレイクには、初期作やリチャード・スターク名義の「悪党パーカー」シリーズのようなクールでハードな作品もあれば、ドートマンダーシリーズや『我輩はカモである』のようなコメディ路線の作品群もある。本書は、後者の犯罪コメディ路線の作品。
 ギャンブル好きなNYのタクシー運転手チェットは、客から入手した裏情報で競馬の大当たりをとり、配当金を受け取りにノミ屋のトミーを訪れるが、彼は射殺されていた。容疑者の筆頭にされた上、二つのギャング組織から追われることになったチェットは、トミーの妹と組んで真犯人を探すことになる。
 チェットは、『我輩はカモである』の主人公に比べれば、頭も切れ、しゃべり上手、当然ワイズクラックも冴えている。数々の危難にも遭遇するが、機智と行動力で乗り越える。危機に遭遇するたびに、「ロバート・ミッチャムなららどうする?」と往年の名俳優の名を内心つぶやくのがおかしい。
 そのバディ役となるトミーの妹、金髪のセクシー美女のアビーは、ラスヴェガスのブラックジャックディーラーというつわもの。最初こそ、チェットを警戒するが、次第に心を開き、二人の仲が深まっていくところも本書の読みどころだ。
 前半こそ、組織に拉致されたり、銃弾が飛び交ったり派手な展開が続くが、チェットが怪我をしてトミーの部屋に舞台が移ってからは、二つの組織のボス(キャラの立っていること ! ) が交互に顔を出すなど、舞台劇のような展開が150頁くらい続く。ここでのドラマづくりは、作者の腕の見せ所でもあり、多彩な登場人物の出入りにチェットは「ネロ・ウルフになったような気分だ」とつぶやくのが笑いを呼ぶ。
 ウェストレイクは、タッカー・コウ名義の『刑事くずれ』シリーズや中編「殺人はお好き」でも分かるとおりパズラーも能くする作家であり、犯人探しの興味も、つけたりになっていない。60年代も末の小説なのに、伝統に敬意を表して、容疑者を集めてのクラシックな犯人当てとなり、推理は弱いものの、ちょっと類のないような犯人の指摘をしてみせる。
 ギャンブルシーンの楽しさ、美女との恋愛、脱出や逃亡のアクション、最後の謎解き興味まで加わって、笑いとサスペンスを詰まったプロフェッショナルの語りを堪能できる一冊だ。
 巻末に付された作者の著作リストは、15頁にも及ぶ労作。広大なウェストレイク世界への良き入り口にもなるだろう。願わくは、未訳作が引き続き紹介されますことを。

■レオン・サジ『ジゴマ』(上・下)

 国書刊行会からは、「ベル・エポック怪人叢書」が発刊。フランスのベル・エポックの三大怪人ともいうべき、ジゴマ、ファントマ、シェリ=ビビが一挙紹介されるとのこと。その第一弾は、ジゴマ!
 『ジゴマ』は、1909年から1910年にかけて、レオン・サジによって、フランスの大衆紙に連載された。その反響たるやものすごいもので、本書解説によれば「ジゴマの名前を聞いただけで何百万の人々が色めきたった」(当時の大衆紙) という。この大成功は、映画化にも引き継がれ、極東の島国にも影響は及んだ。少年たちの間では、ジゴマごっこが大流行し、眉を顰めた当局は、1912年に上演禁止とした。このとき、ジゴマ映画を感激して観たのが、少年期の江戸川乱歩。同じ映画を三晩続けて観に行ったほどの熱狂ぶりだ。彼の創造になる怪人二十面相に、ジゴマの影響が指摘されているのは、当然のことといえよう。
 我が国への小説の紹介では、久生十蘭の『ジゴマ』ほかがあるが、十蘭版は、原作の6分の1程度の抄訳・翻案になっているといい、完訳ははじめてのことだ。
 さて、ジゴマは、いったいどんな怪人なのか。
 紳士強盗ルパンと異なり、殺人、強盗はお手のもの。犯行現場には、常にZの印を残し、犯罪集団Z団を率いて、フランス全土を震撼させる。しかし、Z団のメンバーですらジゴマの正体を見た者はいないという、不可視の怪人なのだ。アジトでの合言葉は、「ザラヴィ!」(Z、生きている限りは!) 、「ザラモール!」(Z、死ぬまでは!) と恰好いい。ちなみに、ジゴマの登場は、英国の怪人フー・マンチューの登場より数年早い。
 欧日同時多発的に、このダークヒーローに席巻されたことは、大衆の欲望のありようを示すようで興味深い。人々が熱狂したのは、ジゴマの悪辣ぶりであり、これまで見たことがない暗黒のヒーローの新奇性がそこにはあったと思われる。ジゴマは、我々が少年時代に熱狂した怪人たちの元祖に当たる人物なのだ。
 そんな怪人のプロトタイプを生んだ小説『ジゴマ』は、といえば、日本の単行本にして1000頁を超える大作。新聞連載小説らしく、整然としたプロットは放棄され、読者の要望に応じてのものか、あるいは終結を回避するため、サイドストーリーが多く、うねうねと話は続いていく。
 ジゴマに対峙する正義のヒーローは、ポーラン・ブロケ刑事長。自らに属する「ブロケ精鋭部隊」を率いし、勇猛果敢にジゴマに挑んでいく。悪の巣窟に単身潜行も辞さない冒険好きで、変装の名人でもある。
 冒頭の事件は、モントルイユ銀行頭取殺害未遂。当初は、没落貴族フォスタン・ド・ラ・ゲリニエール伯爵が犯人として名指されたが、不思議なことに頭取は前言を撤回する。頭取は死に、事件の真相は闇に葬られるが、ポーラン・ブロケ刑事長は事件の背後にジゴマの存在があることを確信する。この後、事件の真相を知ろうとする頭取の二人の息子、伯爵が狙いをつけている悲運のお針子リリーら多数の登場人物を巻き込んでスケール大きく物語は展開していく。ジゴマの正体は、伯爵とみなされるのだが、事件が起きるたび、歓楽にいそしんでいる伯爵の姿があるという不可思議。
 ジゴマ対ブロケの闘争を軸として、剣による果し合い、地下採掘場でのZ団の集会、ブロケがあえぐ恐ろしき拷問機械、数々の恋愛模様といった要素を織り交ぜ、登場人物を増やしながら物語は進んでいく。ジゴマvsブロケの構図が繰り返され、両者ともに変幻自在の変装を披露するため、次第にシチュエーション・コメディめいた雰囲気が漂ってくるのはやむを得ないこととはいえ、著者の意図したことではあるまい。
 多少辻褄の合わないところもあるが、物語は、頭取の変節の謎にも決着がつき、3組のカップルの結婚式が行われる大団円となる。しかし、ジゴマは? ジゴマは、ブロケの手を潜り抜けてしまうのである。それに、物語半ばから登場する、輝くような赤銅色がかったブロンド髪の女の正体も次巻以降に持ち越しとなるのは、いささかずるい。
 意外なことに、ジゴマは、冒頭の銀行家殺人事件以降、組織犯罪ともいうべき大規模な事件を起こしていない。散発的に起きる事件の動機は、個人の資産の簒奪といったようなドメスティックなものであり、犯罪集団のことごとしさや好敵手ポーラン・ブロケ刑事長を葬るための情熱とは、ちぐはぐな印象を受ける。作者がジゴマを延命させるため、家庭小説的な素材をを膨らましたせいともいえるが、悪の徹底、強烈な残酷さという点では、ジゴマの2年後に現れた犯罪の天才『ファントマ』に一日の長があるというべきか。
 小ネタを一つ。作中、トム・トゥウイックなるアメリカの名刑事が出てくるが、彼はシャーロック・ホームズと一緒に仕事をし、ニック・カーターは自分の弟子と豪語する。つまり、ジゴマは、ホームズと同じ地平に存在しているわけだ。

■ジェレット・バージェス『不思議の達人(下)』


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 「クイーンの定員」第50番に選定された短編集『不思議の達人』の下巻(原作は、一巻本。『不思議の達人(上)』)。
 21世紀初頭のNYを舞台に、東洋の預言者を自称するアストロが、金髪碧眼のかわいらしい娘ヴァレスカとともに、様々な謎に挑んでいく。下巻に入って、この異色の短編連作は、他のシャーロック・ホームズのライヴァルたちとは、かなり異なった相貌を見せていく。
 「暗殺者クラブ」婚約者の海軍大尉のもとに「暗殺者クラブ」への招待の手紙が舞い込む。アストロによるヴァレスカへの探偵指南の一編。暗殺者クラブの正体には、拍子抜けするか、微笑むか。
 「メリントン家の幸運」子どもが拾ってきた大きなオパールと人間の黒い手の謎。謎には、メキシコの皇帝から与えられた褒章にまつわる奇譚が関わっていた。
 「伯爵の喜劇」依頼人の姉に盗品を押し付けたシルクハットをかぶったゴリラ!の謎。なにせ、そのゴリラはピーターパン風の襟をつけ、赤いネクタイをしており、「x二乗たす2xyたすy二乗」と暗誦したというのだ。珍妙の二乗のような謎だが、一応合理性のある謎解きが示される。アストロの変装も見所。
 「プリシラのプレゼント」脈絡のない謎のプレゼントを贈られ続ける女。エラリー・クイーンも得意だった「謎の贈り物」プロットの原型のような作品。真相は他愛ないが、冒頭のチェスのナイト(騎士)の動きから女性の思考、さらには東洋人の思考に至るエピソードが効いてくる。事件の影響により、アストロのヴァレスカへの思いも、一歩の踏み込みがある。
 「『ソーソイド』の跡継ぎ」赤ん坊の取り違えにより、真の跡継ぎが不明なことを知った富豪。アストロの解明は、当時としては、科学的なもの。
 「二人のミス・マニング」地下鉄の窓越しに助けを求めた美少女に一目惚れした男は、アストロに尽力で彼女を見つけるが、彼女にはさらなる謎があった。解決は、現代では常識的な知見に基づく。
 「ヴァン・アステンの訪問客」弁護士のところに突然、姉を名乗る初対面の女が現れる。女は何が目的なのか。女の目的はひとひねりしたものだが、姉を名乗った理由は最後までよく判らない。
 「ミドルベリー殺人事件」本書では珍しいオフィスビル殺人の犯人探し。犯人は意外だが、手がかりはアストロだけが握っている。
 「ピー・ロー・ヌーの復讐」結婚式前日に失踪した花婿の謎。突拍子もない解決だが、ラストの高揚感がおかしい。
 「モグラ色の淑女」 劇作家の周囲に毎日のように現れるモグラ色の服を着た女。彼女の狙いは。目的に対してひどく迂遠なアプローチではある。
 「ステレリー夫人の手紙」夫人を賛美する手紙を送り続けるのは誰なのか。これはなかなかの着地。
 「ブラック・ライト」最後の一編は、アストロとヴァレスカの微妙な恋愛関係に決着がつく話。ブラック・ライトという特殊な光をつくり出す実験の後、アストロは失踪し、ヴァレスカは、精神活動の赤外線の部分に潜む見えないものを見出すように彼を探そうと試みる。
 
 アストロとヴァレスカが挑むのは、不可思議な謎ばかりだが、その解決はおおよそ謎解きミステリとして優れているわけではない。後半に至っては、ネタ切れもあるのか、全体が冗談のような、いい意味で底が抜けた感がある。作者は、意想外のシチュエーションを創造し、そこにアストロとヴァレスカを遊ばせることに力を尽くしている。 
 二人の恋愛模様も添え物ではなく、物語全体の眼目でもある。
 「君が最大の謎だな」(「プリシラのプレゼント」) とアストロはいい、反対にヴァレスカは不可解で謎めいたアストロの内省と思索には近づけない。
 「男は誰でも理解してもらいたがっているということ、そして女は誰でも誤解してもらいたがっているということさ」(「プリシラのプレゼント」) とアストロはうそぶく。アストロもヴァレスカもその内面や過去が描かれず表層的な存在ではあるものの、惹かれあいながらも、理解できない男と女という最大の謎を体現しているだけあって、ラストの「ブラック・ライト」は感動的なフィナーレになっている。
 21世紀初頭のNYに不可思議な事件が次々に起こり、不思議な男女の結ぼれと謎解きを描く『不思議の達人』には、ほかでは味わえないファンタスティックな冒険譚の輝きがある。

■ピエール・マッコルラン『北の橋の舞踏会 世界を駆けるヴィーナス』


 フランスの作家、マッコルラン・コレクションの第2巻。マッコルランは、1883年生まれの作家・詩人。澁澤龍彦やセリーヌが称賛し、マルセル・カルネ監督、ジャン・ギャバン主演の『霧の波止場』の原作を書いた作家というだけではその輪郭がつかめないが、帯に「夜と海と砂丘の探偵小説」(『北の橋の舞踏会』)「推理小説の要素を兼ね備えた傑作長編2編」とあっては、読んでみずにはいられない。結果として、帯の惹句は、ミスリードのように感じたが、奇妙な世界に誘われ、魅惑の読書体験に導いてくれた。
 『北の橋の舞踏会』(1934) は、ベルギーのフランドル地方が舞台。主人公の作家が海岸のひなびたホテルに滞在し、一次大戦でドイツ軍の支配下にあったベルギーの主要港セーブルッヘに英国軍が企てた奇襲「セーブルッヘ襲撃」について著作を物しようとしている。主要な登場人物たちは、この襲撃に何らかの形で関わっているが、その全容はなかなか明らかにならない。この奇襲に関わって一人の女の存在が浮上してくる。女はスパイだったのか。一見、謎解き物の構えをもっているが、最後に至っても真相は曖昧模糊としている。
 ドイツ軍による占領下では、ある意味奇襲作戦よりも熾烈な抵抗戦が繰り広げられた過去があり、戦争が終わった今もなお多くの人が口を閉ざしている。英国海軍の出身で宿の主人が語る女の肖像が魅力的で、真相が示されないことによって、ありえたかもしれない可能性の中で女性の鏡像が無限に乱反射していく。誰もが秘密を抱える中で、ことの真相を探ろうとする本作は、小説としては「何も起きない」小説だが、エリック・アンブラーらによるジャンル確立以前のウル=スパイ小説のような趣がある。
 『世界を駆けるヴィーナス』(1923) のほうは、一人の謎の女性を巡る小説。パリにほど近い農村で、画家の弟と暮らす主人公ニコラは、大衆向けの冒険小説を書いて身過ぎ世過ぎをしている。あるとき、主人公の前に美貌の女行商人が現れる。女は、海から現われでたアフロディーテのような抜群のプロポーションをもち、異国では「世界駆けるヴィーナス」の異名をもつ。ニコラは、「ヴィーナス」(クロード) と恋愛関係に陥るが…。
一応の筋はあるものの、筋そのものより表出された言葉を味わう類の小説だろう。ロシア革命と第一次大戦直後という大転換期の不安と諸相を鋭利な観察眼と洞察で見つめた作品だ。新旧勢力の対立、階層単位で進む国際化、(意外なことに)インテリの没落と農民階級の勃興、テクノロジーの革新等が繰り広げられる「現代世界」は変革の予兆に満ちている。
 クロードは、何らかの組織に属しているようだ。(その黒幕を巡って、チェスタトン『木曜の男』に言及があり、ドキッとする) ニコラは、世界を変革する女スパイとしての役割をクロードに託す。

「祖国を失ったきみは、文明を導くすぐれた送電線のようなものだ。ほかにもきみのような送電線があって、五大陸じゅうに強力なネットワークを張り巡られせている。そして配電システムが完成したとき、ぼくのような静かに暮らす名もない男たちが、世界中でいっせいにスイッチを入れるだろうさ」

 この新しいテクノロジーを媒介にした奇想、現代とダイレクトに接続するような予言的ヴィジョンがこの小説の魅力だ。しかし、物語が進むにつれ、ニコラの版元は売りに出され、農村における地位も失っていく。これは、ニコラのヴィジョンの破産を意味しているのだろうか。
 作中には、「首になった大学教師、本を出せない文学者、概して才能に恵まれない芸術家たち」からなる「うらなり団マルグラ」という集団が出てくる。彼らは、フランス中を飢えてさまよう1500人を超える一群だ。一部の集団は、「呪われた詩人サーカス団」を結成し、百姓相手に痛ましい芸を披露する。小説では読んだこともない異形の集団で、おかしくもグロテスク。ここにもマッコルランの特異な感性が表出している。

ストラングル・成田(すとらんぐる・なりた)
 ミステリ読者。北海道在住。
 ツイッターアカウントは @stranglenarita


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